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住みやすい世の中

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苦しいときの神頼み

毎年、年明け早々には会社の近く、赤坂山王下にある日枝神社で数人のスタッフと共にお祓いをして貰うのだが、今年は少しばかり時期をずらしての初詣となった。

境内は人も少なめで、緊急事態宣言下でもあり、コロナ感染予防の宣伝がよく行き届いている様子だ。
それでもお祓いに来る人たちは後を絶たず、20数人が一緒に祈祷を受ける。

ソーシャルディスタンスとやらで透明のビニールで仕切られた中で聞く巫女の神楽の鈴の音も弱々しく、いまひとつ冴えない。
神様の力を以ってしてもコロナには歯が立たぬようだが、そんなことは皆も百も承知の上で、一同揃って神妙に頭を垂れている。

神主の唱える祝詞を聞いていると、都内は勿論、千葉、神奈川、茨城など遠くからわざわざ出向いている人たちの多いことにも、いつもながら驚く。
これが信仰なのか、はたまた慣例に従った、ただの行事なのか、ボク自身も良くは分かっていない。

大阪府堺市のボクの実家は代々浄土真宗で、法事の際には親戚一同が集まり、真宗のお坊さんを家に呼んで経を唱えて貰い、説教を聞く。
近所付き合いだからと宗派の異なる日蓮宗の寺にも祖父が形だけのお墓を作るのを子ども心に不思議に思ったこともあった。
小学生の頃まで台所にカマドがあり荒神さんを祀っていた。

現在、ボクたちの会社には神棚があり、榊を欠かすことはないが、この神棚は実は32年前に会社を設立した際に、知り合いの天台宗の尼さんにお願いして祀って頂いたもので、正確には密教の仏壇である。

そこに日枝神社のお札を祀っている。
その仏壇を祀ってくれた天台宗の庵主さんによれば、日枝神社の日枝(ヒエ)は比叡山天台宗の比叡(ヒエ)とつながるので、神でも仏でもまったく問題はありませんと笑顔だった。
どこをとっても、神仏混交で、実に大らかだ。

さて、ここからはボクの妄想の与太話となるので真面目に受け取らないで頂きたい。

毎日、神棚の榊の水を代えては手を合わせるのだが、信仰心があるか、と問われたら「ありません」と答える。
それでは信仰心は無いのか、と言われれば「あるかのかもしれません」と、これも曖昧である。

それではボクは何に向かって手を合わせているのか。
仏壇の神棚に向かってはいるが、お釈迦様でも、ましてや天照大御神でないことだけは確かだ。
実はボクは無宗教なのだ。

ところで、現在も大差はないとは言え、特に大昔の世界は食料も乏しい上に自然災害も多く飢えや疫病に苦しみ、常に戦争の絶えることのない世情不安定な時代が延々と続き、人びとは貧困や恐怖や不安に満ち溢れる中で日々を送っていたであろうことは想像に難くない。

灯りも乏しく、一日の半分以上の時間は真っ暗闇の中での暮らしだった。
迷信やお化けや妖怪も簡単に受け入れられただろう。

そして苦しく絶望的な日常の中で人びとは救いを求めていたに違いない。
何か安心できるもの、せめて心だけでも平安を約束してくれるものを渇望していただろう。
仏教やキリスト教やイスラム教など現在も存続する宗教はそんな人びとの救いの受け皿として信仰の的となったと思われる。

世の中の実相や真理を探究し人の生き方を追い求める哲学にプラスして神や仏などの絶対的権威を加えたのが宗教だとボクは理解しているのだが、神や仏は人間が創り上げた概念である。
とても優れているが、いわばフィクションであり方便だから誰も神に会うことは出来ないし、ましてやその存在を証明することもできない。
信じる人びとの心の中にだけ存在している。

それでもそれで救われるのだとすれば、その価値を否定するものではない。
何を信じようと、救いを求めようと、それはそれぞれの自由だ。
哲学の真理だけでは人は救われないのだ。

しかし宗教は人を救う役割を果たす一方で、ずいぶん大きな悪さもして来た。
教祖と呼ばれる人たちが説いた真理や教理が弟子と称する人たちや後世の多数の人びとによって新たな考えが加えられ、また多様な解釈がなされ、ある意味では改ざんされて来た。

それらの宗教は体系化されて組織化され、いくつかの宗派に分かれ、それぞれが巨大な教団となる。
そして権力化した組織は、永く続けば続くほど腐敗する。
腐敗した宗教は人びとをひとつの考えに縛り付け、人びとの自由を奪い、しばしば誤った方向にも導く。

人間はエゴを捨て去れない生物だから、それぞれが自分の都合の良い形で宗教を利用することになり、その宗教が求めていた教理とはまったく別の方向に向かって暴走することにもなる。

その時代、時代に沿った形で政治権力に利用された宗教は、原理主義に背中を押され、元来の教理を忘れ去り無法化もする。
その宗教の存在が巨大であればあるほど悪への暴走はさらに巨大化し誰にも止めることができないものとなる。
本来が善良なる人びとも内なるエゴを抑制できずに暴力にも頼る暴走に巻き込まれていくことになる。

そんな無数の事例をボクたちは歴史に学んだし、そして今も、同じ現象を日常の世でも十分に見聞きし体験している。

科学が進歩して、宇宙や地球の誕生から始まり、生物がどのように進化して人類が現在に至ったのかのあらましも徐々に明らかになり、さらに人類の滅亡から地球や宇宙の消滅までの時間も予測できるようになった。
まだ科学で解明されない事象は圧倒的に多いが、理屈に合わない不思議はなくなった。

それでも多くの人が神という名のフィクションに縛られ続ける不思議な世界が存在している。
人はそれほどに宗教を必要としていることは確かなのである。

そして絶対的権威を戴く宗教を嫌い無宗教者だと称し、哲学に価値を認めながら、会社の一隅に神棚を祀り、毎日手を合わせている自分がいる。

人間は祈らないではいられない弱い動物だからなのか、依頼心が強いのか、あるいは全宇宙の法則を支配するまだ解明されていない偉大な力に対してなのか。

いやはや、どれもがそうであるようで、そうではないようだ。
ボクの場合、その正体はしばしば訪れる「苦しいときの神頼み」であることがどうやら一番本音に近い答のようである。
  
  「神仏よ これが最後よ お願いよ」


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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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