Archive | 2018年08月
「お金が欲しいなあ」と、あるスタッフがぽつんと言った。
「お金があったら何をしたいの?」と聞くと
「別にそれは無いけど、5万円ほどあればなあと……」と答えた。
思いがけなかったが、とても切実なその答えにボクは「ウッ!」と詰まった。
たいてい、「お金が欲しい」と聞くと、すぐに数百万円とか数千万円とかの額を想像してしまう。
宝くじにでも当たらないかなあ、といった類の単なる世間話ならばその単位は数億円だし、そうでなければ家を買いたいとか、子供の大学の学資が必要だとか、何か緊急にお金が必要になったか、などと推測するからだ。
単なる冗談に近い世間話の場合は、妙な大金など無い方が良いよ、とボクは応えるのだが、ともかく、ボクの場合で言えば、会社の資金繰りが切実だから、それ位の単位の金額が頭に浮かぶ。
それはそれで当事者にはとても切実なのだが、「5万円ほど」というのも、また身につまされる実に身近な金額である。
小遣いとして使えるお金がもう少しあればなあ、という意味なのかもしれない。
そう云えば、ボクも若い頃に覚えがある。
大学生の頃は、故郷の親から月々2万円の仕送りをしてもらって、それでやりくりしていた。
55~6年前の貨幣価値はそういうものだった。
スナックのハイボールが一杯50円だったから、千円札一枚あれば威張って飲みに行けた。
生活費を含めて、せめてあと2千円か3千円あればなあ、と切望していたし、30歳代の頃はあと2~3万円あればなあ、と望んでいたものだ。
大した金額ではないのだが、当事者にとっては大した金額で、切実な実感として分かるだけに、そのスタッフの言葉は本音としてボクを刺す。
何とかしなければいけないなあ、と考えさせられる。
ボクに出来ることは、業績を上げてスタッフの給与をアップすることでしか、その望みを叶えることができない。
一般論としては、会社設立とその存続の大きな目的のひとつは利潤を追求し、その会社に投資した株主にその利潤を還元することである。
上場している会社も非上場の会社もその原則に変わりは無い。
ボクたちの会社の資本金は5500万円だが、外部資本は入っておらず、わが社の専務取締役、常務取締役や取締役を初めとする身内スタッフ若干名とボクが株主となっている。
そして大半の株はボクが所有している。
しかし、会社を設立して30年になるが、これまで一度も株主に利潤を配当したことは無い。
他の株主には本当に申し訳ないのだが、我慢してもらって、利益は社員、契約を問わず、わが社のスタッフ全員に分配することにしている。
これは弱肉強食、優勝劣敗の競争社会に生きる、本来の資本主義の理念からすれば、決して褒められた行為でもないことは重々承知しているのだが、ボクが大株主で代表取締を務めている間は、この方針を守りたいと考えている。
オルタスジャパンは、もともと6人の同志が始めた会社で、当然ながら生活していくための最低限のお金は確保しなければならないが、その目的は利潤の追求ではなくて、質の高いドキュメンタリー番組を作り続けて行きたい、世間をあっと驚かせたり、面白がらせたり、感動させたりする番組を作りたいね、という単純な目的のために立ち上げた青臭い考えの会社である。
それに賛同する作り手たちなら、一緒に仕事をして行きましょう、でもボクたちはお金を儲けるために番組を作るのではありませんよ、ドキュメンタリーが好きで、番組を作りたい人たちの集まりですよ、ボクたちの会社はそういう意思を持つ作り手たちの集う場なのですよ、とボクは常に語り、そのことはこのブロクでも書き続けて来た。
時代感覚は変われど、そんな考えの下でスタートし、継続して来た会社だから、会社としては、ずっと貧乏で特別に経済的に豊かな者はひとりとして存在しない。
お金を求める者は、他の職種に鞍替えするしか方法は無い。
町場の制作プロダクション、とりわけドキュメンタリーなどという儲からないジャンルの制作プロダクションは何処へ行っても同じ境遇の下にあるのは必定で似たり寄ったりだろう。
この仕事が好きだから選択し、そこで生き抜き、少しでも納得のいく番組を作りたい、との強い考えの無い人たちにはさぞかし、しんどい職場だろうと思う。
そして、現実に、ボクたちの会社のスタッフの全員がモノ作りに関しては同じ価値観を共有する作り手たちの集団である。
有名ブランドで身を飾り、高級車を乗り回し、豪邸に住みたいなどの夢を持つ者はいないことだけは確かである。
そんな基本的な考えや現状があるので、株主配当は行わないで来た。
お金は汗の対価として得るべきもので、株主配当などは不労所得の最たる悪だと思うからである。
それならば、実際に汗を流して番組作りに精を出し、会社という、みんなにとって大切な場を維持するために懸命に貢献しているスタッフに還元すべきだろうと考えるからである。
もっとも、会社の明日の命運は時としてどうなるか分からないから、緊急時に備えて経営者はある程度の資金の準備は必要で、経営者の責務として、私財を投げ打つ覚悟はしておかなければならない。
経営者であるボクの給与はそのためにあり、普段の生活は質素でなければならないと自覚している。
