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差別意識の魔性

アガサ・クリスティ原作の名探偵エルキュール・ポアロが活躍するデヴィッド・スーシェ主演のドラマシリーズは、そのほとんど全部を視ているが、絶妙の謎解きの推理もさることながら、イギリス人やフランス人の人種観が巧みに描かれていて面白い。

主人公の探偵ポアロは、ベルギー南部フランス語圏の出身で、第一次世界大戦でイギリスに亡命してきた身長163センチの小男という設定になっている。

フランス語訛りの英語を話すので、主な舞台であるイギリスではフランス人と間違われ、フランスでは風采の上がらないフランス人と誤解されるので、その度に自分はベルギー人だと本気で怒る。

イギリス人もフランス人も世界の中心は自分たちの国だとの、世界の宗主国としての誇りが強くあるので、ポアロ探偵が怒ってみたところで、なおさらに、小国ベルギー人の存在など、歯牙に掛ける価値もない単なる外国人に過ぎず、どこか差別の眼で見下しているのだが、半ば馬鹿にしている、その小男が難事件を次々に解決していく面白さがある。

アメリカ人を小馬鹿にするシーンもしばしば登場する。
第一次世界大戦の頃という時代設定だから、現在と国際情勢は大きく変化しているとは言え、ヨーロッパ、特にイギリスやフランスから見るアメリカ人への偏見に溢れた様子は今に通じるものがある。

ここで、アメリカ大統領のトランプ一家を連想する、などとうっかり口を滑らせれば、あれはアメリカ人の象徴じゃあない、と怒るアメリカ人がいるとは思うが、いかにも西部劇にでも出てきそうな一時代昔の典型的アメリカ人像と重なって見える。
成り上がりの教養の無いアメリカ人がポアロシリーズで時々登場するが、まさにトランプ大統領を思い起こす。
その意味では時代は変わっても、国家観というか国民観、あるいは人種観などはそれほど変わらないものだなあ、と思ったりもする。

こういった種類の、人種や国の間での差別的な感覚を軽妙なジョークにする習慣はアメリカなどの酒場の寄席でしばしば演じられているようだ。
言い争っているアジア人らしき人たちを見たアメリカ人が「うるさいぞ、この中国人野郎たち!」と叫ぶと、それまで喧嘩していた連中が「俺は中国人じゃない、日本人だ」「俺は韓国人だ。中国人じゃない」と青筋を立てて、そのアメリカの白人に詰め寄る様を演じ、観客の白人たちが大笑いする、と言ったようなものである。

そういうネタをメキシコ人が演じたりする。
まあ、ボクたちも昔、白人を見れば、全部アメリカ人だと思っていた時代もあった。
人種に拘る滑稽さを小噺にしてみんなで笑い興じるのも多民族国家アメリカらしいが、根底にあるのは民族間の差別と誇りである。

ずいぶん昔のことになるが、ボクが取材でイギリスのロンドンを訪れ、通訳としてお願いした現地在住の日本人女性と共にレストランで食事をした時のことだった。
当時はまだ海外渡航に制限があって、特に日本に手持ちのドルが少なかったので、ドルにも持ち出し制限があった時代で、ロンドンとは言っても、それほど多くの日本人はいなかったし、旅行者も多くはなかった。

傍らのテーブルにイギリス人と思しき数人の老人たちがいたが、食事中ボクはその人たちの視線が妙に気になっていた。
食事が終わると通訳の女性はボクを急き立てるようにしてそのレストランを出るように促した。

後で分かったのだが、彼らは食事中、ボクたちを見ながら、ずっと日本人の悪口を言っていたらしい。
第二次世界大戦では日本が敵国だったこともあり、口汚く罵っていたという。
戦争が終わって24~5年しか経っていなかった頃だったので、まだ戦時中の思いを生々しく引きずっていた時代背景もあったのだろう。

それに加えて、黄色人種への差別もあり、とても彼らの会話の詳細をボクには伝えられないと、ロンドン在住の通訳の日本人女性は苦々しい顔をしながら言ったことを昨日のことのように覚えている。
奇しくも、初めてのヨーロッパ取材でいきなり人種差別という貴重な洗礼を受けたのだった。

差別については、それがどういうものであるかについてはある程度知ってはいた。
ボクの故郷である大阪府堺市には被差別部落や韓国朝鮮人部落などが多数散在しており、幼い頃から差別にまつわるそれこそ多くの情報の洪水の中で育った。

