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良き先輩の死

昭和生まれの女傑が亡くなった。
佐々木芳子さん、昭和6年生まれで享年84歳だった。

佐々木さんは昭和29年に早稲田大学を卒業後、日本電報通信社(現在の電通)に入社し、民放番組のCMやイベントなどの企画、制作を行う。
大阪万博では企業パビリオンの企画に携わり万博成功に大きく貢献した。

当時は女性の社会進出は稀有で、男社会の壁は厚かったが、そんな環境にも負けず、彼女が発揮したその辣腕ぶりは周囲を驚かせたと聞いている。
50歳代半ばからは電通でプロデューサーを務める傍ら、東京造形大学、女子美術大学、バンタンデザイン研究所などで教鞭をとった。

ボクは麻雀を通じて40年ほど前に佐々木さんと知り合った。
親分肌のさっぱりとした女性で、とても気持ちの良い人だった。
干支でボクとは一回り違いの年長だったが、誕生日が同じ9月8日で、それが気に入ってくれたのかどうか、可愛がってくれた。

ボクが「クンサー」の出版を機に日本テレビを辞めた時に催したパーティーにも忙しい中を駆けつけてくれた。
その際に、ボクを巡る10人の女たち、というお遊びコーナーがあったのだが、率先して参加してくれて
「わたしはオダちゃんのファンです」
とボクのことを持ち上げてくれたりした。

佐々木さんの仕事での有能ぶりは聞いていたが、遊び以外での付き合いはなかった。

晩年まで、華やかで、元気なイメージしかなかった佐々木さんだったが、実は白血病を患い苦しい日々を送っていた。
やがて、乳がんを手術し、肝臓がん、そして最後は肺がんへと転移した。

入退院を繰り返していたが、その間もボクたちには元気な顔を見せていた。
喜寿のお祝いの時も何でもないかのようにはしゃいでお祝いに来た人たちを元気にもてなしていた。
ボクたちの会社の恒例のお花見や忘年会にも必ず顔を出してくれて、朝まで元気にカラオケを楽しんだ。

一昨年、赤坂で一緒に飲んだ時、これまで彼女が雑誌などに連載したエッセイなどいくつかの原稿を、どこかで出版するところがあればと託されたことがあった。
噂にたがわぬ達者な文章で面白かったのだったが、そのままになっていた。
残念なことにそれが遺品となってしまった。

昨年の晩秋に、彼女はボクを麻雀に誘った。
元電通の仲間だという人たちと銀座にある雀荘で打ったのだったが、それが佐々木芳子さんとの最後となった。

暮れにボクが忘年会に誘った時
「いま、入院しているのよ。今度はいよいよ家には帰れないみたい」
と佐々木さんは明るい声で云った。

病院名を聞いたが、ボクはとうとう見舞いに行かなかった。
どうしても行く気になれなかったのだった。

葬儀は高円寺にある小さな教会で行われた。
棺に納められた佐々木さんは、美しく化粧を施されていたが、ボクが知らない佐々木さんに見えた。

亡くなられるまでの2か月間を病院で過ごされていたが、連日多くの見舞客が絶えることなく訪れ、彼女の病室はいつも賑やかだったので、病院では、あの人はいったい何者なの?と評判になっていた、とのことである。
見舞いに行かなかったボクはそれを聞いてほっとした。

佐々木さんは、俳句、水墨画、オペラ、歌舞伎と趣味も多彩でそれぞれの世界に造詣が深かったようだ。
俳号を佐々木彩女と称し、句集「彩」の出版を予定していたという。

葬儀の際、遺族から、辞世の俳句が紹介された。
今日はボクの拙い五七五は遠慮して、佐々木芳子さんの辞世の句を最後に紹介したい。
  「点滴の こぼれしシーツ 梅一輪」


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