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人生は演出だ

ボクはいつもスタッフに、「楽しいこと」や「面白いこと」は世の中に満ち溢れているけれど、他人から与えられるモノじゃなく、自分で作り出さないと決して出会えないよ、と言っている。

ボクは大学受験に失敗し、一浪して予備校に通った経験がある。
その予備校で出会った友人にフランス文学者の奥本大三郎がいる。
出会って以来現在まで彼のことを大ちゃんと呼んでいる。

大ちゃんは東大に進み、後に大学教授として教鞭を執ったが、数十冊に及ぶ数多くのエッセイを執筆するかたわら、昆虫好きが高じて、30年の歳月をかけて「ファーブル昆虫記」全10巻20冊を完訳するという偉業を成し遂げている。
現在はファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務めている。

NHKで放送した「課外授業ようこそ先輩」に出演を依頼したこともあるし、わが社の設立30周年記念パーティーでも挨拶を頼んだ。
人生を楽しんでいるひとりだ。

以前、大ちゃんは「若い頃は、どうでも良いような些細なことで一喜一憂したものだが、その無意味さが、ようやく少しは分かって来たよ」とさりげなく語ったことがある。
ボクもその言葉の意味を実感する。

予備校にもうひとり親しくしていた友人Nがいた。
当時、浪人生活は楽しいものでは無かったのだろうか、ボクはNに「何か面白いことはないかなあ」と聞くでなく聞いたことがある。
Nは呆れたようにボクの顔をマジマジと見つめ「お前は本当に馬鹿な奴だなあ。世の中に面白いことなど存在する筈はないだろう」
その時期の明確な記憶は薄れているが、それでも、その時のNの表情と返答だけは60年近く経った今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

Nは京都大学に合格し、哲学の道に進んだ。
ボクは東京に出て、以来Nとは会っていない。
そのうち音信も途絶え、その後のNの消息は知らない。
しかし、その一言でNはボクの哲学の師匠となった。

その時はNの言っている意味が分からなかったが、今はおぼろげに分かる。
少し理屈っぽい話で申し訳ないが「面白いこと」と言っても誰にとって面白いのか、ということがある。
ボクが面白いことでも、他の人には面白くないかもしれない。
絶対的な普遍性を持つ「面白いこと」など存在しないのである。

あるものに対してボクが勝手に面白いと感じているだけで、そこに「面白いこと」そのものが実際に在る訳ではない。
単なるボクの認識でしかない。
認識はあるが「面白いこと」そのものは存在しない。

したがって「世の中に面白いことなど存在しない」とのNの言葉は正しい。
「楽しいこと」「嬉しいこと」「幸せなこと」「悲しいこと」「苦しいこと」「辛いこと」「不幸なこと」も同様に概念に過ぎず、それらは普遍的な実態を伴わない。
善と悪も、美と醜も同様で、それぞれの感じ方や考え方や捉え方で異なるただの概念で実態はない。

例えば、ある人物の死は、ある人にとっては悲しく辛いことであるかもしれないが、ある人にとっては嬉しく幸せであるのかも知れない。
ある人物の死そのものは、単なる死という事象であり、悲しみや喜びそのものではないと言える。
世の中はそういう実態の無い、捉えどころないものの上に成り立っている訳だ。

ボクたちの日常で起きる事件やさまざまな出来事のすべてにその原則は当てはまる。
つまり、すべての物体も、出来事も、認識して初めて存在する。
色即是空、空即是色とはそういうことを言うのだろうか。

ということは、すべての事象へのボクたちの対応は、ボクたちの意思で自由自在に操れるということでもある。
「悲しいこと」や「苦しいこと」「辛いこと」をボクたちの受け止め方次第で「嬉しいこと」「楽しいこと」に変えることが出来るということである。

ボクたちの周囲にも、世の中がつまらない、仕事が面白くない、とか人生そのものを投げている人たちがいる。
また、目先のちっぽけなことに捉われて苦しんでいる人たちもいる。

その人たちは面白く楽しいことは誰かから与えて貰えるものだと勘違いしているのかもしれない。
世の中や仕事は只の現象に過ぎす、それを面白い、楽しいものとして認識するのは自分自身しかいないことに気が付かないだけかもしれない。

それらは自らが作り出す以外に手にすることができないものである。
そういう意味では人生は演出である。
自分自身への演出次第で面白くも楽しくも出来るのだと思う。

確かに、人が係わる限り、その世界はエゴと矛盾に満ちた混沌に支配されることは身に染みて知っている。
秩序も実は見せかけに過ぎないことも誰もが知っている。
そんな世を無事に生き続けることは至難の業でないことも知っている。

しかし、それは知恵を得てしまった人間の逃れることの出来ない宿命なのだろう。
それでも、奇跡の生を受けた以上、エゴと闘い、矛盾と闘い、人生に喜びを見つけて楽しく生きようとする生き方がボクの望む生き方なのだが。

      「だがしかし ハテナハテナの 浮世かな」


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他者は、どこに?
小田さまは、禅の方ですから、禅における究極的な焦点が「主体性」におかれていることはご存知の通りです。

鈴木大拙氏は、それを「純粋主体性」とよび、それを「非時間が時間と交叉するところ、意識が無意識と交叉するところ、主観―客観、人間―自然、神―世界、という二岐が分かれていないところ、にある」ものと説いています(久松真一、西谷啓治編『禅の本質と人間の真理』184頁)。

また、老荘によると、禅の主体性は、「万物を内に包む働きであり、それはもはや、有ではなくして、有の解体であり、すなわち絶対無として、物があるがままに、山は山として、川は川として、最もリアルに存在しながら、しかも万物が一心として絶対主体の中に包容される。これが禅の主体的主体である」(『禅の本質と人間の真理』724頁)としています。

でも、一切をあるがままに見る見方の反面には、やはり人間観としては楽観的傾斜を免れられないような気がします。
そこでは、人間の悪とか原罪が深刻な事柄として扱われていないという一事があります。
また、人間すべての中にひそむ「全に対する個の背反」という根源的矛盾が、いつの間にかというより、そもそもの初めから除外されてしまっているのではないのでしょうか?
何よりも「他者がいない」のではないでしょうか?
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【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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