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未だに青臭いことばかり言っては嗤われているのだが、今よりもずっと青い頃から、エイリアンの総攻撃でもない限り、人類は争いを止めたり、各国一致団結して協調することなど出来ないのだろうな、などと思っていた。
しかし、人間同士の抗争は、そんなに生易しいものではないことが、今回の新型コロナウイルスの登場で証明された感がある。
新型コロナウイルスの世界の感染者数は9700万人を遥か越え、死者は200万人以上を数える。
100年に一度とも言われているそんな脅威にさらされながらも、人間は国家エゴをむき出しにして、いがみ合い、共通の敵に対して力を合わせることが出来ないでいる。
もっとも、新型コロナウイルスが人類を滅亡に追いやるほどの脅威であると考えている者はいないだろうし、やがては必ず何らかの形で収束するであろうから、エイリアンの攻撃とは比べものにはならないかもしれない。
それでもそれに匹敵するほどに世界中を揺るがす未曾有の大事件となっているにも関わらず協力し合えないでいる。。
ワクチンの開発でも、その分配においても各国は協調できず争奪戦を演じている。
アメリカのトランプ元大統領に象徴されるような、自国第一主義のナショナリズムは世界に広まり、国内だけではなく、国際間での分断をも深めることになっている。
そして、それは同時に世界的な民主主義の危機を招くこととなる。
新型コロナウイルスによる世界同時感染がそんな事実を露わにさせると共に、その動きを更に推し進めている。
コロナ対策の下で、独裁や強権政治の台頭を人びとは許容し賛美し始める。
そして人びとはますます強いリーダーシップや強権政治を自ら強く求めることになる。
いまボクが一番恐れるのは世界に広がるこの思考の流れだ。
アメリカのバイデン新大統領は就任直後に、パリ協定への復帰やWHO脱退の取り消しなど、これまでのトランプ元大統領の政策を大幅に是正して国際協調路線に舵を切り直しているが、果たして世界の潮流を変えることはできるのだろうか。
日本国内に目をやれば、特措法が国会で議論され、通過される運びとなっている。
これまで罰則規定がなかったコロナ対策に罰金や刑事罰を課そうとの内容である。
例えば、営業時間の短縮や休業などの要請に応じない業者が法律により罰せられることになる。
国民が感染拡大防止に向けて最大限の努力をして、そのためにある程度の痛みを我慢すべきことは当然のことである。
しかし、それぞれにとっては痛みの限界があり、保障がセットになってもそれでは生き残れないケースも多々あろう。
国民に対して政府が求めるのは自粛要請までにすべきだとボクは思っている。
なぜなら、直近の東京都の調査によれば都内各所盛り場での飲食店の9割以上が政府の要請をうけて時間短縮要請を順守している現実がまずある。
いま問題になっているのは感染者の拡大もあるが、最も危惧されているのは、それら感染者を受け入れる医療設備の不足にある。
昨年の春に端を発したコロナ感染から間もなく1年が経とうとしている。
昨年の4月には一度目の感染拡大があり、緊急事態宣言が発出された。
その時も医療崩壊の危機という言葉を何度か耳にした。
そして専門家たちからは、秋から冬にかけては更に大きな感染拡大が起きるとの警鐘が鳴らされ、医療体制の整備についての提言もあった。
しかし、この間、政府や各県の知事は医療設備へのどんな対策を進めていたのか。
現在の根本問題は唯一、医療のひっ迫なのである。
特に日本の場合は、医療崩壊さえ起きなければ、この程度の感染者や重症者の数で大騒ぎなどする必要は無いはずである。
これまでの政府の経済を優先する政策は十分に理解できるし積極的に支持するが、一方で危惧されていた医療崩壊への対応が全くおろそかにされていたことは批判されて良い。
日本の病院のベッド数が足りていない訳でもなく、医者や看護士の数が不足している訳でもない。
ただ仕組みへの取り組みが不足していただけの話である。
それに対応するだけの時間や資金が無かったとも言えない。
現政権の不支持率が支持率を大きく上回った今になって、政府自民党は民間の病院への対応を慌てて模索し始めている。
目前に迫っている解散総選挙への思惑や政権争いに精力を傾けるばかりで、医療対応にまで本気で取り組もうとしなかったのが本当の所だろう。
そのことを棚に上げて、野党も含めて政治家たちが国民に罰則を課すのは筋が通らないのではないか。
それに9割を大きく超す飲食店の自粛やここまでの国民の気の配り以上の何を求めるのか。
今さらなぜ罰則規定を法律に加えなければならないのかがボクには理解できない。
罰則への要望はずっと以前から維新の会の大阪府知事をはじめ各県の知事たちから出ていたことを今更ながら思い出す。
統治する側に立てば、号令一下の政治体制はいかにも便利だ。
しかし、統治される側に立てば、号令一下は恐ろしい出来事なのである。
今回の飲食店等々への罰則規定の法令化は、些細な出来事とも見えるが、こういう政治手法が当然のこととして行われ、国民が当然のこととして受け入れて行く過程に危惧を持つ。
針の先ほどの小さなほころびから大きな土手が崩れて行くとの事実をボクたちは知っている。
ボクが気になるのは、統治する側とはそういうものであることを知っているにも関らず、国民自らが、増幅する不安や恐怖それに利便性に負けて無批判に自らが統治する側の立場に立ってしまうことである。
「そのマスク 役に立たぬは そりゃないぜ」

しかし、人間同士の抗争は、そんなに生易しいものではないことが、今回の新型コロナウイルスの登場で証明された感がある。
新型コロナウイルスの世界の感染者数は9700万人を遥か越え、死者は200万人以上を数える。
