FC2ブログ
ホーム   »  
 | 

子はかすがい?

中国朝鮮族である妻の親戚夫婦に20歳になる一人娘がいて、今年の5月に留学しているアメリカの大学を卒業する。
彼女は化学者への道を歩んでいて、あと5年間、大学院での博士課程に進む。

すでにイエール大学、コロンビア大学の合格が決まり一族で喜んでいたのだったが、つい先日、ハーバード大学、続いてスタンフォード大学からも合格通知が届いた。
合格と云っても単なる合格ではないことを知って驚いた。

どの大学も今後5年間の授業料は全額免除なのだが、イエール大学の場合は、在学中は年間3万6000ドルが支給され、住宅も与えられる。
コロンビア大学の方はもっと待遇が厚く、年間支給額が4万1000ドル、高級住宅を保障してくれて、学部長の研究室付きというものだ。
スタンフォード大学は4万6000ドルを提示している。
ハーバード大学からの条件は間もなく届くことになっているようだ。
各大学共に合格というよりもまさにリクルートである。

本人の優秀さもさることながら、アメリカという国の人材育成あるいは才能確保のための投資の凄さが分かる。
アメリカに世界の頭脳が集積されるのも頷けるし、これが大国アメリカの底力というものなのだろう。

彼女は中国の東北地方で生まれ、朝鮮民族の小学校に通った。
2年生の時、教師から理不尽な叱られ方をされたと納得できずに登校拒否を始めた。
親戚夫婦の一族はその地方の有力者だったこともあり、その教師と校長が家に謝りに来たというが、本人は登校を拒否し続けた。

仕方なく母親は漢民族の小学校に転校させる。
中国に住んでいても朝鮮族で中国語とはほとんど無縁だった娘は、それまで韓国語しか話せなかったのだが、言語のハンデはすぐに乗り越えて、瞬く間に学年で一位の成績をとるようになった。

3年生の時に娘は突然母親にこんなことを言ったという。
「お母さんは私にどんなことをやって欲しいと思っているのか、云って欲しい。どんなに欲張ったことでも良いから」
母親は「国連のような国際的な組織で、何か人の役に立つ仕事ができるようになって欲しい」と応えたという。
娘は「うん、分かった」とだけ答えた。

娘の登校拒否以来、母親は娘の教育に本格的に取り組み始め、中学校からは、家から遠く離れた天津のインターナショナルスクールに入学させ、夫と別居して、つきっきりで娘の面倒をみることになる。
成績優秀だった娘は1年間の飛び級をしての入学だったが、その学校でもずっと1番の成績をとっていたらしい。

ボクがその娘に初めて会ったのは、10年近く前、天津の義兄夫婦の家に兄弟親戚が集まった時だったが、何やら分厚い本を読んでいて、何かと思えばハリー・ポッターの英語の原書だと分かり、へぇーと思った記憶がある。
彼女がまだ中学校に入る前だった。
妻が「大学はどこに行くの?」と聞くと、即座に「ハーバード大学」と当たり前のように答えていた。

その時に弾いてくれたピアノの上手さにも驚いたものだ。
昨年、娘が日本に遊びに来て一緒に食事をした時に言っていたが、ピアノを弾いているお陰でコンピューターなどのキーボードを誰よりも速く打てるそうである。

そんな彼女だったが大学受験で思わぬ落とし穴に陥る。
志望していたハーバード大学に入れなかったのだった。

真偽のほどは分からないが、本人が言うには、学力には問題なかったが、ハーバード大学クラスの名門校は学力だけではダメで、高校生時代のボランティア履歴が必要だったらしい。
中国にはボランティアの考えや制度など無い。
やむなくボストンカレッジに入り勉学の傍ら土日も休むことなくボランティアに励んだようだ。

こうして今回、めでたく大学院からは念願のハーバード大学あるいはスタンフォード大学等々の名門大学に行けることになったのだが、周囲の大喜びにもかかわらず彼女は至って淡々としているらしい。
やっとスタート地点に就いたばかりで、これからが本番だとの感覚なのに違いない。

