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人生を楽しく過ごすことはできるのか

与太話にもう少しばかりお付き合いのほどを。

明日は明日の風が吹く
明日のことは風まかせ
明日のことなど分からない
と思ってボクたちは生きている。

しかし、本当にそうなのだろうか、と最近になって思うようになった。

実は、すべての事象はすでに決められたシナリオ通りに動いているのではないだろうか、ボクたちの日常に起きている事件も事故も人々の生活のひとコマに至るまでのすべてが、あらかじめ事前に決まっているのではないのだろうか、別の言い方をすれば、必然の結果として未来が展開しているのではないか、との感を深めている。

予知能力の無いボクたちは、今現在より先の未来の形が分からないままに自分たちの役割を懸命に演じているだけではないのだろうか。
これは単なるボクの直感に過ぎず、現在の時点では、科学的根拠に基づくものでは全くない。

しかし現実を良く見れば、偶然だと思っていることも、未来のことも本当は予定のシナリオ通りのことではないのか、そう考える方がいろいろと辻褄が合う、とボクには思えるのである。

もっとも分かり易いのが自然の現象だ。
例えば、一定地域の梅や桜や桃などを初めとして、すべての植物は一定の時期に開花するし、実をつける。
気象を含めた自然のサイクルに従って予定通りの動きをする。

地震などの例も同じである。
いつ、どこで、どれほどのエネルギー規模で地震が起きるのかは、自然の中ではすでに決まったスケジュールで生じることは疑いようのない事実だ。

それを、まだ人間の力では予知できないだけの話である。
だから、ボクたちにとってみれば、突然起きたように思い、「想定外」ということになる。
雨や風やすべての自然現象は、決して突然や気まぐれではなくて、予定通りに動いている。

昔は外れることが当たり前だった天気予報が、科学技術の進歩で気象情報とその名称を変えて、広域でより確度の高い予報に変身し、その予報の期間も長期間、可能になっている。
このことは取りも直さず、気象の未来がすでに決まっていることの証である。

かつて、水不足で飢饉に瀕した際の雨乞いの儀式で、奇跡的に雨を降らせることが出来た逸話などが残っている。
雨を呼びよせた人物は、当時は霊能者として崇められたに違いないが、それも今は昔の物語だ。

宇宙の自然現象は勿論のこと、自然の摂理の下に生きる人間を初めとするすべての生き物の全行動が運命として定められているのではないか、などと言うと、馬鹿社長もいよいよ毒が頭に回り、狂い始めたか、と思われる方も多いかと想像する。
その通りで、これは単なるボクの直感に過ぎない。

しかし、先にも述べたように、100万年~200万年後には人類は滅亡し、10億年後には、地球の生物の歴史が終わり、さらに遠い将来には、地球は巨大化した太陽に飲み込まれ、最終的には全宇宙が消滅するであろうことは、まぎれもない現在の科学の予測である。

これは、かつてNHKスペシャルで知った事実だが、当時は正直言って衝撃を受けた。
推論とは云え、これら一連の予言は、NHKの番組で放送される位だから、今では一般的にも信じられているが、20世紀初頭までは、科学者の間では「宇宙は不変で定常的」と考えられていた。

だから、わずか100年前でも、地球や宇宙が消滅するだろう、などと言えば、何を血迷ったことを言っているのか、との批判を受けた筈である。

今後、DNAの研究がさらに進み、そこに刻まれた設計図を読み解く分析能力が高まれば、人間を含めてDNAを有するすべての生物の一生の行動の解析が可能になるのではないかと信じている訳だ。

ボクは自分のその直感を勝手に信じているので、宇宙時間的には一瞬のまばたきにも満たないボクたちの一生を思う時、定められた運命ならば、それがどんな運命であろうと、とにかく懸命に生き、その結果が吉であろうと凶と出ようと、運命として受け止めよう、そして、どうせそれが定めならば、悲しいことも苦しいことも、また辛いことも、全部ひっくるめて楽しんでしまえ、その方が、しんどいことが圧倒的に多く大きいことが当たり前の人生を、少しでも幸せ大きい一生に出来るのではないか、と思っている。