100年に一度とも言われているそんな脅威にさらされながらも、人間は国家エゴをむき出しにして、いがみ合い、共通の敵に対して力を合わせることが出来ないでいる。
もっとも、新型コロナウイルスが人類を滅亡に追いやるほどの脅威であると考えている者はいないだろうし、やがては必ず何らかの形で収束するであろうから、エイリアンの攻撃とは比べものにはならないかもしれない。
それでもそれに匹敵するほどに世界中を揺るがす未曾有の大事件となっているにも関わらず協力し合えないでいる。。
ワクチンの開発でも、その分配においても各国は協調できず争奪戦を演じている。
アメリカのトランプ元大統領に象徴されるような、自国第一主義のナショナリズムは世界に広まり、国内だけではなく、国際間での分断をも深めることになっている。
そして、それは同時に世界的な民主主義の危機を招くこととなる。
新型コロナウイルスによる世界同時感染がそんな事実を露わにさせると共に、その動きを更に推し進めている。
コロナ対策の下で、独裁や強権政治の台頭を人びとは許容し賛美し始める。
そして人びとはますます強いリーダーシップや強権政治を自ら強く求めることになる。
いまボクが一番恐れるのは世界に広がるこの思考の流れだ。
アメリカのバイデン新大統領は就任直後に、パリ協定への復帰やWHO脱退の取り消しなど、これまでのトランプ元大統領の政策を大幅に是正して国際協調路線に舵を切り直しているが、果たして世界の潮流を変えることはできるのだろうか。
日本国内に目をやれば、特措法が国会で議論され、通過される運びとなっている。
これまで罰則規定がなかったコロナ対策に罰金や刑事罰を課そうとの内容である。
例えば、営業時間の短縮や休業などの要請に応じない業者が法律により罰せられることになる。
国民が感染拡大防止に向けて最大限の努力をして、そのためにある程度の痛みを我慢すべきことは当然のことである。
しかし、それぞれにとっては痛みの限界があり、保障がセットになってもそれでは生き残れないケースも多々あろう。
国民に対して政府が求めるのは自粛要請までにすべきだとボクは思っている。
なぜなら、直近の東京都の調査によれば都内各所盛り場での飲食店の9割以上が政府の要請をうけて時間短縮要請を順守している現実がまずある。
いま問題になっているのは感染者の拡大もあるが、最も危惧されているのは、それら感染者を受け入れる医療設備の不足にある。
昨年の春に端を発したコロナ感染から間もなく1年が経とうとしている。
昨年の4月には一度目の感染拡大があり、緊急事態宣言が発出された。
その時も医療崩壊の危機という言葉を何度か耳にした。
そして専門家たちからは、秋から冬にかけては更に大きな感染拡大が起きるとの警鐘が鳴らされ、医療体制の整備についての提言もあった。
しかし、この間、政府や各県の知事は医療設備へのどんな対策を進めていたのか。
現在の根本問題は唯一、医療のひっ迫なのである。
特に日本の場合は、医療崩壊さえ起きなければ、この程度の感染者や重症者の数で大騒ぎなどする必要は無いはずである。
これまでの政府の経済を優先する政策は十分に理解できるし積極的に支持するが、一方で危惧されていた医療崩壊への対応が全くおろそかにされていたことは批判されて良い。
日本の病院のベッド数が足りていない訳でもなく、医者や看護士の数が不足している訳でもない。
ただ仕組みへの取り組みが不足していただけの話である。
それに対応するだけの時間や資金が無かったとも言えない。
現政権の不支持率が支持率を大きく上回った今になって、政府自民党は民間の病院への対応を慌てて模索し始めている。
目前に迫っている解散総選挙への思惑や政権争いに精力を傾けるばかりで、医療対応にまで本気で取り組もうとしなかったのが本当の所だろう。
そのことを棚に上げて、野党も含めて政治家たちが国民に罰則を課すのは筋が通らないのではないか。
それに9割を大きく超す飲食店の自粛やここまでの国民の気の配り以上の何を求めるのか。
今さらなぜ罰則規定を法律に加えなければならないのかがボクには理解できない。
罰則への要望はずっと以前から維新の会の大阪府知事をはじめ各県の知事たちから出ていたことを今更ながら思い出す。
統治する側に立てば、号令一下の政治体制はいかにも便利だ。
しかし、統治される側に立てば、号令一下は恐ろしい出来事なのである。
今回の飲食店等々への罰則規定の法令化は、些細な出来事とも見えるが、こういう政治手法が当然のこととして行われ、国民が当然のこととして受け入れて行く過程に危惧を持つ。
針の先ほどの小さなほころびから大きな土手が崩れて行くとの事実をボクたちは知っている。
ボクが気になるのは、統治する側とはそういうものであることを知っているにも関らず、国民自らが、増幅する不安や恐怖それに利便性に負けて無批判に自らが統治する側の立場に立ってしまうことである。
「そのマスク 役に立たぬは そりゃないぜ」



やっぱりな、欲望の前には、人は同じ過ちをくり返すものなのだな……。
これが安倍首相辞任の報を聞いた時の率直な感想だった。
第一次安倍政権時代に病気のために首相を辞任したことがあった。
タイミングはともあれ、それはそれとして仕方のないことだったとは思う。
病魔に襲われたことは不幸で気の毒なことだった。
しかし今回は、自民党の党則を変えてまで総裁の任期を無理やり延長し、しかも同じ病気での職務半ばの辞任だっただけに、申し開きは立たない。
首相本人は残念な思いだろうが、経緯から考えると本来は、深刻な持病の悪化は辞任の理由には出来ない筈である。
己を知らぬということであろうし、同時にそれを含めて、責任ある首相の器ではなかったという証明でもあるのだろう。