この娘の合格を誰よりも喜んでいるのは母親だった。
孟母三遷ではないが、娘の登校拒否事件以来、彼女は夫の存在を顧みずに、ずっと娘のためにだけ過ごして来た。
夫婦は形ばかりで遠く離れて暮らしていて一緒に過ごす時間も少なく、当然のことながら、夫婦仲は次第に冷えて行く。

結局、念願のハーバード大学には入れずに留学してしまい、何か面目無さを感じ、また娘が自分の手元から離れたことで、母親は自分の生きがいを一瞬にして見失い、戸惑ってしまう。
娘の勉学のために、夫の住む故郷から遠く離れた天津にわざわざ購入したマンションでの一人での暮らしも、娘が居なくなったことで、その意味を失ってしまった。

さりとて、面目を失ったいま、すでに心の離れた夫のもとに戻る気持ちにもなれなくなっていた。
そして、ボクの妻を頼って東京に身を寄せることとなる。

日本での就労ビザを得て働くことになったが、何か虚しい日々を送ることとなる。
娘の将来に夢を託しつつも、自分自身の生き方を見失っていた。

大学の授業料だけでも年間800万円、生活費を含めると相当な大金となる。
いかに良家の家庭で育った高給取りの役人をしている夫とはいえども、その負担は半端な額ではない。

一族の中からの、何もそこまで無理をして娘をアメリカまで留学させることはなかったのに、というまるで母親を責めるかのような声も聞こえてくるような気配も感じる。
これからの自分自身の人生をどう生きれば良いのか、母親は自信喪失と迷いの中で苦しむ4年近くの毎日だった。

そんな状態の中での今回の各名門大学からの合格の知らせだった。
合格というよりもぜひ入学して欲しいとの強い願いを込めた要請そのものである。

この事実がすべてを変えることになる。
これまで、財産の多くをつぎ込むような留学に疑問を持っていた周囲の人たちの母親への評価が、あっぱれ、良くやった、に変わるし、娘の才能を見事に開花させた賢母ということにもなった。

夫も、これまでの苦労が報われた、と喜んで妻に心を開き始めた。
一時は今後の身の振り方について彷徨っていた母親も再び自信を取り戻すと共に、ついに夫のもとに戻る決心をすることになる。

娘の才能と努力が生み出した結果が、図らずも両親を元のさやに収めることとなった訳である。
昔から子供は両親のかすがいと言われるが、その典型例の一部始終をボクは見てきたことになる。

「将来アメリカに永住するであろう娘が、時には帰省できる両親の居る故郷の家が無いと可哀そうだから」というのが、母親が夫の元に戻る一番の理由であるようだ。
どこまでも娘のために生きる覚悟である。
これが母の愛というものなのだろうか。

「これからは、これまで大きな迷惑をかけてしまった夫にも尽くして行きたい」とも言うが、果たして、この一家に思い描くような平穏な日々が待ってくれているのだろうか。

人はどのような生き方を選択しようと、どのような生きがいを見つけようとそれは自由だ。
しかし、そのために必要な条件があるとボクは思う。

それは自立の精神である。
どんな状況でも振り回されることのない確固とした自立の精神だ。

自分が本当は何がやりたいのか、どのように生きたいのか、を決めてそれを生き切る。
それを支えるのが、あらゆる束縛から解放された精神の自立である。
それは無頼の精神でもある。

この夫婦と娘一家の今後の幸せを心から願わずにはいられない。

   「世に生きる 他に生きる 自分を生きる」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。


2020年はどんな年になるのだろう?

つい先日、何気なくテレビを見ていたら、大手150社88万人の暮れの平均ボーナスが95万円でこれまでの最高額だった、とのニュースが流れていた。
ボクにはそのニュースを報道している側の意図が何処にあるのかがまったく分からなかった。

景気が良いとのアピールなのか、それとも大企業の礼賛なのか。
しかし、実態を見れば、現在の日本の就労者人口は約6800万人、ニュースで取り上げられている恵まれた88万人は全体の就労者の0.013%弱のごく僅かな人びとでしかない。
圧倒的多数の人たちは、そんな恩恵に浴していないのである。

政府から与えられたネタを、その意味を考えることもなく、ただ垂れ流しているだけの報道の在り方に、あーあ、またやっているな、とも思う。
苦労している国民は利口だから、そんなことは見破っているに違いなく、だからテレビは駄目だと言われてしまう。

と、まあそんなことが続く世の中だが、いよいよ今年も暮れる。
今年一年、ボクたちの会社を見れば、良いことも思わぬ出来事もあったが、結果的には発展的要素の方が勝っていた一年間であったと思っている。

決算の方も、僅かであるが増収増益で税金を納めることが出来たし、世代交代を踏まえて組織の若返りの歩を進め、社内の雰囲気も活性化したと思っている。
恒例の忘年会も盛会のうちに終えた。
おかげ様で大きなつまづきも無く、まずまずの年だったと感謝している。

暮れに、知り合いの方からNHKホールでのN響コンサートのチケットを頂き、初めて第九を聞くこともできた。
もともとボクは天邪鬼なのか、一糸乱れぬとか、号令一下の集団行動とかが性に合わないので、合唱団に興味が無かったのだが、すべての演奏が終わった時に感動に包まれていつまでも拍手し続けていた。
あれほど長く拍手したのも生まれて初めてのことである。
意外な自分に気づいて我ながら驚いた。

さて、来年は9月初旬まではオリンピック一色の年となる。
何事も無く静かにお祭りが終わってくれることを願っている。

問題は、祭りの後である。
ほとんどの制作会社は、来年の10月以降をどのように生き抜くかに焦点を当ててその準備に取り掛かっていることだろうと思う。

しかし今日からは、すべてを忘れて、正月を楽しむことにしよう。
何事もそれからだ。
みなさまも良いお年をお迎え下さいますように。
年明けにまたお目に掛かれることを願っています。

    「初夢に 一年の計 寝正月」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。



大廃業時代の到来

今年もいよいよ押し詰まって来たが、いま中小零細企業の倒産が増えている。
そして同時に、表向きは倒産ではないが、実は隠れた倒産というケースが増えているようだ。
それが廃業である。

廃業の理由はさまざまで、後継者不足の場合も多いと聞くが、先行きが不透明で営業を続行すれば倒産の危機を迎えると判断した経営者が、まだ余力のあるうちに会社をたたむことも多いらしい。
中央と地方都市との経済格差も大きく、特に地方での廃業が多いとも聞く。

ボクは経済などについては何も分からない町場のオッサンだが、現在の景気が良くないこと位は実感として分かる。

経済成長率も1990年の6.2%を最後にこの30年間で0.7%まで下がっている。
しかし、これは日本だけではなくて、アメリカやヨーロッパなどの先進国で共通した現象らしい。
その理由として、先進国の需要不足や貯蓄超過が原因との見方がある。

日本を含めて先進国では一様に少子高齢化が進んでいて、人口が減少している。
当然の結果として、需要が伸びない。

さらに、かつては一億総中流社会と言われた日本だが、今や欧米諸国同様の所得格差の社会に変貌、貧富の差を生み出し、多くの富が富裕層に集中するようになってきた。
一般的に富裕層は総資産に占める消費の割合が低いので、経済全体で見たときに貯蓄が増加することになる。
庶民も年金等々を含めた将来不安から消費を控え貯えに回し、大企業は労働者の賃金を棚上げし膨大な内部留保を抱えて貯蓄を増加させている。

併せて投資の伸び悩みもあるようだ。
IT化が進み、今ではパソコン一台で起業できる時代となり、初期投資に莫大なお金を必要としなくなった。
つまり、企業も人びともお金を使わないので、経済の血液であるお金が循環せず慢性的な経済停滞状態を生み出しているようだ。

こうした構造的な不況の下で、生存競争が激しくなり、時代に取り残されたり、経営方針を見誤ったり、あるいは不運に見舞われるなどのさまざまな理由で倒産や廃業に追い込まれる中小零細企業が続出している。
ボクたちも決して他人事ではない状況である。

こうした倒産や廃業の裏に政府の思惑が大きく働いていると思える。
かつて不況の際には政府自民党は中小零細企業に惜しまず資金援助のための施策を繰り出して来たが、現政権は動く気配はない。

生産性と効率をスローガンにしている政府は、生産性が低く、効率の悪い中小零細企業の倒産、廃業を已む無しと考える。
と言うより、そんな動きを促進させようとしているかに見える。
そして、そこで生み出される労働力を、より生産性の高い、効率の良い企業に吸収させることを狙いとしている。
こうして、強い企業だけを生き残らせることによって日本経済の活性化を図り、国際競争力を強めようとしている。

ところで大企業の定義は業種によって異なるなど、やや曖昧だが、一般的には資本金3億円以上、従業員が300人以上の会社を指すようだ。
日本には380万社余の企業があるが、その99.7%が中小企業で大企業は1万2千社で全体の0.3%でしかない。

しかし、平成27年の日本企業全体の売上は約1625兆円だが、トヨタの約30兆円を筆頭に大企業売上ベスト200社だけでも503兆円を超える売り上げ高があり、大企業が1万2千社もあるのだから、正確なデータは手元に無いが、少なくとも日本の売上の60~70%は占めているだろうと推測できる。
そして大企業には日本の会社員の30%弱、70%が中小企業に属する。

政府は当然のことのように、稼ぎ手であるそんな大企業を大切にし、税金面でも優遇していることは周知の事実だ。
それに大手企業は、グローバル市場を舞台として無国籍化してゆき、税制の欠陥や抜け穴を巧みに活用して節税を行い、課税逃れを行っている。
これが、日本の財政赤字の原因となっているとも言われている。

ずいぶん前に、トヨタや新日鉄などの基幹産業の多くが実は税金を払っていないのだよ、とさる筋の人に教えられたことがあったが、本当のことかもしれない。
そして大企業の内部留保は今や500兆円を突破したと言われている。

俯瞰で見れば、こうした大企業の存在が日本経済を大きく支えているのが現状かもしれないが、企業の会社数では99.7%、社員数では70%を占める中小零細企業の存在なくしては日本経済の未来はないことも確かだ。

倒産や廃業が続き生産性と効率が求められる、弱肉強食の世の到来にどう対応して行けば良いのか。

ボクたちがやらなければならない基本は誰に教わる必要もない位に明らかだ。
時代の流れを正確に把握し、その流れに対応した動きをすることである。
具体的には、世の中が求めているニーズに応えることにより、自分たちの存在の意味を明確にすることである。

しかし同時に、やらなければならないことがあるとボクは思っている。
嘆いていても何も始まらない。
こういった益々不公平で矛盾に満ちた世をどう変革するかを考えることである。

弱い立場に居る者たちも平気で普通に生きられる共存共栄の世を目指し、しぶとく生き延びながら、決してボクたちが羊たちの群れにならない覚悟だけは持っていたい。

      「メェーメェーと 吠えてるだけの 負け戦」





にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。





テレビ屋の宿命

日本でテレビ放送が始まったのはボクが小学生上学年の頃だった。
当初はテレビ受像機を持っている家も少なくて、ボクの家にテレビが来たのは中学生になってからだったと思う。

テレビ放送局はNHKと日本テレビと東京放送だけで、放送時間も短かいものだった。
テレビ受像機もとても小さく、白黒放送だった。
当時は劇場映画が盛んな頃で映画人からは電気紙芝居などと揶揄されていた。

その頃は将来、自分がテレビ局で働くことになろうとは夢想だにしなかったが、テレビ屋になってすでに50数年、今もテレビに明け暮れる毎日だ。

しかし、この間にテレビもそれを取り巻く環境も大きく変化した。
家庭の娯楽の中心だったテレビは核家族と少子化、さらに経済成長と相まっての家族団らんの消失と共にその王座を追われた。
インターネットとスマホの出現でテレビ受像機を持たない若年層が圧倒的に急増し、テレビ視聴者層の高齢化が進む一方だ。

今や既成のテレビ局とは別にインターネットテレビが若者たちを捉えている。
俗にGAMFAと称されているグローバル巨大IT企業群が動画配信業界を牛耳り始めている。
GAMFAとはGoogle・Apple・Microsoft・Facebook・Amazonの頭文字を取ったものだ。
遅ればせながらソフトバンクとLineが経営統合し、その仲間入りを目指そうとしている。