しかし、考えてみると、ボクはいつも差別する側にいて、差別される側の人たちを見ていたことに気付く。
英語を十分に理解できないボクにとっては知らぬが仏のような軽い体験だったに過ぎないのだが、ロンドンでのこの出来事は、自分が差別される側に立った初めての経験だった。
ボクが25歳頃のことである。

民族や人種間の差別などを初め、身分や職業や病気にまつわる差別など形は色々あるが、差別と呼ばれるそのどれも理不尽で正当な理由はない。
しかし、多くの人たちは差別する側に立つことの魔力からどうしても逃れることが出来ないようだ。
差別される辛さを知る者がまた別の者を差別するようなこともしばしば行われる。
こういった連鎖は人間の欲望と同様に、どうにも御しがたい行為であるのかもしれない。

常に差別を否定している筈のジャーナリズムの世界でも差別事件は起きる。
数年前に週刊朝日が当時大阪市市長だった橋本徹氏に関して被差別部落の出身だという情報を掲載し、問題になったことがある。

被差別部落民に対する偏見や差別構造が厳然と存在する現在の社会状況下では、仮にそれが事実だとしても、本人にとってはマイナスになるケースは往々にしてあるに違いない。
人々は何故か差別を好む習性があるからだ。

週刊朝日の意図の中にそういう悪意に近い差別意識が感じられるところに問題の本質がある。
やっぱりね、だからね、と不気味な笑みを浮かべて頷きあう表情をボクは子どもの頃から何度となく見てきた。
差別意識とはこのように、とても厄介な特別の意識で、理屈を越えて存在するので、余計に御し難い。

ところで、ボクたちの会社にも在日韓国人が1名、中国国籍の漢民族が2名、中国国籍の朝鮮族が1名在籍している。
このうちの2名が取締役として会社のリーダーとしての立場にある。
両名共に、今後会社を経営していく上で、更に重要な役割を担うことになる予定でいる。

現在、日本も国際時代の渦中にあり、人種や民族の垣根はかなり取り払われたとは言え、民族主義にこだわる人たちがその勢力を伸ばそうとしている時代でもある。
今後の日本社会が辿る道は計り知れないが、異民族が普通に平気に生きて行ける世であって欲しいものだ。

中国国籍の朝鮮族で常務取締役として財務を担当している妻は、当然、民族の誇りと同時に、いくばくかの不安も持っている。
わが社のスタッフに表向きには民族に偏見を持ったり差別するような者は見当たらない。
しかし、何かあった時、そういう意識が突然頭をもたげることが無いとは言えない。
それが差別意識の魔性というものだ。

妻はいま日本国籍を取得すべきかどうかについて本気で悩んでいる。

      「学んでも 消すに消せない 差別かな」


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臨終のハルモニの叫び
「在日大韓巽教会」の牧師をしていた故・徐貞順氏が、次のような証言をしています。
それは戦争中、日本に渡航された一世のハルモニ(おばあさん)の臨終の出来事についての報告です。

「いつもはウリマル(母国語)で会話をし、祈り、讃美歌をうたったりしていたのに、いよいよ死に直面しつつ、妄想にとりつかれた彼女は突然、私(徐牧師)に向かって、『私は日本人です。朝鮮人じゃありません。だから私の前でウリマルを話さないで下さい‼︎』と叱責するように叫んだのです。」

その叫びについて徐牧師は、
「臨終の際で、死の恐怖から逃げ出そうとしたハルモニが、その瞬間、民族を否定したのです。日本人になれば、死から救われると思ったのでしょうか。なぜなのでしょう。
死の恐怖と、日本で朝鮮人として生きることが同義語であるとしたなら、彼女の日本での一生はいったい、どんな人生だったのでしょうか。民族を否定し、日本人のフリをして生きる時だけ、そのハルモニが無事に日本で生きられたのだとしたら、在日一世の彼女の人生は、いったいどんな苦難の生涯だったのでしょう。
私は彼女が無意識に吐き出した『私は日本人です。朝鮮人じゃありません‼︎』という叫びの中に、日本の朝鮮支配の罪を告発する恨の声が聞こえました。確かに彼女は臨終の間際に、その疲れて枯れた老体を通して、日本の戦争責任を告発したのです」
と述べ、同時にそれは、徐牧師に対しては、「在日同胞に牧会伝道するキリスト者の私に向って、『福音は民族差別を解消しうるか?』という課題のきびしい触発であった。」
と書いています。
(ACWC(Asian Church Women’s Conference)研修会「生命の尊さを考える」報告書より)。
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【小田昭太郎】
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