責任を果たさぬ、いかにも安倍首相らしい結末である。
職を辞した者を悪く言うのは潔ぎ良しとしないが、それにしても恥を知らぬ無責任政権だったと思う。
恐らくボクたちが知っていたかつての自民党ならば、多くの閣僚の不祥事や失言が驚くほど頻繁に続き、それに対して政権が責任を取らない時点で、自民党良識派の長老たちからの一喝があった筈で、森友・加計学園問題や桜を見る会騒動も起きることは無かったと思う。
公文書改ざんなどを含め、その後も党ぐるみの大きな選挙違反で河井前法相夫妻が逮捕されたり、総合型リゾート(IR)事業をめぐる贈収賄事件で秋元内閣府副大臣が逮捕されるなど、政権内部の腐敗ぶりは目に余るものがあった。
上層部の腐敗は、その組織そのものを下部に至るまで腐らせて行く図が絵に描いたように生じている。
告発の声を上げようとした地方の官僚を自殺にまで追い込みながら、調査を拒否し、闇に葬ろうとしている。
野党のやる気なさはもとより言語道断だが、頼むべき自民党の自浄作用もまったくその機能を喪失してしまった。
忖度という流行語まで生み出した政治手法は日本の脆弱な民主主義を更に危うい存在に劣化させている。
ボク自身がそうであるように、元来、民とは常に口さがない存在で、それぞれが無責任に勝手なことを言うものだが、民の声の中には的を得ているものもそれなりに存在し、それが民意となる。
現政権が、図らずもこの民意から大きく乖離していることを世間に明らかにしたのが新型コロナウイルスへの諸々の対応だったことは周知である。
コロナの鋭い光の矢が安倍政権の本質を見事に射抜いた。
不祥事の度に陳謝し、改めることなく同じ不祥事を幾度となく平然と繰り返して来た政権も、コロナにはその手は通じなかった、というのが実相だろう。
アベノマスクの配布で従順な国民もさすがにあきれ果て、支持率は過去最低の数字となっていた。
マスコミでは、7年8か月に及ぶ安倍政権の功罪について論じられている。
立場によって、良くやった、との論調もあれば、批判的な見方をするものもある。
ボクは良く分からないが、結局は大企業だけが栄え、圧倒的大多数の労働者が貧しい、格差社会を作ることとなっている、と思うし、これまでの不透明で言い逃れに終始する政治手法は民主主義にとって危険であるとも思う。
そして何より、官邸がマスコミの人事にまで干渉したことはとても危ないことだと感じている。
それはマスコミ側の忖度だったとの側面があったにせよ、である。
マスコミの側には権力からの介入をはねのけるだけの気概と矜持を求めたい。
安倍政権だけに限らす、権力とはもともとそういうものだからである。
古くから、新聞は「権力のチェック機構」であると言われて来た。
現在では新聞と並びテレビ報道も同様の立場にある。
権力は腐敗するし、暴走もする。
それをチェックするのが報道であると言って良いだろう。
司法、行政、立法の三権分立が民主主義社会の根本だが、「第4の権力」と称される報道機関がそのチェック機能を果たして健全な民主主義を守る、との考えである。
これは憲法で保障された言論、出版の自由に基づくものだ。
特に、安倍政権の7年8か月の間、マスコミの世界はその機能を真剣に果たして来たのか、との反省はある。
政権への忖度は無かったと言い切れるのかどうか。
そして、権力と同様に民意もしばしば暴走する。
マスコミは民意のチェックも果たさなければならない。
利害得失で動く世の中の事象を丹念に取材し、その資料に基づいて不偏不党の立場で広く伝えることが報道の役目だ。
マスコミが伝えるべきものは各事象の事実と真相である。
その意味で、「第4の権力」と称されるのだが、どこの機関からも独立して事実や真相の報道に対するいかなる圧力や干渉も許さない、とのマスコミ側の矜持が揺らぐことがあってはならないのだ。
いま、次の総理の座とその後の組閣人事等々をめぐりマスコミを賑わせているが、これとて前もってのシナリオ通りに進行している茶番劇に過ぎない。
安倍政権の権益構造をそのまま継続していく為のなれ合い政治の延長に映る。
これが果たして民意なのか、そうでないのかはボクには分からない。
審判を下すのは国民である。
時は否応なく流れ、事態は刻々と変化する。
その状況に応じて、考え方や価値観も変化する。
どの選択が正しく、何が間違っているのか、そんなことは誰にも分からない。
その中にあってニュース報道は、事実を見つめ、出来る限り正確にその事実を伝えて行く。
そして報道ドキュメンタリーはそれらの事象や現象の裏に潜む真相や実相をあぶり出し、その事実を踏まえ、社会の在り方や人の生き方を考えるための問い掛けを広く社会に伝えるために存在するのである。
「首すくめ 眼を閉じてれば 嵐去り」

これが安倍首相辞任の報を聞いた時の率直な感想だった。
第一次安倍政権時代に病気のために首相を辞任したことがあった。
タイミングはともあれ、それはそれとして仕方のないことだったとは思う。
病魔に襲われたことは不幸で気の毒なことだった。
しかし今回は、自民党の党則を変えてまで総裁の任期を無理やり延長し、しかも同じ病気での職務半ばの辞任だっただけに、申し開きは立たない。
首相本人は残念な思いだろうが、経緯から考えると本来は、深刻な持病の悪化は辞任の理由には出来ない筈である。
己を知らぬということであろうし、同時にそれを含めて、責任ある首相の器ではなかったという証明でもあるのだろう。
責任を果たさぬ、いかにも安倍首相らしい結末である。
職を辞した者を悪く言うのは潔ぎ良しとしないが、それにしても恥を知らぬ無責任政権だったと思う。
恐らくボクたちが知っていたかつての自民党ならば、多くの閣僚の不祥事や失言が驚くほど頻繁に続き、それに対して政権が責任を取らない時点で、自民党良識派の長老たちからの一喝があった筈で、森友・加計学園問題や桜を見る会騒動も起きることは無かったと思う。
