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銀行マンたちの新たな挑戦

この夏、旧財閥系のメガバンク二行からお誘いがあり、それぞれの集まりに出席した。
ひとつは毎年この時期に行われている懇親会で、もうひとつは周年記念のパーティーだった。

ボクたちのようなちっぽけな制作会社が、どうして招いて貰えるのか?とも思うのだが、それはさて置き、とても有難いことと感謝しながら参加させて頂いている。
そんなことを含めて、月に何度か銀行マンとお会いするのだが、各行ともに、その営業方針をこれまでと大きく転換させていることが分かる。

店舗数を削減したり、窓口を縮小したり、人員のリストラも進めてきているが、現在も今後もその方針は変わらないようだ。
マイナス金利の冬の時代をどう乗り切って行くのかが各銀行の大きな課題である。

過去には懸命に預金を募っていた時代もあった。
しかし、お金があり余り、その使い道に苦労している現在では「預金などされても、たとえ僅かでも利息を払わなければならないので、下手に預金などして貰わない方が良い」とまで銀行マンが言い切る時代となった。

企業に融資しても、低金利で大きな儲けに繋がらない。
国内での儲けが見込めず、海外への投融資が60%を占めると言われているが、リスクも大きくアメリカや韓国を初めとして大きな損失を蒙っていることもすでに報道され人びとの知るところとなっている。

「これまでは、ノルマが求められ、優良な会社に融資すれば、例えば10点とかの得点がついたが、今は融資の実績は評価されず、点数がつかなくなった」と銀行の管理職は言う。
その言葉通り、ここ半年ほど各行から積極的な融資の誘いがなくなっている。
もっとも、今のところ、十分な融資を受けているという理由もあるが、その気配は銀行マンの言を待つまでも無く強く感じていたことだった。

これまで、融資話が中心だったのが、今では手数料や、ドル建て預金などの投資に近い話や証券、保険、各種カード、それに遺言状の作成に至るまでこれまでに無かったさまざまな案件の勧誘が行われるようになっているからである。

「これまでの営業は方針が定まっていて、その方針に従い、上からの命令や指示で動いていたのだが、今は、何をすれば良いのかを自分たちで考えろ、と言われ、連日、何をどのように営業すればよいかの議論をしている」とも言う。

経済のことはトンと分からないが、日本経済はデフレからの脱却が出来ずにお金が回らない。
経済成長が見込めない中、大企業は有り余る利益を設備投資や給与には投じずに社内留保として貯め込むばかりでお金を使わない。

また大企業や金持ちなど富裕層への優遇政策が進められ、法的にも又貧富の面でもどんどん格差が広がる一方で、圧倒的多数を占めるボクたち庶民は自分たちの将来への不安から無駄なお金を使わないのは周知である。
庶民の将来不安は政府が考えているよりも大きく、深刻で、その財布のヒモは硬いのだ。

今回も経済成長率を下方修正したように経済成長を前提とした政府の政策は目論見通りには果たせず、いよいよ消費税の増税を持ち出し、何が何でも庶民の金を奪い取ろうとしている。

もともと、銀行は世の中にお金という血液を送り込む心臓のような役割を担っている、と言われて来たのだが、お金という血液が円滑に回らないので、重度の体調不良の状態にあるのが、どうやら日本経済の実情であるようだ。
銀行が本来の役割を果たせないとすれば、それは単に銀行の危機ではなく、日本の危機でもあるのだろう。

都市銀行はともかく、都市部と地方の格差が大き過ぎ、地方銀行はその経営が危ぶまれているようだ。
やがては銀行というシステムそのものが消滅することになるだろう、という専門家もいる。

銀行の管理職が語るように、歴史の転換期でもあるそんな現況の下で「自分たちが何をどうすれば良いかを自分たちで考える」ことを銀行マンたちそれぞれが求められている訳だが、確かにしんどいけれど、良いことだし、必要なことだとボクは思う。

縦系列の構造範囲とは云え、自分たちで考え、自分たちの考えで動くことは、権力者や一部経営者にとっては、場合によっては危険と隣り合わせのことであるかもしれない。
しかし、かつて為政者たちが、学問や新しい情報を民衆から遮断し、一部支配階級だけで独占し、多くの国民を衆愚にして操った時代はすでに存在しない。

そして、命令一下やマニュアルでなく、自分たちの考えで動く時は、主体は自らに在り、過程や結果を含めての苦労や成果を上司や会社や世の中の所為にはできない反面、達成感も得られる。
そしてまた一方、自分の努力や能力不足を棚に上げて、すぐに環境や他人の所為にする現在の風潮の中で、言い訳の効かない形の自己責任の重さを知り、その結果として、自分が大きく飛躍し成長する絶好のチャンスと思えるからである。
そういうスタンスで仕事に取り組まないと、グローバル化し多様性を求める企業間競争で生き残っていけない時代でもあるのだろう。

窮地に在る銀行マンたちの新たな挑戦は、そのままボクたち業界でも必要とされるのと同じ挑戦でもあるのだ。

   「掃除機に 吸われるが如く とき移る」




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責任転嫁を「原罪」と言います。
小田さまは「自分の努力や能力不足を棚に上げて、すぐに環境や他人の所為にする現在の風潮の中で、〜〜」と書いておられますが、それは「現在の風潮」ではなく、人間の本性なのです。

聖書はその冒頭で、原人・アダムとエバの「責任転化」を神話的表現で次のように記しています。

「彼ら(原人・アダムとエバ)は、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。
そこで、人(アダム)とその妻(エバ)とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
主なる神は人(アダム)に呼びかけて言われた、
『あなたはどこにいるのか。』
彼は答えた、
『園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです。』
神は言われた、
『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。
食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか。』
人(アダム)は答えた、
『わたしと一緒にしてくださったあの女(エバ)が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです。』
そこで主なる神は女(エバ)に言われた、
『あなたは、なんということをしたのです。』
女は答えた、
『へびがわたしをだましたのです。
それでわたしは食べました。』

原人相互の「責任転嫁」は、「自由は求めるが、責任は負わない」という人格的崩壊を暴露しています。

聖書は、人間のいかなる努力・精進によっても、この「責任転嫁」の本性をなくすことは出来ず、ただ「イエスの霊(聖霊)」によってのみ、と断言しています。
その意味で、聖書は、人間絶望の書です。

ニーチェは、その根本テーゼとして「すべての神々は死んだ。今やわれわれは、超人が生きることを欲する」(「ツアラトゥストラ」)と書いています。

聖書を超えることが出来るか否か、挑戦なさってみてください。
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