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憲法第九条とエゴイズム

先のブログで、安保法案に関連して、憲法第九条の不戦の意志について書いた。
それについて、ボクの尊敬する聖書研究家の道川勇雄さんから次のようなメッセージをいただいた。
まず、それを紹介したい。

「憲法第九条の戦争放棄の思想は人類としての夢であり意義のある実験である。この壮大な実験を成功させる努力を続けられることは大きなチャレンジである。」と書いておられますが、人類はすでに実験済みなのです。
イスラエル・ユダヤがその実験民族でした。そして、失敗しました。
失敗の経緯を記録しているのが聖書です。
失敗の理由は、個々人に巣食う我執(エゴイズム)でした。
イエスは、このイスラエル・ユダヤが失敗した「平和共存」の条件を、エゴイズムからの百八十度の方向転換である「悔改め」として要請しました。
ところがこれを説いたイエスをイスラエル・ユダヤ人は十字架につけて殺しました。
そのことは、「平和共存」の条件である「より弱い者の弱さを負う」ことが、生来の人間には不可能であることを実証したことになります。「全に対する個の背反」というエゴイズムからの百八十度の方向転換は、個が自らを「無きに等しい者」として自覚するまでは不可能であることを意味します。
お書きになられている「壮大な実験を成功させる努力」は、すでに聖書が達しているこの帰結をベースにして始める必要があるのでしょう。

道川勇雄さんを、ボクは勝手に日本一の聖書研究家である、と思っているが、まんざら的外れではないと信じている。
道川さんによると、日本の聖書研究の第一人者は、三笠宮崇仁親王だとのことである。

三笠宮は現在の天皇の叔父にあたる。
1915年生まれで、現在、存命中の皇族の中では最年長であり、古代オリエント史を修めた歴史学者でもある。

神道を奉ずる皇族が聖書研究の専門家というのは意外な感もあるが、皇室というのはそういう存在でもあるらしい。
秋篠宮の二女である佳子さんが、学習院大学を中途退学して、国際基督教大学に入学したのも、実は皇室の聖書研究の一環の流れであるとも聞いている。
そうだとすると、道川さんは、三笠宮に次ぐ聖書の研究家ということになる。

道川さんからのメッセージで、聖書とはそういう書であったのかと初めて知ったのだったが、とても興味深い。
彼のメッセージに書かれている内容を理解するには実はボクの教養があまりにも乏し過ぎるのだが、意味はある程度は分かる。


エゴの存在は人間である限り、否定することはできないし、極言すれば、エゴが人間を存在させているとも云える。
実際に、そのエゴが原因で日常生活でも争い事は絶えることはないし、大きくは地球上で戦争が行われなかったことは一瞬として無かったことも事実である。

平和共存は理屈の上でも、また実際上でも絶望ということになる。
聖書が指摘している通りに、そこからが、スタートである、というのは正論であり、また当然であると理解する。
しかし、絶望していても始まらない。

たとえば戦争をもっとも身近なところで見るとどうか。

わずか500年ほど前の日本は、戦国時代と称されているように、何十もの国に分かれ覇権を巡って戦争を繰り返していた。
目的は日本の統一にあった。
当時の戦国武将たちの中で、現在の日本の姿を予想できた者が果していたかどうか。

同じ民族とは云え、文化も言葉も異なっていた。
それが、明治維新を経て、ようやく日本はひとつの国になった。
情報文化の発達により、言語も文化も均一化されて現在がある。
その間、失われたモノもあるが、少なくとも日本国内での戦争は無くなった。

日本は朝鮮系、中国系、南方系等々を含めた異民族の混血で成り立つ国だが、その構成が比較的分かり易い民族である。
未来は計り知れないが、当分は過去では当たり前だった日本国内での内乱を含めた戦争は想定し難い。
少なくとも日本国内の戦争は克服できた。
この歴史の事実をどう受け止め、考えるかである。

過去も現在も宗教は平和を妨げる大きな要因だし、民族の対立もある。
経済や政治体制の違いや大国の野望もある。

それらの諸事情を前にして、世界の平和などという言葉は何の意味も持たないかのようにも見える。
それでも、人間がエゴという業から逃れることができず、戦争のない世を作ることなど不可能だよ、との聖書による検証結果が存在したとしても、ああ、そうですかと戦争肯定に向かうのではいかにも情けない。

だからこそ余計に、戦争を否定するとの目標を掲げ、そこに人類が向かう努力をしようとする意志の存在が大切である。

科学の世界で、人間が想像したり、描いたりする図は必ず達成できると聞いたことがある。
政治の世界もそうはならないのだろうか。
可能か不可能か、つまるところは、その成否に関わらず、それぞれの人間の生き方が問われる問題なのである。

不遜にも他国に侵略し、挙句の果てにアメリカに戦争を仕掛け、その結果手ひどい敗戦を喫するという惨めだが貴重な体験を経た後、日本は70年間という、歴史からすると短いかもしれない時間だが、直接戦争の体験をしない形で生きて来た。

勿論、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等々で日本は後方基地としての役割をはじめとして間接的、直接的な形で戦争に加担して来た事実はあるから、戦争と無縁であった訳ではない。

しかし、戦後、表向きは無事に平和国家としての道を歩んで来た。
その根拠となっていたのが憲法第九条であることは間違いの無い事実である。

少なくとも、曲がりなりにも不戦の意志を国家の意志として貫いてきた。
この形をあと10年でも20年でも、1日でも長く続けることはとても意味のあることである。

刻々と移ろう世は無常である。
変化する。
人類の命にも、地球の寿命でさえも限りはある。
恒久や永遠など求めることはもともと無理なこと。

それでも、1日でも長い平和を願い、そのための努力を重ねることは、それほど困難なことではない。
それを自らの意志で放棄するほど愚かなことはない筈である。
憲法第9条はそのためにも絶対不可欠な平和のための砦にするべきである。

ちなみに、聖書は人間絶望の書であると同時に、神による希望の書であるという。
希望の書と言える理由は、神によって「宇宙万物が再完成」されることが確約されているから、だそうである。

しかし、神は所詮人間が創り出した概念に過ぎず、その存在を証明する方法さえ持たない。
文字通り、苦しい時の神頼みで、そんな概念上の存在が保証する確約を当てにすることは出来ない。

聖書を含めた人間絶望論のリアリティーの下で、人間のことは人間が責任をもって始末するしか、他に方法はないのである。
たとえそれが絶望的に困難なことであっても、何度でも失敗を繰り返して挑戦するしかない。
それが平和への唯一の生き方であると思う。

 「神さまが ホントに在れば いいのにな」


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