公共放送NHKは国民から視聴料を得て成り立っている日本最大の有料テレビ局で、一方民放各局は企業からのスポンサー料で成立しているが、これまで日本のテレビ業界を中心とする映像業界は国内の顧客だけを対象に展開して来た。
日本の人口は現在1億2614万人で毎年30万人ほど減少し続けており、市場としては決して大きいとは言えない。。
しかし、一方、世界数十億人の視聴者や利用者を相手に事業を展開するGAMFAを初めとするグローバル巨大IT企業群の業界参入で映像配信業界の様相は一変しつつある。

もっとも、テレビとネットとは別のメディアだが、重なる部分も大きくあり、既存のテレヒ業界への影響は大きい。
NHKは国民の視聴料が命綱なので、視聴者人口の減少が経営の大きな問題となるが、公共放送の位置づけにあり、ここ数年内の急激で極端な衰退は予想し難い。

一方、民放テレビ局はスポンサーが頼りだが、そのスポンサーがネットの方に移行しており、ついに、スポンサーのネットに流す総額がテレビ業界を超えた。
その結果として、東京には民放キー局が5局あるが、そこで動く絶対額では2~3局しか生き残れないと言われている。
近い将来に民放テレビ局の整理が行われる可能性は高い。

こういった映像業界の激変の中で、ボクたち、主としてテレビ番組を制作しているテレビ屋がどのような道筋を歩むべきかが大きな課題となっている。

ただ、幸いにもボクたち制作会社はテレビ局ではなくて,ソフトを制作するモノ作り集団である。
メディアがどう変化しようと、ソフトが求められる限りは、ボクたち制作者の仕事に終わりはないとの気楽さはある。

わが社でもネットや企業関連の制作部門を設けて新しい時代の動きに対応しており、売上の10%ほどまでになってきた。
恐らく今後、この部門の成長を図るのが必須であるとの認識は持っている。

とは云え、ボクたちの会社は、設立以来30年余テレビ番組の制作で生きて来たテレビ屋だ。
それもドキュメンタリーに特化して制作してきた。

今後も、この座標軸を変えるつもりはない。
制作する番組のジャンルの幅を広げることはあっても、ドキュメンタリー制作を基軸に据えることはわが社の基本方針であり、また経営戦略でもある。
ネットに押され、テレビ業界がすぐにでも消滅するかのような見方をする論者もいるが、民放はともかくとしてNHKがそう簡単に無くなることはない。

テレビに生き、テレビと共に死んでいくのはテレビ屋のひとつの生き方とは云え、時の流れに取り残されるのは必ずしも本望ではない。
しかし同時に、まだまだ大きな可能性を秘めているテレビでの番組制作を追求して行くことを止めるつもりもない。

激変の時代には、機を見て敏なることも必要だが、急いては事を仕損じるということもある。
また急がば廻れの教訓もある。

今さら動じるものでもないが、知恵は要る。
これも時代の大きな変化の中で葛藤を続けるテレビ屋の宿命である。

      「たかがテレビ されどテレビの 余韻かな」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。



人生は演出だ

ボクはいつもスタッフに、「楽しいこと」や「面白いこと」は世の中に満ち溢れているけれど、他人から与えられるモノじゃなく、自分で作り出さないと決して出会えないよ、と言っている。

ボクは大学受験に失敗し、一浪して予備校に通った経験がある。
その予備校で出会った友人にフランス文学者の奥本大三郎がいる。
出会って以来現在まで彼のことを大ちゃんと呼んでいる。

大ちゃんは東大に進み、後に大学教授として教鞭を執ったが、数十冊に及ぶ数多くのエッセイを執筆するかたわら、昆虫好きが高じて、30年の歳月をかけて「ファーブル昆虫記」全10巻20冊を完訳するという偉業を成し遂げている。
現在はファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務めている。

