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ドキュメンタリーとは

少し長い話になることをまずお断りしておく。
常日頃からボクのブログは長すぎるとのご批判のあることはすでに承知である。

ボクたちの会社は「ドキュメンタリーの制作会社」の看板を掲げて仕事をしている。
そして、実際にテレビやネットのドキュメンタリー番組を中心に制作している。

したがって当然のことながら、ドキュメンタリーに興味を持って会社に集まったスタッフたちが日夜ワイワイガヤガヤと番組作りに精を出している。
春と秋の新入社員の採用試験に応募してくる大学生たちも、ドキュメンタリーを制作したいから、というのがその全員の共通した応募理由となっている。

しかし、これまで改まって、ドキュメンタリーとはどういう番組のことを指すのか、ということについて正面切って論じたことはない。
ボクもかれこれ、50年間以上もこの業界にいてドキュメンタリー番組の制作に直接、間接的に関わってきたが、ドキュメンタリーとは?というテーマで考えたことは一度もない。
これは不思議と言えば不思議な事かも知れないし、実は、当然と言えば当然かも知れないのである。

ボク自身の場合を例にとってみれば、テレビ局に入社し、配属された先の番組が、今から思うと、ドキュメンタリー系の番組だったのだが、その時はドキュメンタリーという意識もなく、その番組のコンセプトだけを理解して番組制作の現場にいた。
その後、短期間だったがワイドショーなども経験したが、その後はドキュメンタリーの制作セクションで過ごすことになる。

しかし、そこでも、ドキュメンタリーとは何か?などとの説明を受けた記憶はなく、牛山純一さんという部長が選んでくれた何十本ものドキュメンタリー作品を、大きな試写室でただ一人、占拠する格好で視た記憶だけが鮮明に残っている。
当時は今と異なり未だフィルムの時代だった。

牛山純一さんは「ベトナム海兵大隊戦記」などの名作を制作した日本を代表するドキュメンタリストだった。
映画監督の羽仁進、大島渚、土本典昭、西尾善介ら各氏を初めとして多くの制作者たちの名作の数々を朝から晩まで何日間にも渡って視つづけさせて貰った。
そして、言葉や説明による概念ではなく実際の映像の数々でドキュメンタリーの何であるかを肌感覚で感じ取らせて頂いた。

その時は気付かなかったが、今思うと、とても贅沢で貴重な体験をさせて頂いたと感謝している。
その時のボクの理解は、ドキュメンタリーはドラマだ、ということだった。

制作者の強烈な個性と主張が映像を通して伝わり、ボクの心臓を震わせた。
取材する対象やテーマは多様でも、そこにはしっかりとしたストーリーが存在し、どの番組にも作り手の鮮烈なメッセージが込められており、作り手の鼓動が視ている者の心に伝わって来る。
テレビは作品ではなく番組と称されるのだが、そのひとつひとつが作品性を持っていた。
そこでは、作り手の個性がそれぞれの演出や手法を通して表現されている。

ちなみに、ドキュメンタリーとは?という一般的な定義は
「実際にあった事件などの記録を中心として、虚構を加えずに構成された映画・放送番組であり、取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」
となっている。

しかし、ボクが触れたどのドキュメンタリーも、その定義にピッタリ当てはまるものは無い。
一般的なドキュメンタリーの定義とされているものは、実は記録映画の定義だとボクは解釈している。
そして記録映画とドキュメンタリーは全くの別のものであると考えている。

記録映画は確かに、ありのままの事実を淡々と記録するものだ。
「えんどう豆の成長記録」「ウニの細胞分裂の記録」「吉野山の四季の記録」等々、ありのままの姿を客観的にただ丹念に記録すれば、それはドキュメンタリーの一般的定義通りの記録映画となる。

しかし、同じ素材でも、そこに作り手の意図やメッセージや演出が加われば、それは別の作品に生まれ変わる。
例えば、生命の不思議や植物の逞しさを描こうとの作り手のメッセージが加われば「えんどう豆の成長記録」は記録映画ではなく、作り手の演出が加わり全く別の意図的作品となる。

また「吉野山の四季の記録」で云えば、自然の織り成す風景をありのままに描けば、それは自然生態記録映画だが、そこに自然の素晴らしさをテーマとするのか、厳しさをテーマとするのか、あるいはその自然の下で生きて行く人々の喜怒哀楽をテーマとするのかでは、それぞれの作品のストーリー展開は異なり、形は大きく変化する。

そして、作り手のメッセージに応じた演出なり視点が加われば記録映画ではなく、ドキュメンタリーに変貌する。
それが、ボクたちの目指すドキュメンタリーというジャンルである。

同じ意味で、ニュースはドキュメンタリーとは似て非なる最たるものである。
また、客観報道の代名詞でもある多くの報道番組もニュースの延長線上にあり、そこで求められるのは、報道的価値に基づく正確な情報であり、作り手のメッセージや主観は排除される。
これらはボクの考えるドキュメンタリーの範疇には無く、報道情報番組である。

言うまでもないが、それはジャンルや考え方の違いに過ぎず、優劣の問題ではない。
優れた記録映画やニュース、また報道・情報番組は歴然として存在する訳である。
優れたドラマやバラエティー番組が存在するのと同じである。
単なるジャンルの違いに過ぎない。

従って、テレビの制作現場でドキュメンタリーとは?などと言う議論に意味は無く、それよりも、それぞれの番組に求められるコンセプトをしっかりと認識することの方が大切なのである。
これがテレビ制作現場でドキュメンタリーとは何か、というテーマが論じられない理由のひとつだ。

ついでに言えば、ボクがこれまで学び、そして自分の中で考えるドキュメンタリーとは、ニュースや情報番組よりもドラマに近いと言うことである。
作り手の伝えたいもの、つまりメッセージをどう伝えられるかがドキュメンタリーの命であり、そのためにはメッセージを伝える手法にもよるが、演出が不可欠である場合が多い、ということだ。

演出とは作為そのものであり、広い意味での創作であり、メッセージを伝えるために欠かせない要素である。
そうでなければ多くの場合、単なる風景と化してしまう。
記録映画やニュースや情報番組などが描いているのは、実は世の中の風景なのである。
それはそれで、そのジャンルに於ける存在価値はあるが、ドキュメンタリーではない、という意味だ。

同じことが企画の段階でも言える。
「こんな面白いことがあるのです」と言って企画書が提出される。
ナルホド、そこにはなかなか珍しく面白い人物や現象が事細かく記されている。
しかし、それだけでは企画書としては却下される。

それは単なる事実や現象であり、いわば風景にしか過ぎない。
それらの事実や現象を通して作り手が何を伝えたいのか、どんなメッセージを発したいのかが欠落しているからだ。
ネタと企画の違いのひとつがここにある。

ところで、ボクたちの会社はドキュメンタリーの制作会社である。
しかし、現実の制作番組で、ボクがドキュメンタリーと規定している番組は決して多くは無い。
だからこれまで、どんな番組を作っているのかを問われた時は「ドキュメンタリー及びドキュメンタリー的な番組を制作しています」とずっと答えてきた。

実際に、ドキュメンタリーや情報番組等々、それぞれのジャンルの境界線は曖昧である。
見た目での、重なりもあり違いもあれば、その本質面での重なりや違いもある。
ワイドショーやバラエティーにもドキュメンタリーとの重なりがある訳だ。
ドキュメンタリーとドラマや、ノンフィクションとフィクションの関係も同様である。

ドキュメンタリーの作り手にも色んなタイプがいる。
100人の作り手がいれば100通りのドキュメンタリーがあるのだが、少し乱暴に言えば、大きくは作為派とありのまま派のふたつに分かれる。

作為派は、その時々の制作に当たって視点を定め全体のストーリーを想定し、自分が伝えたいテーマに沿って演出を凝らす。ワンカット、ワンシーンの構築を計算して伝えたいことにリアリティーを持たせる。ストーリー性が豊富でエンターテイメントを常に求めている意味でテレビ的である。

一方、ありのまま派は、まず全体構成を想定した上で、テーマである事象や取材対象をじっくりと見つめ、特別の注文を付けることなく、自然の動きや行動の中から自分の視点に沿ったメッセージとなるものを発見し、抽出し映像化するやり方である。

しかし、作為派は、達者な作り手で視聴者を楽しませることのできるケースが多いが、下手をすると、思い込みが強すぎて事実を歪曲したり、自分のメッセージを伝えるためにいわゆる「やらせ」だと非難される場合もある。
「やらせ」も演出のひとつだが、これについて論じるのは別の機会に譲る。

一方、ありのまま派は、余ほど面白くインパクトのある取材対象の場合は素材の面白さだけで誤魔化される場合もあるが、的確な観察眼と伝えたいことの狙いの明確さがなければ、先ほど来語っているような、退屈な単なる風景の羅列に終始する可能性が高く商品とならないケースも多くなる。
いわゆる取材対象の面白さ次第という、作り手の主体性喪失の典型となる。

その両者共に、視点の確かさがあり、普遍的メッセージを伝えることが出来れば、立派なドキュメンタリーの作り手となり得る。
手法が異なるだけである。

ここまで、かなり粗っぽい言い方をしてきたが、敢えて続ければ、ドキュメンタリーとは作品であり、作品である限りは、その作家が誰であるかが重要であり、作家である限りは、その作家が伝えようとしているメッセージが普遍性を持ち、明確であることが必要である。

そして、ボクたちは主に不特定多数のテレビの視聴者を対象とするテレビ制作者である限り、視聴者の喜怒哀楽を含めた興味や感動や共感や知的好奇心を満足させ、人々の心を揺らす「番組」を提供するエンターテイナーでなければならない。
そして、またテレビである限りはボクたちは同時にジャーナリストでなければならないのである。

嗚呼、なんと「でなければならないこと」の多いことか。
しかし、これがテレビドキュメンタリーというものの本質であるとボクは思っている。

今はテレビとネットの融合と競合の時代である。
テレビばかりではなくネットが巨大メディアとしての存在感を益々大きく示し初めている。

そして、ネットの世界でもドキュメンタリー制作の模索が始まっている。
今後、さらに広まったメディアを通して、ドキュメンタリーの形は新しい試みを含め試行錯誤を繰り返しながら、さまざまに変化していくことになる。

しかし、作り手の伝えたいことの意志とその手法の明確さは、どのメディアで流されようとしっかりと確立されていなければならないことが条件となることは間違いない。

        「一撃を 新しき言葉 枠打ち破る」


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「時々刻々の人間」
「刹那主義」ということが現代の風潮です。
しかし皮肉なことに、現代ほど、人間の生命的瞬間ともいうべき、「今ここ」を見失っている時はないようです。

小田さんの記事を読んで、大昔の新聞記事を思い出しました。
「時々刻々の人間」という大きい見出しの記事でした。
NHKのテレビ・ディレクター・和田勉さんの随筆です。
その記事の要点は、次のような文章にしぼられているようでした。

「映画をはじめとする従来の表現が、これは『表現にならない』として切りすてていったもの、こぼれおとしていったものを、テレビジョンはひろいあげてゆきたい。ーーどちらかといえば、生物的であることこそ、テレビ的なことであるといえる。いずれにしても『人間をまるごととる』ためには、時間をかけてはいけない。それは一気に、すばやくとればとるほど人間的なものとなるだろう。テレビジョンはこうしてーー時間ーーとだけ関係する。時々刻々の人間とだけ、関係する」(読売新聞、昭和44年4月25日、和田勉「明日を創る」〈4〉)。

割り引きされたり、濾過されたりしない「まるごとの、生物的、人間的」なものを「時々刻々」という生命的瞬間に捉えようとする、この和田勉さんのねらいは、「いまだからこそ」さらに生かされる必要があるのでしょう。

「時々刻々の人間」とは、あらかじめ予想した枠にははまらない人間、むしろ一切の枠や前提を破ってくる出来事における人間というべきでしょう。
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