公文書改ざんなどを含め、その後も党ぐるみの大きな選挙違反で河井前法相夫妻が逮捕されたり、総合型リゾート(IR)事業をめぐる贈収賄事件で秋元内閣府副大臣が逮捕されるなど、政権内部の腐敗ぶりは目に余るものがあった。
上層部の腐敗は、その組織そのものを下部に至るまで腐らせて行く図が絵に描いたように生じている。
告発の声を上げようとした地方の官僚を自殺にまで追い込みながら、調査を拒否し、闇に葬ろうとしている。
野党のやる気なさはもとより言語道断だが、頼むべき自民党の自浄作用もまったくその機能を喪失してしまった。
忖度という流行語まで生み出した政治手法は日本の脆弱な民主主義を更に危うい存在に劣化させている。
ボク自身がそうであるように、元来、民とは常に口さがない存在で、それぞれが無責任に勝手なことを言うものだが、民の声の中には的を得ているものもそれなりに存在し、それが民意となる。
現政権が、図らずもこの民意から大きく乖離していることを世間に明らかにしたのが新型コロナウイルスへの諸々の対応だったことは周知である。
コロナの鋭い光の矢が安倍政権の本質を見事に射抜いた。
不祥事の度に陳謝し、改めることなく同じ不祥事を幾度となく平然と繰り返して来た政権も、コロナにはその手は通じなかった、というのが実相だろう。
アベノマスクの配布で従順な国民もさすがにあきれ果て、支持率は過去最低の数字となっていた。
マスコミでは、7年8か月に及ぶ安倍政権の功罪について論じられている。
立場によって、良くやった、との論調もあれば、批判的な見方をするものもある。
ボクは良く分からないが、結局は大企業だけが栄え、圧倒的大多数の労働者が貧しい、格差社会を作ることとなっている、と思うし、これまでの不透明で言い逃れに終始する政治手法は民主主義にとって危険であるとも思う。
そして何より、官邸がマスコミの人事にまで干渉したことはとても危ないことだと感じている。
それはマスコミ側の忖度だったとの側面があったにせよ、である。
マスコミの側には権力からの介入をはねのけるだけの気概と矜持を求めたい。
安倍政権だけに限らす、権力とはもともとそういうものだからである。
古くから、新聞は「権力のチェック機構」であると言われて来た。
現在では新聞と並びテレビ報道も同様の立場にある。
権力は腐敗するし、暴走もする。
それをチェックするのが報道であると言って良いだろう。
司法、行政、立法の三権分立が民主主義社会の根本だが、「第4の権力」と称される報道機関がそのチェック機能を果たして健全な民主主義を守る、との考えである。
これは憲法で保障された言論、出版の自由に基づくものだ。
特に、安倍政権の7年8か月の間、マスコミの世界はその機能を真剣に果たして来たのか、との反省はある。
政権への忖度は無かったと言い切れるのかどうか。
そして、権力と同様に民意もしばしば暴走する。
マスコミは民意のチェックも果たさなければならない。
利害得失で動く世の中の事象を丹念に取材し、その資料に基づいて不偏不党の立場で広く伝えることが報道の役目だ。
マスコミが伝えるべきものは各事象の事実と真相である。
その意味で、「第4の権力」と称されるのだが、どこの機関からも独立して事実や真相の報道に対するいかなる圧力や干渉も許さない、とのマスコミ側の矜持が揺らぐことがあってはならないのだ。
いま、次の総理の座とその後の組閣人事等々をめぐりマスコミを賑わせているが、これとて前もってのシナリオ通りに進行している茶番劇に過ぎない。
安倍政権の権益構造をそのまま継続していく為のなれ合い政治の延長に映る。
これが果たして民意なのか、そうでないのかはボクには分からない。
審判を下すのは国民である。
時は否応なく流れ、事態は刻々と変化する。
その状況に応じて、考え方や価値観も変化する。
どの選択が正しく、何が間違っているのか、そんなことは誰にも分からない。
その中にあってニュース報道は、事実を見つめ、出来る限り正確にその事実を伝えて行く。
そして報道ドキュメンタリーはそれらの事象や現象の裏に潜む真相や実相をあぶり出し、その事実を踏まえ、社会の在り方や人の生き方を考えるための問い掛けを広く社会に伝えるために存在するのである。
「首すくめ 眼を閉じてれば 嵐去り」



つい先日、某テレビ局に出向しているスタッフが久しぶりに会社に顔を出した。
毎月一度の伝票の精算のためである。
「よう、元気にやってる?」とボクは彼女に声を掛けた。
「ええ。がんばってますよ」と言い「何だか小田さん、前よりも元気そうですね」とボクの顔をまじまじと見た。
「俺はずっと元気だよ。コロナのお陰で死んでるヒマなど無いよ。」
「あっ!それ良いですね。そのフレーズ貰っちゃおっと」と笑った。
ボクもそれなりの歳になったし、そろそろ楽をしてボケを決め込もうかな、などと思っていた矢先に新型コロナウイルス騒ぎが始まった。
当初は、インフルエンザの親玉ぐらいに軽く構えていたのだったが、次第に世界中をひっくり返すような大騒動に発展した。
そして現在、一度は収まったかに見えたコロナだったが、東京都ばかりでなく日本全国津々浦々にまでその感染が再び猛烈な勢いで広まっている。
この感染拡大が第二波なのか、それとも第一波の延長線上のものなのか。
明らかに今回の感染者数は緊急事態宣言が発出された時期よりも圧倒的に多く、ウイルスも変異しているので、常識的には第二波と考えても良いのだろう。
政府も専門家もこの件に関して言及しないのは、経済を考慮しての政治的判断によるものだ。
上から下まで、日本中が苦悩と困惑の中にいる。
ただ、幸いなことに死者はそれほど増加していない。
