FC2ブログ
ホーム   »  未分類  »  ドキュメンタリーの若き研究者たち

ドキュメンタリーの若き研究者たち

先日30歳代前半の2人の女性の訪問を受けた。
彼女たちは日本のテレビのドキュメンタリー番組の研究分析をして論文を発表し、博士号をとろうと活動を続けている人たちだった。
そして、この2人の女性の訪問はボクをタイムスリップさせ50年ほど前の昔へと連れ戻したのだった。

日本テレビに「NNNドキュメント」というドキュメンタリー番組がある。
1970年から始まり週に一度、現在なお放送を続けている長寿番組だ。

ほぼ50年近く続いているから、単純に数えても現在まで2500本ほどの作品数になる。
初期の3年間の番組は保存されていないというが、それでも2300作品以上ある勘定だ。
彼女たちの参加するプロジェクトは研究のために、日本テレビの協力の下、研究費を得て全番組をデジタル化し、それらの作品をすべて視聴したという。

フィルム制作の時代も永かったので、それらをデジタル化するには大変な労力と多額のお金を必要としたに違いない。
中には1時間作品もあるが、その多くが一作品30分なので、2300作品を視るのに単純計算しても、1150時間、48日間ぶっ通しで視続けなければならない量である。

いかに研究のためとは云え、まずそのエネルギーに驚嘆する。
こうして彼女たちの参加するプロジェクトはひとつのドキュメンタリー番組の50年の歴史のすべてを視聴したのである。

ボクは日本テレビに在籍中、1973年から10年間に渡り、この番組のディレクターを務めた。
初めて作った番組は今でも鮮明に覚えているが、残りのほとんどは、指摘されなければ思い出すことはない。

彼女たちは、何故かはわからないが、ボクのそんな作品群に興味を持ち、どんな人物が制作したのか是非知りたいとの理由で人を介してボクにインタビューするために訪ねて来たのだった。

ひとりはMさんで法政大学大学院に在籍し、都内の二つの大学に講座を持ち、週に一度づつ教鞭をとっている。
もうひとりのSさんは早稲田大学の大学院博士課程に在籍中の中国人で国費で留学しており、日本人に中国語を教えながら、Mさんら数人の志を同じくする仲間たちとドキュメンタリーの研究論文の発表に精を出しているとのことだった。

いかにも行動力がありそうで闊達な才女たちのインタービューはたっぷり2時間続いた。
彼女たちは、特にボクの企画の発想や着想、それに演出方法に興味を持っていた。
「タネを明かすとね」とボクは説明した。

ボクが25~6歳頃に、映画監督の大島渚さんの助手として3か月間ほど一緒に仕事させて頂いたことがある。
大島渚さんはまだ40歳少し手前だったと思うが、ヌーヴェルバークの旗手として押しも押されもせぬ大監督だった。
その時の仕事は「映画監督・大島渚」という大島さんが自分自身を描くテレビドキュメンタリーの制作だった。

その制作中、色んな話を聞かせて頂いたが、その中でその後ボクの金科玉条とすることになる教えがあった。
それは、映画でもドキュメンタリーでも制作する時に、大島さんは「必ず何かひとつ、新しい試みをすることを心がけ、それを実行するのだ」というものだった。

「小田クンもやると良いよ」と大島さんは勧めてくれた。
そしてボクはその言葉を忠実に守ろうと決めた。

誰もやったことのないもの、それがテーマであれ、演出方法であれ、とにかく新しいモノを試みることだけに熱中した。
ナレーションの代わりに当時流行っていたコマーシャルを使ったり、ナレーションを無くしたり、当時は見られなかったフィクションやドラマを入れたり、戦前の世相を戦後の歴代首相の演説で構成したり、まだENGが開発されていない頃に日本テレビの技術陣が開発していたVR3000というVTRを初めてロケに持ち出し、リヤカーに載せて取材する等々、思い出すとキリは無い。

