世の中って分からないことが多い
近しい知人の話だが、海外から日本に旅行でやって来た何人かの人たちの案内をすることになり、すでに数日経ったのだが「いやあ、大変でね」とこぼしている。
来日した客というのが、イスラムだったり、ヒンズー教徒だったりと、それぞれ宗教の戒律に縛られて生きている人たちなので、食べ物ひとつ決めるのにも苦労しているらしい。
イスラム教徒は豚肉を食べないことは知られているが、他の食べ物でも決められた加工や調理に関する決まりがあり、その決まりのことを「ハラール」と云うことも一般に知られるようになった。
ハラールとは「許された」とか「合法の」というイスラム語で、このハラール合格印が無い食品は食べられない。
ブタを調理した包丁やナベを使うことも許されないから、普通のレストランには入れない。
かつて味の素がインドネシアで、触媒として豚の酵素を使用していたとして技術者が逮捕される事件があった。
インドネシアは人口の90パーセントがイスラム教徒で占められている国なのでこういう事件が起きる。
食べ物だけではなく、化粧品や医薬品から衣服、玩具などの品物を選ぶ時にも「ハラール」であるかどうかが問題になるらしい。
「絹織物がダメなんだから、困っちゃうよね」と知人は言う。
絹は蚕のマユから出来ているので戒律に触れるのだそうだ。
インドやネパールで多数派を占めるヒンズー教徒は、神話に登場する聖獣だからという理由で牛は食べないが、菜食主義が基本らしく、今回来日した客のひとりもベジタリアンだと言う。
菜食主義の人たちは、キノコ類も菌だとの理由で食べないそうだ。
原理主義への対応は難しい。
戒律を守る人たちの案内役をすることになった知人の苦労は並大抵ではないことだろう。
宗教や思想上の戒律は、それを守りたい人たちの自由だから、とやかく言う気は毛頭ないが、異教徒や特にボクなどのような無神論の者にとっては不思議な世界である。
羊肉や鶏肉などは許されるのにどうして豚肉や牛肉は駄目なのか、すぐには理解できないし、ベジタリアンにしても、動物は食べないのに、どうして植物ならば良いのか、その根拠も寡聞にして分からない。
動物も植物もその祖先は同じで、進化の過程でそれぞれの形に別れた生物である。
当然ながら植物にも生命があり、もしかすると人間よりも優れた知恵があるのかもしれない。
ただ形状やその生き方が異なるたけで、植物もボクたちと同等の生き物である。
クジラやその仲間のイルカに関して、自然保護や動物愛護を声高に唱える人たちのヒステリックな行動も、その根拠にしている理屈がどうにも分からない。
可愛いからとか、脳が発達しているからとかの理屈は、分かるようで分からない。
牛も馬も豚もウサギも可愛いし、それぞれ賢い。
クジラやイルカと何の基準が異なるのかが分からない。
ボクたちは何かを食べなければ生きて行けない宿命にあるので、必ず生物の生命を食べている。
可愛いい筈の動物たちも平気で食べている。
上野には犬を食べさせるお店もある。
食事の前の「いただきます」は食事を与えてくれる親やホストに向かっての感謝の挨拶だと、子供の頃は思っていた。
命をいただくことだと気付いたのはずっと後のことだった。
だから飽食は褒められた行為ではないし、ましてや美食などは本来は倫理に反することだ。
でもボクたちは恥知らずにも、美味しい食べ物を求めるし、お腹いっぱい食べたいと思う。
食材の味や美しさを追求する有名料理人もいれば食文化というジャンルも存在する。
食習慣などの言葉もあり、世界にはそれぞれの国や地方に合った個性豊かな食の形がある。
もともと、ひとつの命を殺して、それを食べることについては、矛盾や欺瞞に満ちている訳だが、普段の生活では、その暗闇の部分は意識から葬って生きている。
そうしなければモノ食う存在はしんどくて、とても生きて行けない。
しかし、多くの心ある人たちは、そのことを知っていて、胸の中で手を合わせながら、「いただきます」と食べ物を口に運んでいる。
それは自然なことである。
そう思うと、動物愛護だの、食べ物の禁忌だの、菜食主義だの、いかにもそれが正しいことのように唱えることに何を今さらとの違和感を禁じ得ない。
食べてよい物といけない物の境界線とその理屈がよく分からないし、押し付けがましく感じる。
食べ物などはまだ分かり易い方で、世の中は理解不能な分からないことに満ちている。
現代の医学の分野でも病気の60%以上が病名もつけられず治療が出来ないと聞いているし、自然科学の分野でも解明されていることはごく僅かだ。
しかし、科学の世界では少しづつだが着実に色々な事実が明らかにされているし、時間を掛ければそれなりの成果が期待できる。
一方、人間の暮らしを含めて、人間の作る世界は、益々複雑で訳の分からない事象を増やして行くのではないかと思えてならない。
その原因の根本は欲望と恐怖だと思うが、それが世の中をややこしく、分かり難くしていく。
そして、分かり難い事象とは、つまりは不自然なことなのだと思う。
科学や学問の世界はともかく、人の暮らしは、余り突き詰めすぎると窮屈になっていく。
そして原理主義に陥り、自らの自由を奪っていく。
行き過ぎた管理や規則や約束事は、往々にして本来の目的を見失い、それを守ることが目的となり、がんじがらめの世の中を生み出す。
白と黒だけではない曖昧な世の中、猥雑で自由な世の中が面白い。
「有れば良し 無くても良しの 風来坊」

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来日した客というのが、イスラムだったり、ヒンズー教徒だったりと、それぞれ宗教の戒律に縛られて生きている人たちなので、食べ物ひとつ決めるのにも苦労しているらしい。
イスラム教徒は豚肉を食べないことは知られているが、他の食べ物でも決められた加工や調理に関する決まりがあり、その決まりのことを「ハラール」と云うことも一般に知られるようになった。
ハラールとは「許された」とか「合法の」というイスラム語で、このハラール合格印が無い食品は食べられない。
ブタを調理した包丁やナベを使うことも許されないから、普通のレストランには入れない。
かつて味の素がインドネシアで、触媒として豚の酵素を使用していたとして技術者が逮捕される事件があった。
インドネシアは人口の90パーセントがイスラム教徒で占められている国なのでこういう事件が起きる。
食べ物だけではなく、化粧品や医薬品から衣服、玩具などの品物を選ぶ時にも「ハラール」であるかどうかが問題になるらしい。
「絹織物がダメなんだから、困っちゃうよね」と知人は言う。
絹は蚕のマユから出来ているので戒律に触れるのだそうだ。
インドやネパールで多数派を占めるヒンズー教徒は、神話に登場する聖獣だからという理由で牛は食べないが、菜食主義が基本らしく、今回来日した客のひとりもベジタリアンだと言う。
菜食主義の人たちは、キノコ類も菌だとの理由で食べないそうだ。
原理主義への対応は難しい。
戒律を守る人たちの案内役をすることになった知人の苦労は並大抵ではないことだろう。
宗教や思想上の戒律は、それを守りたい人たちの自由だから、とやかく言う気は毛頭ないが、異教徒や特にボクなどのような無神論の者にとっては不思議な世界である。
羊肉や鶏肉などは許されるのにどうして豚肉や牛肉は駄目なのか、すぐには理解できないし、ベジタリアンにしても、動物は食べないのに、どうして植物ならば良いのか、その根拠も寡聞にして分からない。
動物も植物もその祖先は同じで、進化の過程でそれぞれの形に別れた生物である。
当然ながら植物にも生命があり、もしかすると人間よりも優れた知恵があるのかもしれない。
ただ形状やその生き方が異なるたけで、植物もボクたちと同等の生き物である。
クジラやその仲間のイルカに関して、自然保護や動物愛護を声高に唱える人たちのヒステリックな行動も、その根拠にしている理屈がどうにも分からない。
可愛いからとか、脳が発達しているからとかの理屈は、分かるようで分からない。
牛も馬も豚もウサギも可愛いし、それぞれ賢い。
クジラやイルカと何の基準が異なるのかが分からない。
ボクたちは何かを食べなければ生きて行けない宿命にあるので、必ず生物の生命を食べている。
可愛いい筈の動物たちも平気で食べている。
上野には犬を食べさせるお店もある。
食事の前の「いただきます」は食事を与えてくれる親やホストに向かっての感謝の挨拶だと、子供の頃は思っていた。
命をいただくことだと気付いたのはずっと後のことだった。
だから飽食は褒められた行為ではないし、ましてや美食などは本来は倫理に反することだ。
でもボクたちは恥知らずにも、美味しい食べ物を求めるし、お腹いっぱい食べたいと思う。
食材の味や美しさを追求する有名料理人もいれば食文化というジャンルも存在する。
食習慣などの言葉もあり、世界にはそれぞれの国や地方に合った個性豊かな食の形がある。
もともと、ひとつの命を殺して、それを食べることについては、矛盾や欺瞞に満ちている訳だが、普段の生活では、その暗闇の部分は意識から葬って生きている。
そうしなければモノ食う存在はしんどくて、とても生きて行けない。
しかし、多くの心ある人たちは、そのことを知っていて、胸の中で手を合わせながら、「いただきます」と食べ物を口に運んでいる。
それは自然なことである。
そう思うと、動物愛護だの、食べ物の禁忌だの、菜食主義だの、いかにもそれが正しいことのように唱えることに何を今さらとの違和感を禁じ得ない。
食べてよい物といけない物の境界線とその理屈がよく分からないし、押し付けがましく感じる。
食べ物などはまだ分かり易い方で、世の中は理解不能な分からないことに満ちている。
現代の医学の分野でも病気の60%以上が病名もつけられず治療が出来ないと聞いているし、自然科学の分野でも解明されていることはごく僅かだ。
しかし、科学の世界では少しづつだが着実に色々な事実が明らかにされているし、時間を掛ければそれなりの成果が期待できる。
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その原因の根本は欲望と恐怖だと思うが、それが世の中をややこしく、分かり難くしていく。
そして、分かり難い事象とは、つまりは不自然なことなのだと思う。
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