この病気の感染者数と死亡率の因果関係は知らないので軽々なことは言えないが、特に死亡者数はこれを書いている時点では合計で1068名と第二波によるカーブは緩やかだ。
余談になるが、厚生労働省によれば2018年のインフルエンザによる年間の死亡者数は3325人。
昨年2019年の集計は分からないが、その年の1月だけで1685人が死亡、毎日54人余が亡くなっていた勘定だ。
ワクチンや治療薬がある、と言われていてこの人数だから、インフルエンザもまだまだ怖い病気に思えるのだが、大きな報道もなく、いまではインフルエンザを恐れる人がいないのも不思議なことである。
また熱中症による死亡者も6月から9月までの4か月間で1000人を越す年もあるから油断できない。
特に今年はマスク着用の影響で、死亡者が多くなる恐れがある。
多人数の部屋でなら分かるが、炎天下の道路を黙々と歩くのに、どうしてマスクを必要とするのかの科学的理由を知りたいが、マスクが一種の社会的シンボルとなっている。
本当はマスク呪縛に捉われずに、自分の身は自分で守り、他人様に迷惑を掛けない自分に課したルールで生きていくことの方が、社会心理的な制約よりも合理的だと思うのだが、世の中の眼とはそういうものでもなさそうだ。
それはともかくとして、新型コロナは世の中のこれまでの常識やしきたりを大きく変えたことは周知だ。
今年の4月には、ボクたちの会社設立以来31年間、欠かすことなく続けて来た恒例のお花見も取りやめた。
250人ほどの老若男女が桜の木の下で、車座になり酒を酌み交わすことも、もはや今は昔の話となるだろうし、同じように暮れの忘年会も毎年やっていたように賑やかにはやれないだろう。
ささやかな伝統や文化が消えていく。
人と人が寸断され、人との濃密な関係が社会から排除されていく。
禁止事項が増え、ますます窮屈な世となる。
しかし、また一方で別の見方も出来る。
ワクチンや特効薬の開発はどうやら直ぐには期待できそうもないし、自然淘汰でコロナがいわゆる風邪のような症状になるには20年か30年か知らないけれど、気の遠くなるような永い時間が掛かるにちがいない。
コロナの完全な抑え込みなどは、インフルエンザの例でも分かるように一種の幻想でしかないかとも思える。
そうだとすれば、人類はコロナとの共生の道を模索するしかないのは必定だ。
これまで築いてきた人間社会をその根本から見直し、新しい形の社会秩序を再構築することが求められている。
目的地は新世界の誕生である。
産みの苦労や苦しみは当然伴うが、それはそれで面白い、やりがいのある仕事だ。
ボクたちの会社も、そんな社会環境に適応していくための積極的なチャレンジを始めなければならない。
コロナ時代に適した新たな仕事の形や働き方の知恵を編み出さなければ、生き残ることはできない。
間違いなく、ボクたちの業界も厳しく激しい淘汰の時代を迎えている。
そして頼れるものはボクたち自身の知恵しかない。
ボクには大した力はないが、会社には多くの優秀なスタッフたちがいる。
これまでもずっと、コロナに怯えることなく、それぞれの持ち場の仕事をしっかりとやり遂げて来た。
色んな制約の中で工夫を凝らし、新しい方法で企画を実現している。
そして今もお盆休みを返上して、炎天下を取材で駆け回っているスタッフたちがいる。
月並みな表現しか出来ないが、世間の厳しい視線に耐え、頑張っているひとりひとりの顔を思い起こすこの瞬間も、自然と頭が下がる。
誰のためでもなく、自分のやるべきことにひたすら立ち向かう姿は頼もしい。
そしてスタッフのそんな姿勢は、ボクを励まし、勇気を与えてくれる。
そろそろボケようかな、などと暢気なことを言ってはいられない。
ボクのやるべき大きな仕事は山積している。
会社設立32周年の今年が、新しい時代に向けて再出発する新たな年となる。
「幕開けや 鬼がでるのか 蛇がでるか」

毎月一度の伝票の精算のためである。
「よう、元気にやってる?」とボクは彼女に声を掛けた。
「ええ。がんばってますよ」と言い「何だか小田さん、前よりも元気そうですね」とボクの顔をまじまじと見た。
「俺はずっと元気だよ。コロナのお陰で死んでるヒマなど無いよ。」
「あっ!それ良いですね。そのフレーズ貰っちゃおっと」と笑った。
ボクもそれなりの歳になったし、そろそろ楽をしてボケを決め込もうかな、などと思っていた矢先に新型コロナウイルス騒ぎが始まった。
当初は、インフルエンザの親玉ぐらいに軽く構えていたのだったが、次第に世界中をひっくり返すような大騒動に発展した。
そして現在、一度は収まったかに見えたコロナだったが、東京都ばかりでなく日本全国津々浦々にまでその感染が再び猛烈な勢いで広まっている。
この感染拡大が第二波なのか、それとも第一波の延長線上のものなのか。
明らかに今回の感染者数は緊急事態宣言が発出された時期よりも圧倒的に多く、ウイルスも変異しているので、常識的には第二波と考えても良いのだろう。
政府も専門家もこの件に関して言及しないのは、経済を考慮しての政治的判断によるものだ。
上から下まで、日本中が苦悩と困惑の中にいる。
ただ、幸いなことに死者はそれほど増加していない。
この病気の感染者数と死亡率の因果関係は知らないので軽々なことは言えないが、特に死亡者数はこれを書いている時点では合計で1068名と第二波によるカーブは緩やかだ。
余談になるが、厚生労働省によれば2018年のインフルエンザによる年間の死亡者数は3325人。
昨年2019年の集計は分からないが、その年の1月だけで1685人が死亡、毎日54人余が亡くなっていた勘定だ。
ワクチンや治療薬がある、と言われていてこの人数だから、インフルエンザもまだまだ怖い病気に思えるのだが、大きな報道もなく、いまではインフルエンザを恐れる人がいないのも不思議なことである。