NHKで放送した「課外授業ようこそ先輩」に出演を依頼したこともあるし、わが社の設立30周年記念パーティーでも挨拶を頼んだ。
人生を楽しんでいるひとりだ。

以前、大ちゃんは「若い頃は、どうでも良いような些細なことで一喜一憂したものだが、その無意味さが、ようやく少しは分かって来たよ」とさりげなく語ったことがある。
ボクもその言葉の意味を実感する。

予備校にもうひとり親しくしていた友人Nがいた。
当時、浪人生活は楽しいものでは無かったのだろうか、ボクはNに「何か面白いことはないかなあ」と聞くでなく聞いたことがある。
Nは呆れたようにボクの顔をマジマジと見つめ「お前は本当に馬鹿な奴だなあ。世の中に面白いことなど存在する筈はないだろう」
その時期の明確な記憶は薄れているが、それでも、その時のNの表情と返答だけは60年近く経った今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

Nは京都大学に合格し、哲学の道に進んだ。
ボクは東京に出て、以来Nとは会っていない。
そのうち音信も途絶え、その後のNの消息は知らない。
しかし、その一言でNはボクの哲学の師匠となった。

その時はNの言っている意味が分からなかったが、今はおぼろげに分かる。
少し理屈っぽい話で申し訳ないが「面白いこと」と言っても誰にとって面白いのか、ということがある。
ボクが面白いことでも、他の人には面白くないかもしれない。
絶対的な普遍性を持つ「面白いこと」など存在しないのである。

あるものに対してボクが勝手に面白いと感じているだけで、そこに「面白いこと」そのものが実際に在る訳ではない。
単なるボクの認識でしかない。
認識はあるが「面白いこと」そのものは存在しない。

したがって「世の中に面白いことなど存在しない」とのNの言葉は正しい。
「楽しいこと」「嬉しいこと」「幸せなこと」「悲しいこと」「苦しいこと」「辛いこと」「不幸なこと」も同様に概念に過ぎず、それらは普遍的な実態を伴わない。
善と悪も、美と醜も同様で、それぞれの感じ方や考え方や捉え方で異なるただの概念で実態はない。

例えば、ある人物の死は、ある人にとっては悲しく辛いことであるかもしれないが、ある人にとっては嬉しく幸せであるのかも知れない。
ある人物の死そのものは、単なる死という事象であり、悲しみや喜びそのものではないと言える。
世の中はそういう実態の無い、捉えどころないものの上に成り立っている訳だ。

ボクたちの日常で起きる事件やさまざまな出来事のすべてにその原則は当てはまる。
つまり、すべての物体も、出来事も、認識して初めて存在する。
色即是空、空即是色とはそういうことを言うのだろうか。

ということは、すべての事象へのボクたちの対応は、ボクたちの意思で自由自在に操れるということでもある。
「悲しいこと」や「苦しいこと」「辛いこと」をボクたちの受け止め方次第で「嬉しいこと」「楽しいこと」に変えることが出来るということである。

ボクたちの周囲にも、世の中がつまらない、仕事が面白くない、とか人生そのものを投げている人たちがいる。
また、目先のちっぽけなことに捉われて苦しんでいる人たちもいる。

その人たちは面白く楽しいことは誰かから与えて貰えるものだと勘違いしているのかもしれない。
世の中や仕事は只の現象に過ぎす、それを面白い、楽しいものとして認識するのは自分自身しかいないことに気が付かないだけかもしれない。

それらは自らが作り出す以外に手にすることができないものである。
そういう意味では人生は演出である。
自分自身への演出次第で面白くも楽しくも出来るのだと思う。

確かに、人が係わる限り、その世界はエゴと矛盾に満ちた混沌に支配されることは身に染みて知っている。
秩序も実は見せかけに過ぎないことも誰もが知っている。
そんな世を無事に生き続けることは至難の業でないことも知っている。

しかし、それは知恵を得てしまった人間の逃れることの出来ない宿命なのだろう。
それでも、奇跡の生を受けた以上、エゴと闘い、矛盾と闘い、人生に喜びを見つけて楽しく生きようとする生き方がボクの望む生き方なのだが。

      「だがしかし ハテナハテナの 浮世かな」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。





プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

★ホームページ★

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR