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蟻とサラダ

毎度ながらの与太話で申し訳ないとは思いつつ。

会社の女性スタッフたち数人と赤坂サカスの食堂にランチを食べに入り、それぞれ思い思いの定食を注文した。
早速、いまでは当たり前になった定番のグリーンサラダが運ばれてくる。

「あ、何、コレ!」とテーブルのはす向かいに座っていた経理を担当しているボクの娘の声がした。
見ると、娘に配られたサラダの野菜の上を少し大きめの蟻が元気よく歩いている。

ボクは無意識のうちに手を伸ばしてその蟻を捕まえようとした。
「駄目よ、お父さん」と娘は言って、ボクの動きを制した。
すかさず、他の女性たちが店員を呼び、新しいサラダを持ってこさせた。
大騒ぎをするでもなく、一瞬の出来事だった。

「何をしようと思ったの?」と娘はボクに聞いた。
「蟻くらい払いのければ良いんじゃないかと思ってさ。別にわざわざ新しいものと取り替えてもらわなくても」と言うボクに「駄目だよ。汚いよ」と虫嫌いの娘は言い、他の女性スタッフたちも「そうですよ」と口をそろえて娘に同調している。
「へえー。そんなもんかね」とボクはサラダを頬張った。

ボクはこれまで蟻を汚いと思ったことが一度も無かった事に改めて気づいた。
マンションで暮らす近頃でこそ、蟻などを含めて、虫を見ることが少なくなったが、子どもの頃から、ずっと一軒家で住んでいた10年ほど前までは、周囲には蟻はいつもいたし、ハエや蚊や他の色々な虫たちを毎日目にしていた。
ドングリの木もあったし、家の裏には土手の草むらも広がっていた。

近頃トンとお目にかからなくなったが、ハエには多少は汚い感はなくもない。
しかし、それとて取り立ててどうと言うほどの観念はない。
食べ物にたかってくれば追い払う程度だ。
衛生上どうかは考えたこともない。
特に蟻とは大人になってからも良く遊んだので親しみさえ持っている。

「昔は米にはコクゾウムシがいてね。米を炊く前に選り分けるのだけど、しばしば一緒に炊きこまれていたもんだよ」とボクはいかにも年寄りじみた話をした。
「嫌ねえ」とみんな眉をひそめている。

子どもの頃は米穀通帳があって米がまだ配給制度だった。
1960年代まで配給制度は続いたが、その頃にはいわゆるヤミ米が実際に流通していたように思う。
有名無実になってからも、米穀通帳は1981年(昭和56年)の食糧管理法が改正されるまで残っていたようだ。

貧しかったからなのか、配給米だけでは足りなかったのか、幼稚園に通っていた戦後間もない昭和22~3年頃は、麦の入ったご飯やサツマイモの入ったご飯を食べた記憶がある。
麦ご飯はパサパサして好きではなかった。

夕食で炊いたご飯はおひつに入れて、食べきれなかった残りを翌朝に食べたりするのだが、そこに大量の蟻が入り込んでいたりする。
そんな蟻ごはんも食べた記憶がある。
今の時代なら大騒ぎのあげく惜しげもなく捨てるのだろうが、その時代はそんな勿体ないことは出来なかったのだろう。

そんな話を交えてすると、女性スタッフたちは、ますますオェーという顔をしている。
だから、年寄の話は嫌なのよ、と思っている。

少し小洒落た和食屋のランチなどに行くと「白いご飯が良いですか、五穀米が良いですか」などとお店の人が注文を聞く。
ボク以外の女性たちはその全員が決まって「五穀米!」と声を揃える。
何が入っているのかは正確には知らないが、米・麦・粟・豆・きび・ひえなどを炊き込んだものなのだろう。

「五穀米は身体にも良いのよ。値段は高いけどね」と妻も圧倒的に五穀米派である。
貧しかった頃には、誰もが銀色にピカピカ光る白い米を食べることを熱望しつつも、仕方なく麦やひえなどの雑穀で我慢していたに違いないのだが、飽食の時代にあっては、わざわざ高いお金を払って雑穀入りのご飯を喜んで食べている。
時代の変化とは云いながら、人とは不思議な生き物である。

時代の変化は、歳の所為なのか、多くの面で感じることは多いが、暮らしで見るとその環境は圧倒的にきれいになったし、衛生的にもなった。
疫痢や赤痢、腸チフス、寄生虫など不衛生が原因の病気は余り耳にしなくなった。
生活環境が整備され、衛生的で健康的になることはとても良いことだ。

しかし、これはボクの独善と偏見に満ちた独断だが、良いことと悪いことは表裏の関係で、それぞれのその総量は一定なのではないかと勝手に思っている。
だから風船のように、どこか凹めば、その分どこかが膨らむように、良い面が増えれば同量の悪い面が現れる。
平和が続くと平和を壊そうとする勢力が力を伸ばす、といった具合である。

それと、人間の欲望にはキリは無いので、一旦ひとつの方向に向かうと、どこまでも突き進んでいく。
美容や健康志向などはそのもっとも分かり易い例だが、ダイエットに夢中になって、栄養失調で亡くなったり、健康を害する女性たちは後を絶たない。
健康に気を配る余り、サプリメントにハマり過ぎたりする。
過度な健康志向が健康を損なう原因となるのは皮肉なことだ。

時節柄、思わず声を潜め少しばかり小声になるが、タバコに対する攻撃などは度が過ぎているとも思っている。
タバコの箱を見ただけでビクつく様子を、先日偶然目にしたのだが、その過敏な反応には逆に驚かされた。
ここまでくればまるで信仰の世界で理屈を越えていて、すでに立派な病気のようにも見える。

ことほど左様に、すべての事象は表裏の関係にあり、エネルギー凹凸の原則に支配されている。
環境が整備されればされる程に、それに反比例して人は免疫を失うのかどんどんひ弱になって行く。
寄生虫を駆除したお蔭てアトピーなどが増えたとの研究結果もあるし、大気汚染が原因なのかどうかは知らないが、昔は多くなかった花粉症などで悩む人たちが急増し、花粉の飛び交う季節になると、マスクをした怪しげな人の群れで街は賑わう。

そして、社会の管理化と共に精神を病む人間も増加する。
ひと昔前、アメリカ社会では都市部の多くの市民が掛かり付けの精神科医がいるとの話を聞き、アメリカは病んでいると思ったことがあったが、その状況は今の日本にそのまま当てはまる。

イギリスやアメリカ、ドイツなどと比べるとまだまだ少ないと言われているが、それでも日本人の10人に一人の割合でうつ病患者がいるようだ。
現実に、ボクの身の回りにもうつ病で苦しむ人たちが沢山いるのだが、このデーターを見てナルホドと納得がいく。

自殺者については平成28年度の警察庁の統計では、2万1897人で、男性は1万5121人、女性は6776人にのぼり、世界で6番目に多い。
女性は3位ということだ。
これらうつ病や自殺者の数と環境の整備やそれに伴う管理社会との因果関係については分らないが、無関係では無いと思われる。

一方、国連が発表した2017年度の世界幸福度ランキングでは155ヶ国の中で日本は51位だった。
幸せは経済の繁栄だけでは得られないということかもしれない。
もっとも、数字はあくまでも数字に過ぎないが、それでも何かを推測するための参考にはなる。

ボクは日本の風土は好きだし、今の自分の暮らしに特別の不満がある訳では無い。
ある程度、好きなようには生きさせて頂いている。
しかし、日本の社会がより住みやすい所であることを願うし、同時に、今進みつつある世の在り方に不安を感じることは確かである。

社会が整備され、社会の管理化が進めば進むほど世の中は窮屈になり、息苦しくなるとの矛盾を生む。
神経過敏な現代人を増加させ、当初の目的には無かった裏腹の不健康を初めとする様々な不都合を生み出す。
どこかで折り合いをつけなければならないのだが、人の持つ欲望は限度を知らないから、妥協は無く、行き着くところまでどこまでも突き進む。

そういう社会では、汚いものや変わったものは異物として排除されるだろうし、物事の規格化が進む。
規則の増加に伴い、やってはならない禁止事項が増える。
ますます人をがんじがらめの環境に追いやる。

形や制度への規制はその土台となる思想の規制に及んでくる。
それが怖い。
想像を逞しくすれば、やがて人工知能が人間社会を管理し、人間は人工知能の支配下に入ることになることは充分に予測できる。

「美しい国」を提唱する団体が現在大きな力を持って存在している。
美しいとの概念はとても抽象的で必ずしも定型がある訳では無い。
美しさは人によって異なる筈なのだが、これが美しい国だとの押し付けが行われることになることは必定でそれが怖い。

「美しい国」と「神の国」は同義語であるとボクは思っているのだが、そんな思想が当たり前に大手を振ってまかり通るような社会だけは絶対に御免だ。

ボクたちの暮らす日本の社会が進もうとしている道を決めるのはボクたちである。
今、日本は将来の日本の国の形を決める分岐点にいることだけは間違いない。

        「夏来れば 厚着の準備 冷房病」

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「内心の秩序」
国や民族の秩序を維持するのに、「否定的戒命」と「肯定的戒命」があります。

聖書は、「否定的戒命」の代表格で、「十戒」のように「してはいけないこと」が列挙されています。「してはいけないこと」さえしなければ、何をしてもよく、ことにその「思考は自由」です。

一方、日本社会は江戸時代からですが、「肯定的戒命」でやってきましたし、いまも同様の観があります。
「肯定的戒命」の代表は、「治教一致」といわれるもので、「内心の秩序」を重んじます。

小田さんの指摘される「美しい国」「神の国」への傾斜の行きつくところは、「内心の秩序」であり、「社会が整備され、社会の管理化が進めば進むほど世の中は窮屈になり、息苦しくなるとの矛盾を生む。」ばかりでなく、個々人の思考まで「管理」されるのです。

これは杞憂ではなく、戦前、戦中の「大多数の被支配層」の誰もが経験したことなのです。
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