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不夜城からの転身

4月1日から「働き方改革関連法」が順次施行され始めた。
例えば、これまでは残業時間に制限はなかったのだが、これからは法律で上限が定められ、月45時間以上の残業が禁じられるなど、働き方についての規制が厳しくなる。

この関連法での規制のほとんどは大企業から施行され、中小企業に多く適用されるのは一年先になるが、すでに働き方の難しい時代を迎えている。
ちなみに中小企業とは大ざっぱに言って、資本金3億円以下、従業員数300人以下の企業を指すが、日本の99%以上の企業がそれに当たる。
そして労働者の約70%が中小企業の従業員である。

当然ながら、小なりとは言え、ボクたちの会社でも、法律の規制により、真剣にそれらの問題に取り組まざるを得ない状況にあり、現在、限りなく残業ゼロを目指すための努力を重ねているところだ。

働き方改革法案が国会で審議される頃までは、それこそ本当に自由に伸び伸びと働けた。
もしかすると、その裏には日本の中で、多くの労働者残酷物語の数々が存在していたと思われるが、少なくともボクたちの会社の意識の中にはそういう感覚は無かった。

これまで、仕事の延長線上でスタッフたちを食事や飲みに誘い、仕事とも遊びとも区別のつかない大量の時間を過ごした。
時間や仕事に対する根本的な考え方が現在の法律の精神とは違っていた。
若いスタッフに「ボクたちの仕事は24時間だ」といつも語っていた。

会社を離れた日常生活の中でも、自分たちの見聞きするものを含めてすべてを自分の栄養にして企画を生み出すことの必要性を説いていた。
仮に、会社で暇な時間があれば、街をブラブラするも良し、人と会うのも良し、映画のひとつでも観た方が良いなどとも語っていた。
それらすべてがドキュメンタリーを制作するというボクたちの仕事のひとつであると考えていた。
ボクたちの日常をすべて仕事につなげるものだと考えていたのだった。
だから24時間が仕事だと。

深夜にフラリと会社に立ち戻ると、必ず誰かが仕事をしていた。
自分がやるべき仕事をしていた。
会社に誰も居ないことはほとんど無かった。
だから会社は不夜城だった。
会社の灯りが消えることは無かった。

ボクたちは誰に頼まれた訳でもなく、自ら選択してこの仕事に就いた。
この仕事が好きだからこの仕事をしているのだと信じて疑うことはなかった。

ボクたちの仕事は、現実の世界を注視し観察し、その現実を記録すると共に、ただ現象だけではなく、その現象の裏に潜む実相を描き出すことである。
そのためには、観察力、分析力、洞察力、想像力は勿論のこと、それら現象の真実を描き出すための表現力や物語を紡ぐための創造力が不可欠である。
それらの能力の総合力の上に初めてボクたちの仕事は成り立つ。

だから、ボクたちの仕事は、本人の自覚の有無はともかくとして、それらの能力を必要とする選ばれた人たちだけが可能な仕事なのである。
そして、何よりも大切なのは、この仕事が好き、ということである。
やらされているのではなく、自ら選んでやっている、との意識である。

従って、この仕事が嫌になったり、自分には合わないと思った者は辞めた方が良い。
去る者は追わず、がボクの基本姿勢である。
しかし、絵に描いたようには行かないのが現実というものだ。

世界的な世の中の変化と共に価値観も変化する。
これまでの常識は非常識となる。
いまどき何を馬鹿なことを言っているのだ、時代が違いますよ、そのような考えは通用しませんよ、ということになる。
そして、好きなだけ、自由に働ける時代はその終焉を迎えている。

ボクは経済オンチで経済の動きについてはトンと分からないが、それでも資本主義経済が行き詰りを見せ、世界的に経済の在り方が大きく変わらざるを得ない転換点のまさにそんな時代に生きていることは分かる。
そんなグローバルな世界経済の潮流の中で、各国は生き残りと成長を賭けての死闘を演じている。

日本でも、すでに終身雇用制が崩壊し、国は転職を勧め、ひたすら生産性を追求する。
だが、しかしである。
それで本当にボクたちは、納得のいく、幸せな道を辿れるのだろうか、との疑問を持つ。

働き方改革の骨子は効率と生産性の向上が主たる目的であることは周知だ。
そして激しい生存競争がその手法として用いられる。
競争社会の行きつく先は、何か。
富める者と貧しい者の二極化であり、共存共栄思想の喪失である。
お互いに助け合い、補い合いながら生きることが難しい社会になる。

嘆いて見せたところでどうなるものでもないが、ボクは「働き方改革関連法」はとんでもない悪法であると思っている。
人を労働力としてしか見ない、つまりは生産のための道具としか考えない、国家主義の思想であると思っている。

働くことの価値に対する捉え方が全く異なる。
労働は義務ではなく、喜びであるべきだ。
社会の政治、経済、文化などを見つめ、それらを映像化する創造的な分野に当てはめるべき法律ではないとも考える。

「悪法もまた法なり」と言ったのはギリシャの哲学者ソクラテスの言葉とされているが、一旦決められた限り、それを守る義務はある。
しかし、法にとらわれ過ぎて、経済優先の功利主義に走り、仕事そのものや、共に働く仲間意識や自ら属するグループや会社などの組織、もっと大きく云えば自分の住む国を大切に思う心を喪失してしまうことは虚しいことである。

働く場である城が不夜城であること、それ自体には特別の意味はない。
不健全だとの見方も当然あるだろう。
しかし、ボクは不夜城の職場とは働くことのひとつの自由の形であると考えている。
意志ある者がどのように働こうと自由ではないかとの思いがある。
不夜城はその象徴だとボクはこれまで楽しく見ていたのだった。

しかし、その時代は終わった。
サテ、どのように新しい時代の働き方と向き合うか。

ただ、例え時代遅れとのそしりを受けようと、経済性主体の考えに陥ることのないように、そしてボクたちの会社が何を求めて生きているのか、その本来の目的を見失わないでいたいと考えている。

      「働き方自由改革法案」




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「わたしのモノも、あなたのモノ」
あらゆることの根源で問われなければならないのは、「人間とは、何か?」です。

その一例を挙げます。

「目には目を」という「五分五分法」は、現代世界でも取り入れている根本的規範です。
その歴史は古く、紀元前1792年から1750年にバビロニア帝国を統治したハムラビ王が発布した「ハムラビ法典」で成文化されたのが最古の記録です。

それから4000年経ったいまも、五分と五分との線引きが出来ずにいます。
国と国との領土の問題はもとより、被害者と加害者の関係、労働とその対価の関係、嫁と姑の関係、親と子の関係、兄弟姉妹の関係、遺産相続をめぐる係争など、五分と五分との線引きが出来ない事例は日常茶飯事で、枚挙にいとまがありません。

なぜでしょう?

人間が、被害者意識に鋭敏で、加害者意識に鈍感だからです。
言葉をかえれば、人間とは、「自分のモノと、他人のモノの区別」が出来ない、実に哀れなものなのです。
「それくらい出来る!!」と思っていたとしたら、その人は「他害的」な人なのです。

「あなたのモノはあなたのモノは、わたしのモノもあなたのモノ」という意識を持ち続けなければ、絶対に五分と五分との正しい線引きはできないのです。

オルタスジャパンという小社会が、そういう在り方が出来ることを、監査役として切望しています。
にんにく劇場
まったくもって、小田さんのおっしゃられるとおりです。労働は義務ではなく喜びであるべきです。 
一匹文士より
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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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