忘れ去っていた写真
ボクの青春時代の舞台となった四谷荒木町のスナック「千恵」のママをしていた榊千恵さんが亡くなったことは、このブログでも書かせてもらった。
家族と知人だけの密葬の後、お千恵さんの妹の玲子さんと、玲子さんの娘の理沙さんが、遺品の整理等々の後始末に当たられていた。
その玲子さんから、渡したいものがあるのだが、取りに来てほしいとの連絡があった。
新宿駅南口からほど近いお千恵さんのマンションを訪ねた。
母娘が迎えてくれたお千恵さんのマンションは、きれいに片づけられていて、間もなくであろう引っ越しの準備が進んでいた。
そんな部屋の一隅に急ごしらえの小さな祭壇が作られていて、そこに遺骨と、20歳代後半の頃のお千恵さんの華やかな時代の和服姿の小さなモノクロ写真が飾られていた。
お線香をたて、改めて両手を合わせた。
さまざまな過去が去来した。
それらひとつひとつの出来ごとに思いを馳せているうちに果てしなく時間は過ぎて行った。
「スナック千恵の開店案内のハガキがありました」と玲子さんは一葉のハガキを見せてくれた。
そこには、お店をオープンする店主の大いなる意気ごみが記されており、昭和43年開店の日付が印刷されていた。
ボクが日本テレビに入社したのが昭和42年だから、スナック千恵のオープンはその翌年だったのだと知った。
「それに、こんな案内も出していたようです」
見ると、もう一枚の、別のハガキは、閉店のお知らせだった。
お店への階段の上り下りが苦痛になり、これ以上の営業は諦めざるを得ないとの内容が、切々と書かれていた。
夢と希望に満ち溢れた開店のお知らせの案内と閉店の知らせの二種類のハガキが、時の流れを刻み、今は寂しく遺骨の前に並べ置かれていた。
「姉は、小田さんには、本当に感謝していました。ただ、迷惑を掛けないようにと、亡くなる間際になっても、病状の悪化していることを小田さんには伏せておくようにと、きつく云われていました」と玲子さんと理沙さんは涙を拭った。
痛みとの闘いだったようだ。
ボクは最晩年の不義理を詫びた。
「お渡ししたいのは、これなんですよ」と玲子さんが取りだしたのは、大きく平らな箱だった。
開けると中から立派な額に入った写真が現れた。
縦90センチ、横60センチほどの額に納まった写真は、なんとボクの写真だった。
それは、ボクの著書「麻薬王クンサー」の出版記念パーティーの際に撮られたもので、着流し姿で右手にマイクを握っている。
これを機に、日本テレビを辞したのだった。
27~8年前のことで、この数カ月後にオルタスジャパンを設立した。
実は、こういう写真があったことをボクは覚えていなかった。
思いがけなくも、突然出現した、若い頃の自分を抱え、母娘に送られてマンションを後にした。
思いの他、その写真はズッシリと重かった。
ボクが亡くなった時、少し気恥ずかしいが、この写真を遺影にしてもらおうかな、そんなことを思いながら駅までの道を歩いていた。
「若き日は 一瞬に消ゆ 幻か」

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家族と知人だけの密葬の後、お千恵さんの妹の玲子さんと、玲子さんの娘の理沙さんが、遺品の整理等々の後始末に当たられていた。
その玲子さんから、渡したいものがあるのだが、取りに来てほしいとの連絡があった。
新宿駅南口からほど近いお千恵さんのマンションを訪ねた。
母娘が迎えてくれたお千恵さんのマンションは、きれいに片づけられていて、間もなくであろう引っ越しの準備が進んでいた。
そんな部屋の一隅に急ごしらえの小さな祭壇が作られていて、そこに遺骨と、20歳代後半の頃のお千恵さんの華やかな時代の和服姿の小さなモノクロ写真が飾られていた。
お線香をたて、改めて両手を合わせた。
さまざまな過去が去来した。
それらひとつひとつの出来ごとに思いを馳せているうちに果てしなく時間は過ぎて行った。
「スナック千恵の開店案内のハガキがありました」と玲子さんは一葉のハガキを見せてくれた。
そこには、お店をオープンする店主の大いなる意気ごみが記されており、昭和43年開店の日付が印刷されていた。
ボクが日本テレビに入社したのが昭和42年だから、スナック千恵のオープンはその翌年だったのだと知った。
「それに、こんな案内も出していたようです」
見ると、もう一枚の、別のハガキは、閉店のお知らせだった。
お店への階段の上り下りが苦痛になり、これ以上の営業は諦めざるを得ないとの内容が、切々と書かれていた。
夢と希望に満ち溢れた開店のお知らせの案内と閉店の知らせの二種類のハガキが、時の流れを刻み、今は寂しく遺骨の前に並べ置かれていた。
「姉は、小田さんには、本当に感謝していました。ただ、迷惑を掛けないようにと、亡くなる間際になっても、病状の悪化していることを小田さんには伏せておくようにと、きつく云われていました」と玲子さんと理沙さんは涙を拭った。
痛みとの闘いだったようだ。
ボクは最晩年の不義理を詫びた。
「お渡ししたいのは、これなんですよ」と玲子さんが取りだしたのは、大きく平らな箱だった。
開けると中から立派な額に入った写真が現れた。
縦90センチ、横60センチほどの額に納まった写真は、なんとボクの写真だった。
それは、ボクの著書「麻薬王クンサー」の出版記念パーティーの際に撮られたもので、着流し姿で右手にマイクを握っている。
これを機に、日本テレビを辞したのだった。
27~8年前のことで、この数カ月後にオルタスジャパンを設立した。
実は、こういう写真があったことをボクは覚えていなかった。
思いがけなくも、突然出現した、若い頃の自分を抱え、母娘に送られてマンションを後にした。
思いの他、その写真はズッシリと重かった。
ボクが亡くなった時、少し気恥ずかしいが、この写真を遺影にしてもらおうかな、そんなことを思いながら駅までの道を歩いていた。
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