また熱中症による死亡者も6月から9月までの4か月間で1000人を越す年もあるから油断できない。
特に今年はマスク着用の影響で、死亡者が多くなる恐れがある。
多人数の部屋でなら分かるが、炎天下の道路を黙々と歩くのに、どうしてマスクを必要とするのかの科学的理由を知りたいが、マスクが一種の社会的シンボルとなっている。
本当はマスク呪縛に捉われずに、自分の身は自分で守り、他人様に迷惑を掛けない自分に課したルールで生きていくことの方が、社会心理的な制約よりも合理的だと思うのだが、世の中の眼とはそういうものでもなさそうだ。
それはともかくとして、新型コロナは世の中のこれまでの常識やしきたりを大きく変えたことは周知だ。
今年の4月には、ボクたちの会社設立以来31年間、欠かすことなく続けて来た恒例のお花見も取りやめた。
250人ほどの老若男女が桜の木の下で、車座になり酒を酌み交わすことも、もはや今は昔の話となるだろうし、同じように暮れの忘年会も毎年やっていたように賑やかにはやれないだろう。
ささやかな伝統や文化が消えていく。
人と人が寸断され、人との濃密な関係が社会から排除されていく。
禁止事項が増え、ますます窮屈な世となる。
しかし、また一方で別の見方も出来る。
ワクチンや特効薬の開発はどうやら直ぐには期待できそうもないし、自然淘汰でコロナがいわゆる風邪のような症状になるには20年か30年か知らないけれど、気の遠くなるような永い時間が掛かるにちがいない。
コロナの完全な抑え込みなどは、インフルエンザの例でも分かるように一種の幻想でしかないかとも思える。
そうだとすれば、人類はコロナとの共生の道を模索するしかないのは必定だ。
これまで築いてきた人間社会をその根本から見直し、新しい形の社会秩序を再構築することが求められている。
目的地は新世界の誕生である。
産みの苦労や苦しみは当然伴うが、それはそれで面白い、やりがいのある仕事だ。
ボクたちの会社も、そんな社会環境に適応していくための積極的なチャレンジを始めなければならない。
コロナ時代に適した新たな仕事の形や働き方の知恵を編み出さなければ、生き残ることはできない。
間違いなく、ボクたちの業界も厳しく激しい淘汰の時代を迎えている。
そして頼れるものはボクたち自身の知恵しかない。
ボクには大した力はないが、会社には多くの優秀なスタッフたちがいる。
これまでもずっと、コロナに怯えることなく、それぞれの持ち場の仕事をしっかりとやり遂げて来た。
色んな制約の中で工夫を凝らし、新しい方法で企画を実現している。
そして今もお盆休みを返上して、炎天下を取材で駆け回っているスタッフたちがいる。
月並みな表現しか出来ないが、世間の厳しい視線に耐え、頑張っているひとりひとりの顔を思い起こすこの瞬間も、自然と頭が下がる。
誰のためでもなく、自分のやるべきことにひたすら立ち向かう姿は頼もしい。
そしてスタッフのそんな姿勢は、ボクを励まし、勇気を与えてくれる。
そろそろボケようかな、などと暢気なことを言ってはいられない。
ボクのやるべき大きな仕事は山積している。
会社設立32周年の今年が、新しい時代に向けて再出発する新たな年となる。
「幕開けや 鬼がでるのか 蛇がでるか」



二週間ほど前の休日、久方ぶりに新宿のデパートに行った。
妻は売り場に、買い物が苦手なボクは屋上に向かった。
そこはビアガーデンになっていて、その一角に、向かい合わせに4つのベンチがあり、そこが喫煙所になっている。
妻が買い物をする小一時間ほどを、ボクはそこで心ゆくまでタバコをふかす。
例年ならば多くの客で賑わいを見せている筈のビアガーデンも、人はまばらで、従業員たちも手持ち無沙汰な様子だった。
コロナの影響でまだまだ客足が戻らないのだなあ、と3本目のタバコに火をつけた、ちょうどその時だった。
嬌声をあげながら7~8人の若者たちの集団がいきなり現れてドヤドヤとベンチを占拠した。
身体はもう立派な大人だが、まだあどけなさを残した女の子たちに混じっておとなしそうな男の子たちもいた。
10代後半だろう。
みんな適当に酔っている様子で、大声を出したり笑ったり、化粧を直したりと、傍目など気にすることもなく子犬たちのようにお互いにじゃれ合っている。
そして何か飲み物を回し飲んでいる。
そんな無邪気な様子の若い子たちを間近で見るのも久しぶりで妙に新鮮な光景に映った。
その子たちはコロナウイルスのことなど頭の片隅にさえ無いことは明らかだった。
これが若さだよな、などと、しかし少し不安の交錯する複雑な思いで、ボクはただ眺めていた。
事実、多くの若者たち自身にとっては、たとえ感染しても怖い病気ではないことは確かだ。
そう安心させて感染を果てしなく拡大していく新型コロナウイルスの戦略に改めて驚く。
細胞も無く、もちろん知恵を生み出す脳などの器官を持たないウイルスのどこにそのような戦略が秘められているのか。
自然界の底知れない仕組みの深さに畏敬の念を禁じ得ない。
そしていま、日本では、一旦は収まったかに思えたコロナウイルスだったが、再びその猛威を振るい始めている。
東京は連日百数十~二百数十人の感染者を数え、東京ばかりでなく、大阪など日本の主要都市にその感染が本格的に広がり始めている。
いまのところ死亡者数が少ないのが救いだが、これとて今後どういう展開となるのかについての正確な情報はない。
ウイルス学者の間では、今回の感染拡大は予想の範囲内であったようで、今年の秋以降の第2波はどうやら避けることは出来ないようだ。
世界を見てもボクたちの想像を遥かに越える感染者、死亡者を出し続けている。
WHOをはじめ、世界のウイルス学者や医療関係者の警告を背に受けながら、各国はウイルス対策の必要性と経済活動の狭間で、最も有効な選択の道の模索に苦しみ試行錯誤を繰り返している。
世界がコロナという未曽有のウイルスの出現で、今後の人間の暮らしが大きく変化せざるを得ないという歴史的大事件に遭遇し、その対応について真剣に取り組んでいる、かに見える。
しかし、その一方で、大国のリーダーたちは、それぞれ別の目論見で動いている。
アメリカのトランプ大統領はコロナなど眼中になく11月に迫った大統領選挙での再選だけを目指して動いているのは周知だ。
そんな人物に世界中が振り回されているのかと思うだけで、情けなくなる。
一方中国の習近平はコロナの収拾で、中国国内の言論統制を更に強め、世界の混乱に乗じて香港との一国二制度の約束を事実上の反故にした。
さらに次の標的である台湾を巡ってアメリカとの間での軍事的緊張関係を高めて、覇権への道を一直線で進んでいる。
ロシアのプーチン大統領も同様に、コロナのどさくさに紛れて憲法改正の国民投票を行い、そこに永世大統領の約束を抱き合わせに織り込み、目論見通りに権力の座を手に入れた。
そして、日本はと言えば、われらが安倍政権だ。
安倍首相は就任当初から不明朗で不透明な政治手法で、都合の悪い事件が起きると隠ぺいし、これまで一度も説明責任を果たしたことはない。
失政を犯す度に、責任は自分にあると何十回も繰り返し国民に謝罪しながら、一度も責任を取ったことが無い。
官僚を自殺に追い込むようなことを平気で行う政権だ。
しかし、野党も国民もマスコミも当たり前のようにそれを許し続ける不可思議な日本国家になってしまっている。
そんな責任逃れの政治体質ではさすがにコロナ危機には対応できず、実務能力の欠如を国民の前に露呈し、支持率も下がった。
自民党総裁4選の目論見は挫折したかに見える。
そこで新たに編み出した奥の手が解散である。
解散して民意を問い直し、新たな信認を得て権力の座を守り続けようとの魂胆だ。
ある政治家は政治資金集めのパーティーを派手に行い、解散風を吹かそうと演出している。
国会を解散するにはそれなりの大気名分が必要だが、その大義を憲法改正に定めた。
新型コロナに立ち向かい国家を守るためには、より強力なコロナ対策法案の制定が必要で、そのためには憲法改正が必須であるとの論理である。
保守派の知事たちも、現政権の目論見を実現するためにコロナ法案の制定の必要性をアピールして、盛んにその後押しをしている。
憲法改正を世に問うのならば、解散の大義となるとの、とんだ茶番劇だが、政治家たちは真面目な顔でその茶番を演じている。
コロナ対策に憲法改正など必要ないのだが、こんな幼稚なこじつけでも堂々とまかり通るのが今の日本だと、政治家たちは国民を見くびっている。
ボクたちは本当に馬鹿にされている。
そして、ボクは同時にコロナ対策を利用しての強権政治への道筋を今こそ止めなければならないと確信している。
緊急事態宣言が発出された時、日本国民は極めて忠実に自粛要請に応えた。
法律の規制や罰則が無くても立派に自粛したことは記憶に新しい。
今更、憲法改正までして法律を強化する必要はないし、現行憲法下の法令制定は可能な筈である。
コロナを利用して強権を発動したいとの為政者の意図が丸見えである。
今回、コロナが人間に示した警告の本質を捉え、ボクたちの今後の生き方について真剣に考えることが世界各国が取り組むべき共通の課題であり、そして日本が率先して科学と哲学に基づいて新しい価値観の創造を果たすへき大切な時代なのに、自分たちの権力の座だけに執着し、それにコロナを利用している姿を毎日目にしなければならないとは、何とも情けないことである。
これはイデオロギーの問題ではない。
小さくは恥の問題であり、大きくは人間の生き方、国の在りようの問題である。
世界の政治の多くが劣化しているが、日本がその先端を走る必要はない。
もう手の施しようもない位にまで腐敗権力ウイルスに汚染されてしまっている現政権を一度隔離入院させて治療する必要があることは確かだ。
しかし、政治家とは本来がそういう存在であり、権力の腐敗とはそういうものであることはまぎれもない歴史的真実である。
そのことをボクたちほとんど多くの国民はこれまで学んで知っている。
そういう意味ではこういう世の中にしてしまった責任は実は政治家ではなくて、間違いなくボクたち国民にある、というのが実相だ。
ボクたち国民が本気で覚醒する時が来ていると思っている
「Go Toで しっぺ返しか 痴話喧嘩」

妻は売り場に、買い物が苦手なボクは屋上に向かった。
そこはビアガーデンになっていて、その一角に、向かい合わせに4つのベンチがあり、そこが喫煙所になっている。
妻が買い物をする小一時間ほどを、ボクはそこで心ゆくまでタバコをふかす。
例年ならば多くの客で賑わいを見せている筈のビアガーデンも、人はまばらで、従業員たちも手持ち無沙汰な様子だった。
コロナの影響でまだまだ客足が戻らないのだなあ、と3本目のタバコに火をつけた、ちょうどその時だった。
嬌声をあげながら7~8人の若者たちの集団がいきなり現れてドヤドヤとベンチを占拠した。
身体はもう立派な大人だが、まだあどけなさを残した女の子たちに混じっておとなしそうな男の子たちもいた。
10代後半だろう。
みんな適当に酔っている様子で、大声を出したり笑ったり、化粧を直したりと、傍目など気にすることもなく子犬たちのようにお互いにじゃれ合っている。
そして何か飲み物を回し飲んでいる。
そんな無邪気な様子の若い子たちを間近で見るのも久しぶりで妙に新鮮な光景に映った。
その子たちはコロナウイルスのことなど頭の片隅にさえ無いことは明らかだった。
これが若さだよな、などと、しかし少し不安の交錯する複雑な思いで、ボクはただ眺めていた。
事実、多くの若者たち自身にとっては、たとえ感染しても怖い病気ではないことは確かだ。
そう安心させて感染を果てしなく拡大していく新型コロナウイルスの戦略に改めて驚く。
細胞も無く、もちろん知恵を生み出す脳などの器官を持たないウイルスのどこにそのような戦略が秘められているのか。
自然界の底知れない仕組みの深さに畏敬の念を禁じ得ない。
そしていま、日本では、一旦は収まったかに思えたコロナウイルスだったが、再びその猛威を振るい始めている。
東京は連日百数十~二百数十人の感染者を数え、東京ばかりでなく、大阪など日本の主要都市にその感染が本格的に広がり始めている。
いまのところ死亡者数が少ないのが救いだが、これとて今後どういう展開となるのかについての正確な情報はない。
ウイルス学者の間では、今回の感染拡大は予想の範囲内であったようで、今年の秋以降の第2波はどうやら避けることは出来ないようだ。
世界を見てもボクたちの想像を遥かに越える感染者、死亡者を出し続けている。
WHOをはじめ、世界のウイルス学者や医療関係者の警告を背に受けながら、各国はウイルス対策の必要性と経済活動の狭間で、最も有効な選択の道の模索に苦しみ試行錯誤を繰り返している。
世界がコロナという未曽有のウイルスの出現で、今後の人間の暮らしが大きく変化せざるを得ないという歴史的大事件に遭遇し、その対応について真剣に取り組んでいる、かに見える。
しかし、その一方で、大国のリーダーたちは、それぞれ別の目論見で動いている。
アメリカのトランプ大統領はコロナなど眼中になく11月に迫った大統領選挙での再選だけを目指して動いているのは周知だ。
そんな人物に世界中が振り回されているのかと思うだけで、情けなくなる。
一方中国の習近平はコロナの収拾で、中国国内の言論統制を更に強め、世界の混乱に乗じて香港との一国二制度の約束を事実上の反故にした。
さらに次の標的である台湾を巡ってアメリカとの間での軍事的緊張関係を高めて、覇権への道を一直線で進んでいる。
ロシアのプーチン大統領も同様に、コロナのどさくさに紛れて憲法改正の国民投票を行い、そこに永世大統領の約束を抱き合わせに織り込み、目論見通りに権力の座を手に入れた。
そして、日本はと言えば、われらが安倍政権だ。
安倍首相は就任当初から不明朗で不透明な政治手法で、都合の悪い事件が起きると隠ぺいし、これまで一度も説明責任を果たしたことはない。
失政を犯す度に、責任は自分にあると何十回も繰り返し国民に謝罪しながら、一度も責任を取ったことが無い。
官僚を自殺に追い込むようなことを平気で行う政権だ。
しかし、野党も国民もマスコミも当たり前のようにそれを許し続ける不可思議な日本国家になってしまっている。
そんな責任逃れの政治体質ではさすがにコロナ危機には対応できず、実務能力の欠如を国民の前に露呈し、支持率も下がった。
自民党総裁4選の目論見は挫折したかに見える。
そこで新たに編み出した奥の手が解散である。
解散して民意を問い直し、新たな信認を得て権力の座を守り続けようとの魂胆だ。
ある政治家は政治資金集めのパーティーを派手に行い、解散風を吹かそうと演出している。
国会を解散するにはそれなりの大気名分が必要だが、その大義を憲法改正に定めた。
新型コロナに立ち向かい国家を守るためには、より強力なコロナ対策法案の制定が必要で、そのためには憲法改正が必須であるとの論理である。
保守派の知事たちも、現政権の目論見を実現するためにコロナ法案の制定の必要性をアピールして、盛んにその後押しをしている。
憲法改正を世に問うのならば、解散の大義となるとの、とんだ茶番劇だが、政治家たちは真面目な顔でその茶番を演じている。
コロナ対策に憲法改正など必要ないのだが、こんな幼稚なこじつけでも堂々とまかり通るのが今の日本だと、政治家たちは国民を見くびっている。
ボクたちは本当に馬鹿にされている。
そして、ボクは同時にコロナ対策を利用しての強権政治への道筋を今こそ止めなければならないと確信している。
緊急事態宣言が発出された時、日本国民は極めて忠実に自粛要請に応えた。
法律の規制や罰則が無くても立派に自粛したことは記憶に新しい。
今更、憲法改正までして法律を強化する必要はないし、現行憲法下の法令制定は可能な筈である。
コロナを利用して強権を発動したいとの為政者の意図が丸見えである。
今回、コロナが人間に示した警告の本質を捉え、ボクたちの今後の生き方について真剣に考えることが世界各国が取り組むべき共通の課題であり、そして日本が率先して科学と哲学に基づいて新しい価値観の創造を果たすへき大切な時代なのに、自分たちの権力の座だけに執着し、それにコロナを利用している姿を毎日目にしなければならないとは、何とも情けないことである。
これはイデオロギーの問題ではない。
小さくは恥の問題であり、大きくは人間の生き方、国の在りようの問題である。
世界の政治の多くが劣化しているが、日本がその先端を走る必要はない。
もう手の施しようもない位にまで腐敗権力ウイルスに汚染されてしまっている現政権を一度隔離入院させて治療する必要があることは確かだ。
しかし、政治家とは本来がそういう存在であり、権力の腐敗とはそういうものであることはまぎれもない歴史的真実である。
そのことをボクたちほとんど多くの国民はこれまで学んで知っている。
そういう意味ではこういう世の中にしてしまった責任は実は政治家ではなくて、間違いなくボクたち国民にある、というのが実相だ。
ボクたち国民が本気で覚醒する時が来ていると思っている
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【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役
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