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鎌田慧さん、初めての出版パーティー

10月26日の夕刻、ルポライターの鎌田慧さんの出版を記念してパーティーが催された。
市ヶ谷の私学会館(アルカディア市ヶ谷)には200人ほどの人たちがお祝いに駆け付けた。

鎌田さんはこれまでにおよそ170冊の著作を刊行されているが、出版記念会を開くのはこれが初めてのことだと言う。
「わざわざお金を出して集まっていただく方々に申し訳ないから」と云うのがその理由らしかった。
晴れがましいことの嫌いな、いかにも鎌田さんらしい理由である。

今回出版したのは「声なき人々の戦後史」上下巻合わせて779頁にも及ぶ大著である。
この著作のプロローグで鎌田さんは
「戦後、日本は経済大国になったと言われる。
しかしそれは、立場の弱い人びとにリスクを押しつけることで達成されたことを忘れるわけにはいかない。
原発事故によって、都会で消費される電力を過疎地が支える構図が、はっきりと認識されるようになった。
同じ構造は、エネルギー供給に限らず、私が取材を続けてきた労働現場にもあった。
(中略)………私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた。
フリーのライターになって半世紀近く経ったいま、取材ノートで振り返りながら、改めて『真の豊かさとは何か』『日本社会はこれからどこへ向かえばよいのか』を考えてみたい」
と書かれている。
鎌田さんの集大成とも言える著作であるようだ。

鎌田慧さんの略歴をこの著書から転載する。
1938年生まれ。新聞記者、雑誌編集者を経て、フリーのルポライター。
労働、開発、教育、原発、沖縄、冤罪など、社会問題全般を取材、執筆。またそれらの運動に深くかかわる。
主著に「自動車絶望工場」「六ヶ所村の記録」(毎日出版文化賞受賞)「大杉栄 自由への疾走」「狭山事件 石川一雄、四十一年目の真実」「戦争はさせない デモと言論の力」「鎌田慧の記録」など。
他に『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞を受賞している。

鎌田慧さんと初めてお会いしたのは今から36年前、1981年のことになる。
その年の10月に北海道の北炭夕張新炭鉱で死者93人を出すガス突出大事故が起きた。

当時ボクは日本テレビでドキュメンタリー番組の制作をしていたのだったが、早速、炭鉱事故をテーマに取材することを決めた。
世間のすべての眼が北海道の夕張に向けられていたので、ボクは九州の三池炭鉱に向かうことにした。
北で事件が起きれば、その反対の南に向かう、というのも天邪鬼で面白いと考えた。

そして、当時売れっ子のルポライターの鎌田慧さんに番組のリポーターをお願いしたのだった。
快く引き受けて頂いたのだったが、後で本人から「忙しい俺を10日間も拘束したいと言うのはどんな奴なのか興味があった」と聞いた。
恐らく、鎌田さんにとっては初めてのテレビ出演だったと思う。

視点は鋭いが、その眼差しはとても優しくて、同時に気持ちの温かい方だった。
朴訥な話し方に人柄が現れ、人間性に溢れた魅力的な鎌田さんにボクはすぐに惚れた。
これがきっかけで付き合いが始まったのだったが、ボクより5歳年長で兄貴の存在のように思えた。

雑種犬だったが、それぞれ兄弟の犬を飼う事にもなった。
凡という名前にするつもりだと言ったら、鎌田さんも、それじゃ、うちのも凡にするよ、ということになった。
平凡の凡である。

ちょっと面倒をみてくれる?と鎌田さんから言われて、息子さんを短期間だったが、会社でお預かりしたこともある。
カリフォルニア大学、大学院を卒業し、アメリカインディアンの研究をしているという変り種だった。
人懐っこくて真っ直ぐな好青年だったが、根が学者肌でインディアンの研究を続けたいと会社を離れた。

