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「アンネの日記」事件で思いだした事

公立図書館の「アンネの日記」などの書籍が破られたとの事件があり、それに対してアメリカのユダヤ人人権団体サイモン・ヴイーゼンタール・センターが「衝撃と深い憂慮を表明する」との声明を出した。
そして、日本政府に犯人の検挙を強く求めている。
このユダヤ人人権団体サイモン・ヴイーゼンタール・センターについて、思いだしたことがある。

1995年の出来ごとなので、もう20年近く前のことになる。

放送作家の羽柴秀彦さんが暗い顔をして、面倒なことが起きた、とおっしゃる。
羽柴さんの話によると、彼が構成と監修を請け負っている日本テレビの日曜日朝のワイドショー番組にレギュラーコメンテイターとして毎週出演している花田紀凱氏が突如、番組から外されることが決定し、その対応に困っているとのことだった。

事情を聞くと、こうだった。
当時花田紀凱氏は文芸春秋社が発行する雑誌「マルコポーロ」の編集長をしていた。
その「マルコポーロ」の1995年1月17日の発売号に掲載された西岡昌紀氏の寄稿記事「戦後世界史最大のタブー・ ナチ『ガス室』はなかった」に対し、くだんのサイモン・ヴイーゼンタール・センターが抗議した。
その記事の内容が、ナチスによるユダヤ人虐殺は無かったというものであったからである。

どうやら、同センターからの圧力で番組スポンサーの大手農業機器メーカーであるクボタが番組から降りるとの騒ぎになり、その対応策としてテレビ局が編集責任者の花田氏の番組降板を決めたというものであるらしかった。

その話を聞いて、天下のクボタを脅すことができるユダヤの力は恐ろしいですね、と羽柴さんと話し合ったものである。

そのことがあった後、もっと驚く事態が起きた。

サイモン・ヴイーゼンタール・センターの働きかけにより、世界最大のタバコメーカーであるフィリップモリス社、マイクロソフト社、三菱自動車、フォルクスワーゲンなどの大手企業が文芸春秋社への広告出稿を拒否したのである。

「マルコポーロ」誌だけではなく、月刊誌「文芸春秋」や「週刊文春」についていたスポンサーが次々と降り出し、文芸春秋社は事態の深刻さに気付くこととなる。

結局、文芸春秋社は、サイモン・ヴィーゼンタール・センターに対し、全面的に謝罪し、「マルコポーロ」は廃刊、花田紀凱編集長は編集長を解任され、田中健五社長が社長を辞任するという前代未聞の結末となった。
実際には、事件はこれだけでは終わらず、同センターの文芸春秋社に対する攻撃は続くのだが、ここでは、あえて割愛する。

その後も、テレビ朝日などのマスコミが、同センターからの抗議を受ける事件があったとも聞く。

同センターの、文芸春秋社への抗議の執拗さや、その暴力的とも思えるやり方には、虐殺に匹敵するほどの凄みを感じないではいられない。
しかし、その執念や怒りが、ナチスから受けた残虐な行為に対して生まれ、70数年間もなお色あせることなく、そのままの形で引き継がれていることをどう受け止めれば良いのか。

このサイモン・ヴイーゼンタール・センターの、自分たちの祖先が過去に受けた虐待を絶対に許さないという執念の凄まじさを見れば、韓国や中国の日本への仕打ちは、まだまだ大人しいものに見える。
ボクたちは、やられた側の痛みをもう一度考えてみなければならないのかもしれない。

      「末代に 恨み重ねつ ユダヤあり」


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Mentality
日本人の得意な伝統的発想法 ‘世の中は、、、’ では他人の信頼を得ることはむずかしい。慰安婦問題を「どこの国にもあった」などと発言しても、真実を述べた人として尊敬されることはない。人の信頼を得るには、’あるべき姿’ の内容を述べる必要がある。
‘あるべき姿’ の内容は非現実の内容であって、日本人として考えれば、この世の真っ赤なウソである。だから、日本人は、このような非現実を考えたり、口にすることはない。それでも、信用は得られない。
近年、日本人をドイツ人と比較して、日本人には誠意がないと評する隣国人も見かけるが、それ以前にマッカーサも同様な比較をしていた。彼によるとドイツ人が45歳の成人であるならば、日本人は12歳の少年であるというのである。これを知って、当時、日本人は立腹したが、どうして彼の結論がそのような結論に達したかは、誰も話さなかった。彼の結論は、我々にとって決して名誉なことではないので、これを改めることが必要であるが、まず、その原因を知ることが重要である。

日本人には意思がない。意思がなければ加害者意識も芽生えない。他の特亜三国 (日本・韓国・中国) も同様である。
意思のない人は子供のようなものである。罪の話は理解できない。心に響くこともない。これが憎まれっ子というものか。 相手が大人であれば恨めしい。
ルール違反を見つけたら、これぞ絶好の機会到来と、相手に言いがかりをつけて攻撃を仕掛ける。伝統的な覇者の国は覇権を求めてやまない。民の共感もすぐに得られる。
違反の指摘に欧米の賛同が得られたら、なおのことよい。北東アジアの不安定要因となる。
特亜三国の人は、過去に学んで未来を創る態度がない。隔絶された現在に生きている。あとは野となれ山となれ。その日暮らしで生きている。

ドイツ人には意思がある。意思があれば加害者意識 (罪の意識) にさいなまれる。まわりの諸国も同様である。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とイエスに言われたら、それぞれの国は自国の歴史を顧みて、ナチスの子孫に石を投げる国はいなくなる。
だから、ヨーロッパにおける戦後の和解とユーロ圏の構築は、“戦争について触れない”という徹底した主義の上に成り立っている。
ドイツの歴代首相による真実の謝罪と反省が ‘イスラエルの勲章を授与されるドイツ首相’ を生み出した。

意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制はない。
日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。
加害者意識 (罪の意識) はない。贖罪のための宗教もない。悔い改める姿もない。信頼もされていない。
被害者意識と受け身の姿勢ばかり。待ちの政治では立つ瀬がない。
恨みと仕返しの連続か。この種の感情で特亜の民は盛り上がる。これでアジアに未来はあるのか。ああ、むなしい。

歴史を忘れた民族に未来は無い。‘我々はどこから来たか、我々は何者であるか、我々はどこに行くか’ の哲学的命題は大切である。
‘我々はどこに行くか’を大同として語れば、未来社会の建設に協力者もできる。お互いの小異を捨てることも可能になる。特亜の袋小路から抜け出すこともできる。
これらの命題を考えるためには、文法に時制が必要である。
時制があれば、過去、現在、未来の同じ内容を別々の世界として表現できる。未来と過去の内容は、夢・幻の雑念にとどまることはない。哲学になる。
後進世界である特亜言語の世界を脱して、欧米世界の一員となろう。それには英米の高等教育が必要である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/




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【小田昭太郎】
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