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朝日新聞社の取材を受ける

若い頃は恐いもの知らずで、損得や後先のことも考えず、ずいぶん馬鹿なこともしたし、乱暴もした。
たいした知識も、また知恵もなく、ただ勢いと思い込みで突っ走った。

今から考えると恥ずかしいことばかりである。
と云って70歳を過ぎた今も、思慮深くなったのかと自問すると、必ずしもそうでない自分に気付く。
人の本性は簡単には変わらないし、余程のエネルギーが無いと変えられるものでもない。

先日、朝日新聞社の記者の取材を受けた。
ボク自身がかつては取材者だったので、その立場からも、どんな取材も断る訳にはいかないとの矜持がある。
矜持というよりも決め事に近い。

記者はボクにA4一枚の記事のコピーを見せた。
それは30年前の「みる・きく・はなす・はいま」というタイトルの連載の特集記事だった。
そして「ある退社・秘密法放送、自民が圧力」と大きく見出しがあり「自由な表現へ・自前プロ計画」とあった。

記事の内容は、ボクへのインタビューをもとにして、新聞社が独自に取材した事実を含めて、ボクがテレビ局を辞め、制作会社を立ち上げることになった間のいきさつの詳細が書かれていた。

ボクも当然その当時にはこの特集記事を読んでいたのだが、なにしろ30年も前のことになるので、インタビューを受けたことは覚えていたが記事の内容についてはすっかり忘れていた。

記事によると、ボクが「歳末棚卸し、ニッポン要らないもの総点検」という番組を作り、当時国会でも議論されていた国家機密法案を要らないもの、として放送したのだが、自民党関係者から局に抗議が入る。

放送翌日、社長ら上層部が録画テープを見て内容を吟味したが、それから数日後、自民党に社長が謝ったらしい、との噂が社内を走る。
労働組合が会社に問いただすと、放送内容について自民党から問い合わせはあったが、社長は謝っていない、との返答があった。

その直後、民放連会長だった某テレビ局の社長が、社員を集めた内輪の席で、自民党からの抗議で会社側は担当を代えることを含めて善処する、と言ったようだ、と発言したという。

これについても、言った、言わないの話があるのだが、結局、ボクは番組を外されることになり、やがて会社を辞めることになる。
この間の経緯の詳細が書かれていた。
この記事を書いた記者は恐らくすでに定年退職されているだろう。

あれから30年が経ち、その記事を読んで、改めて結構な騒ぎだったのだな、と思った。
そして、そう云えば、と思い出したことがある。

それは、国家機密法案の推進のために中心的役割を果たしていた自民党の大物議員の奥さんが、たまたまボクの番組を視ていて、亭主の議員に「あの法案は危険だし止めるべきではないか」と忠告するのを聞き、そんな影響を及ぼす番組は許せない、ということでテレビ局に抗議した、との話を当時耳にしたことがあった。

その真偽はともかくとして、いま思い返しても、当時のボクは、そんな大騒ぎだったとの自覚も無かったように思うし、騒ぎがあったとしても余り興味もなかったように思う。
鈍感、傲慢、若さによる恐いモノ知らずだったのに違いない。

この時テーマだった国家機密法案、通称スパイ防止法案は、結局、国会で審議未了で廃案となったが、実に永い時を経て、2013年の年末に多くの反対を押し切り、安倍政権の下で特定秘密保護法と名称を変え国会で成立する結果となっている。
ボクにとっては、因縁の法案である。

今回改めて記者が取材に来た目的は、あれから30年ほどの月日が経った現在、マスコミを含めた日本の言論の世界がどのように変化しているのか、その昔と今についてボクに取材したい、というものだった。
ボクが未だに現役でこの業界でメシを食っているのがミソのようであった。

かつては靖国とか天皇制とか教育の問題などの政治や社会問題をしばしば番組で取り上げては物議をかもしたことは確かである。

もっとも、ボクは右翼でもましてや左翼でもなく、反権力の立場から、権力の行き過ぎをチェックするとの考えに基づいていたつもりだったので、今から考えても決して過激だったとは思っていない。

ただ、ルポライターの鎌田慧さんにはアナーキーだと評されたことがある。
ジャーナリズムとはそういうものだとボクは信じていた。
そんなことが出来たのはボクがテレビ局の局員だったからであることは明らかだ。

今から振り返れば、それでもずいぶん言論に対する圧力が緩やかだった時代を感じる。
ただし、緩やかだったのはテレビ局であり権力側ではない。

現在の安倍政権はいささかやり過ぎだとは思うが、権力はいつの時代も言論機関には圧力をかけ、時には恫喝する。
しかし、当時のマスコミ機関はそれを押し返すだけの気概を持っていたと思う。

権力が圧力をかけるのは当たり前で、またマスコミはそれをはねつけるのが当然だとの緊張関係の中で両者は存在していたと思う。
そこが、今と昔の両者の関係が大きく異なっている点のひとつである。

今はマスコミは権力の前に従順になってしまっているように思える。
特にテレビの自主規制が問題だ。

それでも、結局は上記の記事の如く、ボクは番組を外されて、テレビ局を辞めることになった。
それまで会社はボクを適当に泳がせてくれていたのだったが、それも限界に来たのだったろう。
世間はそうは甘くない。

そのことについての後悔は全くないし、むしろ別の人生が体験出来て幸せだったと思っているが、マスコミ界の言論の自由の幅が次第に制限されてきたとの時代の推移は別としても、そういうテーマでの告発番組は、テレビ局の自覚と覚悟が無い限り制作プロダクションには決して出来ない業であることも確かである。

そしてもうひとつ、テレビ局を初めとして言論界を委縮させているのはコンプライアンスという言葉である。
法令や時にはモラルを含めての順守は理屈の上では当然だが、これが余りにも重視されると、企画発想や取材、あるいは番組の制作過程の中で過剰な自主規制に陥り、とても窮屈になる。
自由で面白い表現などに自主規制がかかり過ぎる恐れが生じる。

殊にテレビ放送は免許事業であるため、しばしば総務省からの恫喝を受ける。
最近の話で云えば、高市早苗総務大臣が公平性に欠ける放送に対する電波停止の可能性に言及するなど、この放送免許は脅しの小道具として使われている。

コンプライアンスは必要だとしても、それが拡大解釈を生み、過剰な自己抑制を引き起こし、出来るだけ問題が起きないようにとの連鎖的な動きに繋がっていく。
全てが委縮していく。
これがまずい。

新聞には社説があるが、テレビには無い。
その意味では、テレビとはごった煮の鍋のようなものであるべきだとボクは考えている。

そしてこの鍋には何を放り込んでも良い。
ジャンルも雑多だし、思想も雑多である方が面白いし味も出る。

ひとつの番組ですべてを完結しバランスを取る必要はない。
法律に触れる事象に対する規制やその是非の判断は必要だが、その判断をするのはあくまでもテレビ局であり、政府や役所であってはならない。

国論を二分するようなテーマがある場合でも、ひとつの番組の中でバランスをとる必要はない。
一方的な主張番組であっても良い。
そして別の番組で相対する主張の番組を編成し、一日、あるいは一週間のトータルでバランスをとり公平さを保てば良い訳である。
そうすれば、そこには自主規制も無く元気のよい表現や言論の場が展開されるに違いないと考える。

若い人たちがテレビ離れをしている理由の正確な分析結果は知らないが、テレビが若者たちにとって魅力を失っていることは確かで、その訳のひとつがテレビの報道内容が生々しくない官制の規制されたものであることを若者たちが察知しているからであろうと思う。

したり顔の行儀のよい番組など視たくないよ、ということだろう。
人々はハラハラドキドキさせてくれるような生き生きした番組を求めている筈である。
そのためにも、テレビはもっと自由で、言いたいことを生の言葉で語れる場を再び取り戻す必要があると思う。

時の政府は自分たちにとって都合の悪いことは覆い隠し、人々に知られては困るような真実を明らかにしようとする者を封殺しようとするのは当然である。

しかし、人々が知りたいのは、そういう真実である。
テレビはどこまでも人々の期待に応えるべく、圧力をかけてくる国家権力と堂々と対峙する覚悟を持つことが、ジャーナリズムの担い手としての最低限の義務であり、それによってテレビが今再び、人々に受け入れられる唯一の道だと信じている。

大阪本社から取材のために来たという30代後半の朝日新聞社の記者は物静かだが芯の有りそうな好青年だった。
2時間ほどのインタビューを終えての帰り際、ボクはエレベーターまで送りながら「こんなむさ苦しいところに来ていただいて済みませんでしたね」と声を掛けると「現場はみんなそうですね。でも大阪本社は新しいビルになりました」とにっこりした。
「建物が新しくなると碌なことはないですよ」と云うと「え?そうですか」とエレベーターに乗り込んだ。

建物が新しくなると確かに快適だが、新しいシステムが取り入れられ、必ず自由が利かなくなり不便が生じ、何事かの良さが失われる。
世の中、なかなか、すべて良し、とはいかないものである。

   「自由とは 闘うことと 見つけたり」


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「真理と自由」
国会図書館の入り口に、「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」というギリシャ語が大書されています。
「真理はあなた方を自由にする」という聖書の言葉からの引用です。
人を拘束していた迷信から人を解放してくれるという意味で、真理は自由を与えます。

その原典になっている聖書には、「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主(宇宙万物の創造主)のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神(宇宙万物の創造主)の御旨なのである。自由人にふさわしく行動しなさい」と勧めています。

初めの部分の「すべて人の立てた制度に」という表現は、少なからず抵抗を覚えさせますが、しかし、全体に照らしてみると、それが、あらゆる世的権威・権力との無批判な妥協ではないことはあきらかです。

「愚かな人々の無知な反発に対して、口実を設けさせない」ということに力説点があります。しかも、その行為は、「自由人にふさわしい」と言われていて、「権威・権力との癒着や妥協」には、自由がないことは明らかです。

小田さんを、ルポライターの鎌田慧さんはアナーキーだと評されたそうですが、アナーキーではなく、きわめて聖書的な「自由人」なのだと思います。
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【小田昭太郎】
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