恐らく、広い宇宙の何処を探しても、神が見つかる訳もなく、天国が存在する筈もない。
神や天国は人間が便宜のために創造した概念に過ぎない。

そしてその概念を持つことができるのはそれぞれ自分自身でしかない。
神や天国がその存在を信じる人の気持ちの中にしか存在し得ないのと同様に、幸せや楽しみなども自分自身以外から探し出すことはできない。
そうだとすれば、自らが楽しいという概念を自分の中に創り出すしか楽しく生きることは出来ないのだろう。

そして、この楽しいとの感覚は、あくまでも自分自身が創り出すものだとは云え、自分のすぐ傍に不幸で悲しむ者がいれば持ち得ないことも事実だ。
隣の人も、またその隣の人も楽しめてこそ、初めて自分も楽しめる。

自分が楽しむために、自分以外の人たちも楽しめるようにして行こう、との意思の連鎖を実現出来れば、世の中は現在よりも、もう少しばかりは暮らしやすくなるのではないかと思ってこれまで生きて来た。

ボクはいま経営している会社というひとつの社会でそれが実現できないか、との試みをこれまでずっと続けてきたが、それがどれほど難しいことかを知ってはいる。

ボクたちを取り巻く環境は古来より、優勝劣敗、弱肉強食の原則が支配して来た。
力の強い者が勝ち残り、劣っている者が負ける。
生存競争で強者が栄え弱者や不適応者が滅びるのが現実の姿である。

しかし、少し考えてみれば、強者であれ弱者であれ、それぞれの持つDNAに刻み込まれた設計図の意に沿って動いている操り人形にしか過ぎない、との見方も出来る。

そしてそのDNAは何万年、何十万年前の祖先のDNAを連綿として担っている。
ボクたちの中にすでに絶滅したネアンデルタール人の遺伝子が3%ほど引き継いでいることも明らかになっていることからも、それは証明出来ている。

その意味では、人間ばかりではなく、すべての生き物は世紀を越えて、気の遠くなるほどの長い時間の祖先代々の歴史や記憶を抱える貴重な存在なのである。

つまり、強者も弱者も、また優れた者も劣る者も、それは現在のひとつの形に過ぎず、本人の責任でもなければ手柄でもないし、悲しむことでも威張って誇ることでもない訳である。

だとすれば、運よく強い立場にいる者が、運悪く弱い立場にいる者に手を差し伸べて助けることは自然な行為だと思える。
もし、人間らしさやヒューマニズムがあるとすれば、お互いの足りない部分や弱い部分を補い合って生きることが出来る筈である。

ボクはそのキーワードが「楽しく生きる」ことであると信じている。
「みんなが楽しく生きる」である。

ボクたちの会社で働いている、それぞれスタッフひとりひとりの個性が異なり、価値観や人生観、世界観も異なり、それが、それぞれのDNAに刻まれた設計図に描かれた形であり、変更不可能な存在であることを自覚している。

そして、ボクのこの「みんなで楽しく生きる」試みは実現することが出来る筈だとまだ信じているのだ。
ボクに残された時間はそれほど多くはないが、この試みはこれからも続けて行くつもりでいる。
   
      「楽しめば そこが極楽 都なり」 


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「啄木と祖父」
「恐らく、広い宇宙の何処を探しても、神が見つかる訳もなく、天国が存在する筈もない。
神や天国は人間が便宜のために創造した概念に過ぎない。」(小田さま記)

「神有りと 言ひ張る友を 説きふせし かの路傍の 栗の樹の下」(啄木)   

神有りと言ったのは、ぼくの祖父・野辺地天馬です。
啄木に説きふせられたのですね。
でも、苦難の連続の人生にもかかわらず、あらゆる書簡に、
「雲の上は 常に 快晴なり」
と書き添えていました。
最後は、静かな旅立ちでした。

一方、啄木の最晩年のありさまは悲惨でした。
それをよくあらわしている彼の歌を記載しようとしたら「不正アクセス」で拒否されました。
ITの世界は、まだその程度なのですね。
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【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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