あれはドキュメンタリーじゃないよ、との批判もあったし、今から考えると稚拙との思いもあるが、当時は人びとは、そんないろいろな手法やテーマの捉え方を目新しく感じてくれたようで、面白がってくれた。
テレビは、ごった煮の鍋のようなものだとボクは思っていた。
オモシロイものは何でも有りで良いじゃないか。

もっとも、大島渚さんの教えの真意は、もっと深い所に在ったのだったのだろうとは思う。
MさんやSさんもそんな番組に良くも悪くも興味を抱いてくれた様子だった。

「ああ、勉強行進曲」「三上寛の地下道コンサート」「上野駅前交番日記」「その日少年は何も食べていなかった」「俺たちはロボットじゃない」「気がかりな街・新宿」「暴走族の夏」「故郷は戦火の中に」など忘れていた数々のタイトルや内容が彼女たちの口から出ては、ああ、そういう取材をしたなあ、などと当時の様子を懐かしく思い出していた。

「青森の六ヶ所村のラストの空撮のシーンは良かったですねぇ」「クラクション殺人事件で、なぜ運転手が殺人まで起こしたのか、の理由が、その夏が暑すぎたからだ、というのには笑いました」などとボクよりも詳しくその詳細を知っているのにも驚いた。

50年近く前の、未だ彼女たちがこの世に生を受ける前に制作された番組に、若いMさんやSさんが興味を抱いてくれたことには、正直驚いたが、制作者としては同時に嬉しいことでもあった。

「小田さんの作られた『俺たちはロボットじゃない』を研究テーマにして論文を書いています。本が出来上がったらお送りしますね」とMさんは言った。
「俺たちはロボットじゃない」は都内の製瓶工場で働く多くの脳性麻痺や知的障害者などの差別される実態を描いたドキュメンタリーだった。
ボクは終始「地べた視線」からモノを見ていたのだったが、それが、どんな論文に仕上がるのかとうてい想像もできない。

続きはメシでも食べながらにしましょう、とインタビューは場所を変えて延長戦に入った。
研究者たちの旺盛な好奇心は尽きそうにない。

「あなた方をここまで研究に突き動かせているものは一体何なのですか」とボクは思わず聞いた。
「楽しいからです。こうやって、制作者の方と直接話が聞けるのもとっても楽しいし」とMさんは即座に応えるとSさんも大きく頷いている。
「やっぱり楽しいはすべての仕事のキーワードだね」とボクは言った。

実際は苦しいことの方が多い筈である。
彼女たちも決して経済的にはそれほどの余裕はないだろうとも思う。
しかし、自分の好きな研究の道を見つけてその道を懸命に歩み続けようとする強い意思を感じ、思わず嬉しくなった。
「あなた方を見ているとボクたちと同じだなと思いますよ」とボクは言った。

「そう云えば、韓国人のうちの女性社員で東京大学の大学院に籍を置いてジャーナリズムの研究をしながら、某テレビ局の外報部に出向している者がいますよ」と言うと
「ああ、Kさんですね。わたしたち知っていますよ」と言う。
「それにうちの企画実現部のM部長の奥さんも東大の……」と言うと
「Mさんもわたしたちの仲間です」
「もしかすると、会社を退職して、現在うちの社外スタッフとして働きながら大阪大学で博士課程を専攻している……」
「ああMさんですね。知っています」
何と世間の狭いこと。
みんな仲間内じゃないかとまた嬉しくなった。

そして、MさんやSさんは、現在の日本のドキュメンタリーに期待もし、不安も感じていた。
ジャーナリズムの世界にボクなどよりも真剣に深く係っていると感じた。

話は尽きなかったが、夜も更けて来た。
別れ際に「余りお役に立てなくてごめんなさいよ」と言うボクに
「実は今日のインタビューのために、こんなものを準備して来たのですが、だいたい聞くことが出来ました」
とMさんはA4の用紙をボクに手渡した。

そのメモにはびっしりと質問項目が記されていた。
そして、そのメモから、実はボクがその番組で54本の作品を制作していたことを初めて知ったのだった。

      「モノ作り また恥ずかしき また恐き」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。






関連記事
Comment
Trackback
Trackback URL
Comment Form
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

★ホームページ★

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR