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自分探しの秘密

毎度ながらのお恥ずかしい与太話で。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というのはご存じ孫子の兵法だ。
さらに「敵を知らずして己を知れば、一勝一負す。敵を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず危うし」と続く。

敵と味方の情勢について熟知していれば、何回戦っても負けることはない。
敵情を知らないで味方のことを知っているだけでは、勝ったり負けたりして勝負がつかず、敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける、と説いている。

「攻撃は最大の防御なり」「先手必勝」とばかりに、かつて太平洋戦争で日本は真珠湾を先制攻撃し、国を挙げてアメリカに戦いを挑んだ。
結果は周知の通りで、日本は沖縄から本土までボコボコに叩かれ、広島と長崎に原爆まで投下され地獄を見た。
まさに「敵のことも味方のことも知らなければ必ず負ける」との孫子の説法通りになった訳である。

これは余りにも愚かすぎた例だが、ボクたちの日常でも同じような事例はいくつもある。
殊に、相手のことについては、調べたり、研究したりして情報を得るのだが、案外「己を知る」ことはなおざりになるケースは多いのかもしれない。

しばしば、世の中で何が信用できないと言って、自分ほど信用できないものはない、とか、自分でも自分のことが分からない、とかの表現を耳にする。
孫子が指摘しているように、それほどに「己を知る」ことはとても難しいことなのかもしれない。
だから孫子は、敵と同様に己を知ることの必要性をわざわざ強調しているのだろう。

周囲にも自分が分からないで、懸命になって「自分探し」をしている人たちを見かける。
一般的には、自分のことは自分が一番知っている筈だと思い込んでいるだけに、自分を探すとは、とても不思議なことのように思える。

本来、「自分探し」の言葉通りのテーマは、突き詰めれば、先日亡くなられた脚本家の早坂暁さんから出されている宿題である、夏目漱石の小説「門」に登場する公案「父母未生以前本来の面目を問う」を考えることになる。
お前の父や母がまだ生まれる以前のお前はいったい何者だったのか、つまり、お前は何者か、ということである。
これは禅宗の問答だからなかなかの難題だ。

しかし、いま流行っている「自分探し」はもう少し単純で分かり易い。
夢にはぐれた若者が、どこに向かって進めば良いのか分からなくなってその生き方に迷ったり、現代の世の中に渦巻く不安や恐れに立ち向かう勇気を持てず、どのように生きれば良いのか分からなくなったり、ある程度社会的な責任を全うした熟年の人たちが、何かやり残したのではないかと焦りを感じたり、等々の「自分探し」なのだろうと推測できる。
この場合の「自分探し」は自分の生き方探しである。

自分のことが分からなかったり、自分の生き方探しをするのは、結局は自分の存在そのものや本心が、行方不明になっているということだ。
四六時中、寝ても覚めても、一心同体で一緒に居るはずの自分が、どうして行方不明になったり、分からなくなったりするのだろう。
とても不思議なことである。

自分が自分のことが分からない、その理由は、人は自分の姿や心を客観視することが出来ないからだと思う。
人は、物理的に自分の全身を離れた所から見ることは出来ない。
特に、表情を表す大切な顔は自分の眼で直に見られない。

確かに、鏡や映像で見ることは出来るが、それらはあくまでも虚像であり、本物の自分ではない。
それに、鏡で自分の顔を常に見ている訳では無い。
ボクなどは風呂場でヒゲを剃る時に見る位で、それもしっかりと顔を見ることはしない。

写真や映像なども同様で、シゲシゲと自分を見る機会などほとんど皆無だ。
声にしたって同じである。

つまり、表情や仕草や癖なども含めて自分の姿を客観的に見る機会は無いに等しい。
様々な局面で自分がどんな顔をして他人と接しているのか、どんな表情や姿勢でいるのか、その姿を日常で意識することが無い。
つまりどんな人も、自分の顔や姿のことは見ていないし、知らないのだ。

それに引き替え、他人のことは良く観察している。
ボクたちが見ているのは常に他人の顔や姿なのだ。
どんな顔をしているか、時々の表情からその心の動きまでもが透けて見える。
少なくとも、他人の姿や顔のことの方が、客観視できる分、自分のそれよりも良く知っている。

心も同様だ。
自分の心の動きや考えは客観視できない。
常にそれは主観でしかない。
これは宿命である。

女優のシャーリー・マクレーンじゃないが、幽体離脱でもして、自分を離れた位置から眺めることでもしない限り、自分の客観視は絶対的に無理な話である。
もともと人は自分のことは分からない仕組みになっているということである。

だから、とボクは思う。
「己を知る」ことは自分の力では出来ない、と。
自分の事は、自分よりも他人の方が、より良く知っているに違いない、と。
それ故に「己を知る」ためには自分を知る他人や社会の眼の方が確かで、他人や社会の自分像に謙虚に耳を傾け、その見方を受け入れる方法しかないのだ、と。

いま流行の「自分探し」は、つまるところは、エゴのなせる業である。
ひらたく云えば現実からの逃避である。
しかも、狭い空間と狭い心で自分の中だけで完結しようと必死の努力を繰り返す。
このど壺に落ち込むとなかなか抜け出すことは難しいだろうと予測できる。

その意味では「己を知る」と「自分探し」とは似て非なるものである。
「己を知る」とは社会の一員として積極的に生きることであり、「自分探し」とは社会から眼を反らすことである。
これがボクの独断と偏見に満ちた自分探しの秘密である。

     「酒喰らい 己知らずで 大の字に」


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