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大橋巨泉さんとのこと

大橋巨泉さんのお別れ会があったことをテレビのニュースで知った。
実は、巨泉さんとはしばらくの間、仕事をご一緒させていただいたことがある。

ボクがまだ日本テレビに在籍していた頃だが、「11PM」という番組があった。
月曜から金曜日までのデイリーの生放送で、ボクが担当していた頃は、月曜日と金曜日を巨泉さんが、火曜と木曜を藤本義一さんが、そして水曜日を愛川欽也さんが司会を務めていた。

ボクがディレクターとして参加してから一年余で巨泉さんが辞められ、野球解説の江本孟紀さんに交代となったから、巨泉さんとはそれほど長くはない。
ボクの30歳代後半の頃である。

それまで、ボクは報道局で10年余、告発ドキュメンタリー番組を制作し、何かと物議をかもして、報道部に配転となり、遊軍記者として過ごした後、巨泉さんが司会を務める「11PM」の月曜班に配属されたのだった。

もともと「11PM」は、制作費のかからない深夜のワイドショー番組として開発された番組で、その歴史は長く、1965年から1990年まで続いた長寿番組である。

もともと大人向けの夜のワイドショーだから、お色気を含めた肩の凝らない娯楽が中心の番組だったが、月曜日には、たまに硬派の社会問題をテーマとして取り上げることがあった。
先輩のプロデューサーにそういう先達がいて、その人が抜けた後にボクが配属される形となった。

報道部の遊軍でドキュメンタリー番組を作れなかったボクとしては、格好の場を与えられた訳で、政治問題や社会問題をテーマにどんどん番組を作った。
そして、これがまた物議のタネとなる。

巨泉さんは大人で、テレビのことを知り尽くしている、とても優秀な天才的司会者だった。
そして「11PM」という番組の本来の趣旨やコンセプトを正確に理解していた。

その番組は一種のサロンで、どんなテーマもお洒落に料理しなければならない大人の番組であった。
長寿番組として長く積み重ねてきた歴史も守るべき伝統もある。
巨泉さんは司会者という立場で、その番組のテイストをしっかりと守り続けてきた誇りあるテレビマンだった。

そこへ、訳の分からないボクのような作り手がいきなり乱入し、ドキュメンタリーを作り始めた。
これは、そんな番組じゃないよ、という巨泉さんとの間で、当然ながら摩擦が起きる。

巨泉さんは、決して社会問題を扱うことを拒否した訳ではなかった。
ただ、料理の仕方が違うと主張した。
「11PM」はお洒落な大人の番組で、直截的な報道ドキュメンタリー番組を作る場ではないよ、と。

しかし、本当に未熟で血気にはやり、自分の思い込みと勢いだけの、当時のボクはそんな巨泉さんの思いとはお構いなしに番組を作り続けた。

ある時、一週間をぶち抜き、教育シリーズをやろうということになった。
プロデューサーがプロジェクトチームを編成し、あらかじめ考えられていた構想が提示された。

ボクがチーフとなり、何人かの構成者やディレクターたちで会議を行っているうちに、最初の構想と全く別の番組構想の形になり、それに賛同できないスタッフたちは抜けていった。
そして、巨泉さんもそのシリーズの司会は降りることになる。

ボクたちが作ろうとしたのは、時の中曽根政権が推し進める管理主義教育を告発する内容の番組だった。
ちなみに、当時ボクたちが問題提起した管理主義教育は、30数年後の現在では、ごく日常的な形となり完遂されている。
そして、その方向は安倍政権の手で更なる目的に向かってその歩を着実に進めている。

月曜班のプロデューサーはボクの良き理解者で、好きなように番組を作らせてくれていた。
結果的に、その番組は民放祭最優秀賞を受賞し、プロデューサーは大いに喜んでくれた。

しかし、今、考えてみれば、色々と周囲のこれまでの伝統ある形を破壊して得た受賞が、会社という組織にとって価値あるものと云えたのか客観的には怪しいものである。
そして、その頃のボクは、賞などと云うものは、勲章を象徴として体制の言い訳的証にしか過ぎないと考えていたのだった。

巨泉さんには、生放送中に名指しで「小田の馬鹿が……」としばしば叱責されたものである。
巨泉さんが亡くなられたと聞いた時、巨泉さんには悪いことをしたな、と思った。

本来ならば、司会者を喜ばせ、感心させてこそ初めて、視聴者にとって面白いと感じることの出来る番組が生まれる。
その努力を怠り、自分の我を通すことはディレクターとしては失格である。

そんなディレクターの番組を司会しなければならない立場にある巨泉さんのことを考えれば、想像を遥かに超える苦痛であったに違いない。
巨泉さんが「11PM」の司会を降板された理由は知らないが、本当に申し訳なかったと、今さらながら思う。

そして、一事が万事、これが、ボクが本物のプロのディレクターになれなかった理由のひとつでもあるのだ。

その後、麻薬王クンサーの取材に成功した後、スパイ防止法案の番組で自民党の怒りを買い、とうとう番組を作らせてもらえなくなった。
自業自得の自然の流れである。

そして、気心の知れた仲間とドキュメンタリーの制作会社を立ち上げた時、ルポライターの鎌田慧さんから「アナーキストの小田さんが会社を始めるとはねぇ」と半ば呆れたような顔で言われたが、それから28年。
世の中も変わったが、自覚のないままボクもまた変わったようである。

つい先日、かなり前に仕事をお願いしたことのあるフリーのディレクターが仕事を求めて訪ねて来られた際、ついつい制作費の話をしている自分に気付いた。

会社を立ち上げてから少なくとも、15~6年ほどの間は本当に資金繰りが苦しくて、お金のことでは相当の苦労をした筈である。
自らの体験を、筈だと表現するのは少し変だが、そんな苦労は当たり前でそれを跳ね返すだけのエネルギーがあったので、苦労を苦労とは思わなかったのかもしれない。

しかし、その当時は、時代のゆるやかさがあった所為かもしれないが、フリーのスタッフと企画の話こそすれ、お金の話などしたことは恐らくなかった。

ボクはいささか恥ずかしいような気持ちになって「ボクのような者がお金の話をするというのは、ボクたちを取り巻く現在のテレビの制作状況の具合がいかに悪いか、ということですね」と笑ってごまかしたのだったが、巨泉さんとやり合っていた頃からするとボクも大きく変化したようだ。

巨泉さんのような天才的なプロは二度と現れないことだろう。
冥福を祈りたい。

   「わが悔いを 知らぬ仏や 巨泉さん」


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