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ドキュメンタリー映画「SAYAMA」を観て思うこと その②

50年前に起きた狭山事件の石川一雄もと被告とその妻を描いた「SAYAMA」の案内のチラシには、製作が映画「SAYAMA」製作委員会となっていて、肩書きにドキュメンタリー映画とある。
つまりこの作品は映画と称されている。

映画の定義付けはボクには正確には分からないが、つまりは単純に、劇場などで観客に観せる映像という意味なのだろうと思う。
だから、ドキュメンタリーだけで良いのに、わざわざ映画という言葉をつけているのだろう。

ところで、ドキュメンタリー映画「SAYAMA」を観て、こういった自主映画とテレビ番組の違いということについても考えさせられた。

発信の場であるメディアの違いにより、演出方法や見せ方が異なって来る。

映画の場合は観客を劇場に閉じ込めることができるので、観始めた観客は最後まで観てくれることが約束される。
テレビの場合は嫌だとすぐにチャンネルを変えられ、客に逃げられる。
その違いの大きさがまず第一にある。

映画「SAYAMA」は極端なまでに状況説明の情報をカットしている。
ナレーションを含めて圧倒的に状況に関する情報量が少ないので、狭山事件について全く予備知識がなくて、事情を理解できない人は登場人物のしゃべる言葉を聞きとることが出来ない。
また、聞き取れてもその言葉の意味が理解できない。
ある意味、不親切であるし、作りとしては粗い。
テレビでは通用しない手法である。

その理由のひとつには、制作者は3年間もずっと関わっていて事情が分かり過ぎているので、他の人も、これくらいは分かっているだろう、という思い込みもあるとは思う。

しかし、制作者にはもっと意図的、積極的に、情報は必要ではなく、情報よりも感じてくれれば良いのだとの演出意図がみえる。
余計な情報は無い方が、かえって大きな感動を得ることができるのだ、と考えている。
これが、テレビ番組との大きな違いのひとつである。

現在のテレビは、説明過剰なほど懇切丁寧に説明する。
視聴者には些細な疑問や戸惑いは勿論のこと、感じさせる時間や考えさせる時間を与えない。
視聴者にそんな時間を与えるとチャンネルを変えられてしまうと徹底的に恐れるからである。

現在のテレビの場合、過剰な説明をすることで失っている視聴者の感動を、どう取り戻すのかは大きな課題である。

メディアの違い、ということで簡単に収まる部分とそうでない要素があると思う。

説明をし過ぎないことにより生まれる力については、高畑勲監督が今年11月23日公開予定のアニメーション「かぐや姫の物語」でも試みているとも聞く。

どの分野においても、映像表現者の反省とたゆまぬ努力が常に求められている。

   「過ぎたるは 及ばざるとの たとえあり」


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