この出版パーティーで久しぶりで会ったが、現在、日本の大学の准教授を務めていて、可愛い嫁さんを連れていた。
『ネイティブ・アメリカ 写真集』『辺境の誇り アメリカ先住民と日本人』などすでに7冊ほどの出版もしている。
一年のうち3ヶ月はアメリカに行き、先住民や非合法移民と寝食を共にし「辺境」を歩いていると言う。
流石に蛙の子である。

鎌田慧さんとも久しぶりだった。
「歳をとられましたね」とボクは思わず失礼なことを云ってしまった。
「そりゃあ、そうだよ。もうすぐ80歳だよ」と鎌田さんは笑った。

ああ、そうか。80歳なんだ、と改めて気づいた。
頭の中には、いつも若々しい鎌田さんのイメージしかなかった。
たまに電話では話しているが、もう4年以上お会いしていなかったことに思い当たった。

そう云えば、このパーティーに参加している人たちは年配者がほとんどだった。
同席した妻は「もしかしたら私が一番若いかもね」と笑った。

カメラマン石川文洋、評論家の佐高信、彫刻家の金城実、軍事評論家の前田哲男、ジャーナリスト高野孟、写真家の大石芳野、キャスター金平茂紀ら各氏の顔も見えた。

何人かの方々が挨拶をされたが、その全員が怒っていた。
今の世の中に対して怒っていた。

中にはとても過激な表現で、安倍政権への怒りをぶちまける女性などもいて、その幼さと直截的な表現に、失笑と拍手を受けていたが、多くの良識ある老人たちは、静かに、しかし、心の底から今の世の在り方を憂え、いま日本が進もうと目指している未来に限りない危惧の念を持っていることが分かった。

その思いは、鎌田慧さんが発信しているエネルギーと同質のもので、その意味ではある種の共感がパーティー会場をひとつにしていた。

日本の暗黒時代の過去を知らない20歳代、30歳代の若者たちの保守化が進み、未来も同様に平和であるとの幻想を抱いているようだ。
しかし、世の中そうは問屋は卸さないことを老人たちは、長い人生の中で学び知っている。

評論家の保坂正康さんは
「こういう世の中になったことを考えると、どこかで自分たちは間違ったのではないか」
と語った。

そして中国の孫文と民俗学者の南方熊楠の逸話を例に出した。
かつて若い頃の孫文と熊楠はイギリスのロンドンで革命や政治について語り合う仲だった。
その後、孫文は辛亥革命を成功に導き、熊楠は田舎に籠る身となった。
革命に成功した孫文が熊楠に会いたいと求めたが、熊楠は「君と会うべき時はすでに過去となってしまった」と言い断ったという。

保坂正康さんは若い頃には鎌田慧さんと会っても目礼を交わす程度であったが、つい数年前から付き合いが始まったという。
孫文と熊楠ではないが、人の関係には「その時」というものがある。
鎌田慧さんと自分との縁をそういうものにしたい。
そして、残りの数年の命を、鎌田さんと共により良い世の中にするために生きたい、と語った。

このブログの冒頭で紹介したように、鎌田慧さんも今回の著作「声なき人々の戦後史」のプロローグで
「私は戦後社会の現実を、犠牲を押しつけられる側から見続け、そのような犠牲のない世の中にしたい想いでルポルタージュを書き続けてきた」
と書かれているが、思いは同じである。
この日、パーティー会場に同席していたほとんどの想いも同じだったのではないかと思えた。

日本社会はこれからどこへ向かえばよいのか。
次世代を担う多くの若者たちは、目先の損得に惑わされ、夢を失い、保身の殻に自らを閉じ込めているのが現状だ。

この若者たちの意識を変えるために何をすれば良いのかがボクたちの課題である。
とにかく若者たちに話しかけ、語りかけ続けることしか思いつかないが、サテどうすれば良いのか。

ボクたち年寄には、20歳や30歳の若者たちの保守化をただ黙って眺めているだけのヒマはすでに残されていないのである。

   「若者よ 明日を憂えよ 覚醒を」


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