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強欲で罪深い人間

何を今さら分かり切ったことを言うのだとのお叱りを受けるかもしれないが、それにしても、人間はなんと強欲で貪欲で罪深い存在なのかとつくづくと思う。

ボクたちの会社には、鉢植えの観葉植物が幾鉢かある。
その中で、幸せの木と呼ばれているドラセナが4鉢、パギラ、ベンジャミン各1鉢は会社の設立記念のお祝いに頂いたもので30年近くずっと一緒に過ごして来た。

設立当時のメンバー6人のうち男性3人は亡くなり、女性2人はすでに引退して、今ではボクだけになってしまったので、これらの木々は設立から現在に至るまでの喜びや悲しみを含め、会社のすべてを目撃してきた証人で、ボクにとっては、かけがえのない戦友だと思っている。

とは言っても、別に手入れをする訳でもなく、二週間に一度ほどの割合で如雨露でザブザブと水道の水をやるだけで栄養剤を与えたこともない。

それでも、幸せの木は年に一度か二度、決まった頃に白い花を咲かせ、芳醇で甘い香りを部屋中に漂わせてくれる。
ベンジャミンは、初めはきれいに整形されていたのだが、今では枝は伸び放題で、何の木か分からないほどのただの雑木のような姿になっている。
それでも彼らは、特に苦情を言うでなく、それぞれが思い思いに生き続けている。

しかし、考えてみると実に不思議である。
ボクの手元に来るまで、どんな環境で何年生きていたのかは知らないが、少なくともボクとは30年間それなりに元気に生き続けている。
しかも、水だけで生きて来たのだ。
水道水の水だけで生きて来た。

7~8年前になるだろうか、幸せの木のふっくらした一枝がわが社のゴミ捨て場に捨てられていた。
4鉢あるどれかの枝が折れたものだったのか、事情は分からなかったが、青々とした一枝だった。
ボクはその傷ついた戦友をビールのジョッキーにさして会社の流し場の棚に置き、毎日水を変えていた。
やがて根を出し始めて今なお元気に生き続けている。
植物の生命力はどこまでも逞しく、実にけな気だ。

ボクは毎朝、出社すると神棚の榊の水を変えるのを日課としている。
榊は冬場だと二週間から長い場合は一ヶ月は持つが、夏場の命は短い。
下手をすると一週間で枯れてしまう。

しかし、これら枯れた一束の榊の中に、ひっそりと生きている一枝や二枝がある。
ボクは捨ててしまうのが何だか忍び難く、馬鹿みたいにそれらの枝をえり分けてビーカーに集め、神棚に置いている。
中には根を張ったり、新芽を出ずものもいて、長い場合は一年以上も生き続ける。

彼らの生きるための仕組みは分からないが、その生命力は神秘的だ。
ボクはこれらの木々の命を預っているので、ここまで長く付き合っていると妙な責任感のようなものを感じながら彼らと接している。

ひとつ残念なことがあった。
もう一鉢同じ戦友のシュロの木があった。
会社の玄関の入った所に置いてあったのだが、ある日気が付くと無くなっている。
ボクは周囲の者にどこにやったのか、と尋ねたが誰も分からないと言う。

ボクたちのいる多聞堂ビルは、4階がメインのフロアーで、3階に会議室、5階にもうワンフロフー、編集室と倉庫用として使用している。
ボクが5階に行くことは滅多に無かったのだが、ある日、用があって行ったところ、そこに探していたシュロがあり、すでに枯れかけていた。

急いで水を与えたが時すでに遅し、である。
その後も未練がましく何度か水を与えたが、二度と生き返ることはなかった。
罪悪感と言うか、可哀そうなことをしたとの思いを未だに引きずっている。

木は自分で移動できないし、声を出せないので、その運命は置かれた環境次第という悲しい宿命を持っている。
しかも光や炭酸ガス、それに水さえあれば生きて行けるという控えめな命だ。
中には食虫植物などの変り種もあるにはあるが、ほとんどの植物は他の生命を殺して自らの生命を保持することはない。

それに引き替え、動物はどうか。
必ず他の生命を殺すことにより生きている。
草食動物もいれば肉食動物もいる。
そして雑食動物もいる。
そのどれもが、他の生命を糧にして生きている。

それでも、人間の感覚からすれば、獰猛で残酷そうに見える多くの野生動物も、その瞬間、瞬間に生きるための最小限の限られた範囲内の食糧を確保している訳で、必要以上の殺戮はしないし、ましてや楽しみとして捕食している訳ではない。

しかし、人間の場合はどうか。
その悪食ときたら驚くべきである。
眼に入るモノは何でも食べる。
食べないモノを捜す方が大変な位の貪欲さだ。
動物、植物、菌類に至るすべてを食べる。

食べるということは、改めて言うまでもないが、他の生物の命を食べることである。
学校の給食で、子どもたちが「いただきます」と言って食べ始めることに対して「お金を払っていて、別に頂いている訳ではないから、わが子にいただきます、と言わせないでくれ」とクレームをつける親は未だに後を絶たないという。

「いただきます」との言葉の解釈は多様だとも思うが、その根底には「命をいただきます」との意味も大きな要素としてある筈である。
この考えは常識と言っても良い。

しかし、この「いただきます」にクレームをつける親たちを無教養な人たちと切って捨てるのは簡単だが、彼らのことを笑えるほどボクたちは立派なのかと云えば疑問は残る。

かく言うボクとて、特別の信念がある訳でもなく、信仰心がある訳でもない。
美味しいものを食べたいし、美味しいものを食べた時は幸せだと思うし、また次も食べたいと思う。
食事の度毎に、食事にありつけたことに感謝し、命を頂いていることに思いを馳せることなどもほとんどない。
日常の生活の営みとしてごく当たり前に意識することなく行き過ぎる。
食べることは生きて行くためにどうしても必要な条件だから、無意識で通過していく。

しかし、そんな日常で時に、待てよ、と立ち止まらせられることがある。
例えば大食い競争のバラエティー番組やマグロの解体ショーだったり、遠洋捕鯨が問題になったりする時などがそうだ。

何の学術調査かは分からないが、各国の反対を押し切ってクジラに執着する日本の姿は異常だ。
この飽食の時代、ボク自身もクジラなどもう何十年も食べていないし、食糧としての必要性も意味もほとんど無い。
近海捕鯨ならいざ知らず、わざわざ遠くまで出かけて捕鯨することの意味が分からない。
単なる殺戮に見える。

ボクたちは大きな自然のサイクルの営みの中で生まれ、滅びて行く。
都会で生きる多くの人たちは普段は自然を忘れて生きている。
そして、大地震や大津波や台風や集中豪雨などに見舞われた時に自然の恐ろしさを知る。
初めて自然に畏れを抱くがすぐにそれを忘れ去る。
ボクたちが自然の中の一部の存在にしか過ぎないことの自覚と自然への畏敬を忘れる。

自然をコントロールしようなどとの大それた考えさえ持つ。
科学の力を盲信し、自然に反した行為も人類の勇猛果敢なチャレンジだと勘違いする。
原発などもその最たる人類の愚行だとボクは思っている。

ところで、かつてNHKの科学ドキュメンタリーで放送していたが、科学者に言わせれば、やがて地球はおろか宇宙そのものが無になるらしいが、当然のことながら、そのずっとずっと前に人間は滅びる。
これは生物学上の必然であるらしい。

気が遠くなるほどの未来の話にしても、そんな絶望的な番組は視たくないですよ、とあるNHKの科学番組のプロデューサーに愚痴ったことがある。

それはともかく、人類の生物学的寿命は永くはないが、その後、他の動物たちが絶滅しても、植物は恐らく最後まで生き続けるのだろう。
因果応報ではないが、他の生き物の命を求めない植物の強みだと思う。

ボクたち人間ひとりひとりの命は、悠久の歴史からみれば、ほんの一瞬のうたかたである。
虚しいが、一瞬の命だけに、より大切に生きたいと願うのは当然だ。
遥か遠い将来、人類の絶滅が約束されてはいても、この宇宙にあって、恥ずかしくない生物としての生き方をしなければならないと思う。

自分たちが他の生物のエサになることは絶対に嫌だが、自分たちは他の生物の命を食べなければ生きて行けない、との矛盾を人間は背負っている。
これは宿命で、努力でどうすることも出来ない。

命の尊さをいくら説いてみたところで、どこか後ろめたさが残る。
そして、行き着くのは「無駄な殺生はしない」との先人の教えである。

経済的繁栄が絶対的な価値を持ち、すべての事象が経済優先の現在の消費奨励の世に逆行する考えかもしれないが、より質素な暮らしへの見直しが本当は大切なのではないかと思っている。
特に、食に関しては、謙虚に命と向き合うことが、限られた人類の余命にとってとても大事なことだと思う。

ボク自身、偉そうなことを言える立場にはないが、一粒の米に命を感じる心が、本当は現在もっとも必要としている時代ではないかと思える。
 
     「旨いもの 何でもあるぜ バイキング」


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小田さんと同じ預言者
紀元前8世紀の預言者(神の言葉を預かる人)にイザヤという人がいましたが、小田さんと同じように思い、考えていたようです。
以下は、その一節です。

「『狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食い、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない』と主(神)は仰せられる。」(イザヤ65:25)

この共存共栄の「時と場」を「天国」といいます。
イエスの十字架の「死」は、人間がどんなに経済的機構と社会的組織と政治的形態とを変更しても、人間のうちから「我執」という「罪悪」を取り去らないかぎり、理想的社会は実現できないことに対する実証的の証拠ですが、その後のイエスの「復活」は、イザヤの語ったような「共存共栄」の「時と場」をもたらすことの神の「確約」になります。
死んでいても、復活してそこに入ります。
信じます?
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