こうした形での経営方針でこれまでやってきたが、それはそれとして、少しでも給料を多く欲しいとスタッフが願うのも当然の人情というものである。
わが社の給与は世間と比べて特別に安い方ではない。
上を見ても、また下を見てもキリはないが、平均的水準を保っている。
その給与額は最終的にはボクが決めている。
その基準は、年齢と勤続年数を基本として、それに貢献度、家庭や個人の事情、働き方の姿勢や将来性などを査定して総合的に決める。
決して均一では無い。
入社して3~4年はスタッフ間の差はないが、それ以降は少しづつ差がついてくる。
お金には特別の魔力があるし、実際に無くては困るものであることは確かだ。
お金とは実に不思議な存在で、様々な価値判断の基準になったりもする。
お金の稼ぎ高が自分の価値だと考える者もいる。
大韓航空のナッツ姫ではないが、お金持ちが貧しい者に威張ったりするのはその典型例なのだろうが、賃金は労働とその質に対するもので、人間的価値とは関係ないのだが、そのように思い込む人たちもいる。
だから、そういう人たちは他人の給与が気になり、他人よりも少ないと不安や不満を持つ者も現れる。
その気持ちはボクにも分からない訳ではないが、世の中はそれほど幼く単純でもないし、同時に矛盾にも満ちていて老獪だ。
どんな人もどこかで我慢したり、歯を食いしばって頑張る気持ちに転化させたりして成長し、そして取り巻く環境や自分の力に合った収入のメドを立てる工夫を覚え成功を手にする。
しかし、自分の事情だけを優先し、自分を律することの出来ない者は我慢しきれなくなる。
そしてさらに不思議なことに、他の人よりも待遇の良い者ほど不満も大きいし、会社を辞める傾向がある。
ボクは甘いな、と思って見ている。
どの業界でも同じだと思うが、一人前になるのにはどんなに早くても最低20年はかかる。
そして一人前になれば、それなりの収入を得て、それなりの暮らしが出来る仕組みになっている。
そしてようやく大人になれる。
人はそれぞれで、100様の考え方を持つ。
だから、ボクたちの会社の考えに合わず辞めて行く人はボクは基本的には引き留めることはない。
去る者は追わず、だ。
ところで、冒頭に書いた「お金が欲しい」と思わずつぶやいたスタッフはボクの篤く信頼するスタッフのひとりだ。
頭ではなく身体で会社や仲間のことに思いを馳せることの出来る人である。
ボクが果たさなければならない仕事は山積しているとつくづく思っている。
「遥かなり お足に勝る 情あれよと」

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「お金があったら何をしたいの?」と聞くと
「別にそれは無いけど、5万円ほどあればなあと……」と答えた。
思いがけなかったが、とても切実なその答えにボクは「ウッ!」と詰まった。
たいてい、「お金が欲しい」と聞くと、すぐに数百万円とか数千万円とかの額を想像してしまう。
宝くじにでも当たらないかなあ、といった類の単なる世間話ならばその単位は数億円だし、そうでなければ家を買いたいとか、子供の大学の学資が必要だとか、何か緊急にお金が必要になったか、などと推測するからだ。
単なる冗談に近い世間話の場合は、妙な大金など無い方が良いよ、とボクは応えるのだが、ともかく、ボクの場合で言えば、会社の資金繰りが切実だから、それ位の単位の金額が頭に浮かぶ。
それはそれで当事者にはとても切実なのだが、「5万円ほど」というのも、また身につまされる実に身近な金額である。
小遣いとして使えるお金がもう少しあればなあ、という意味なのかもしれない。
そう云えば、ボクも若い頃に覚えがある。
大学生の頃は、故郷の親から月々2万円の仕送りをしてもらって、それでやりくりしていた。
55~6年前の貨幣価値はそういうものだった。
スナックのハイボールが一杯50円だったから、千円札一枚あれば威張って飲みに行けた。
生活費を含めて、せめてあと2千円か3千円あればなあ、と切望していたし、30歳代の頃はあと2~3万円あればなあ、と望んでいたものだ。
大した金額ではないのだが、当事者にとっては大した金額で、切実な実感として分かるだけに、そのスタッフの言葉は本音としてボクを刺す。
何とかしなければいけないなあ、と考えさせられる。
ボクに出来ることは、業績を上げてスタッフの給与をアップすることでしか、その望みを叶えることができない。
一般論としては、会社設立とその存続の大きな目的のひとつは利潤を追求し、その会社に投資した株主にその利潤を還元することである。
上場している会社も非上場の会社もその原則に変わりは無い。
ボクたちの会社の資本金は5500万円だが、外部資本は入っておらず、わが社の専務取締役、常務取締役や取締役を初めとする身内スタッフ若干名とボクが株主となっている。
そして大半の株はボクが所有している。
しかし、会社を設立して30年になるが、これまで一度も株主に利潤を配当したことは無い。
他の株主には本当に申し訳ないのだが、我慢してもらって、利益は社員、契約を問わず、わが社のスタッフ全員に分配することにしている。
これは弱肉強食、優勝劣敗の競争社会に生きる、本来の資本主義の理念からすれば、決して褒められた行為でもないことは重々承知しているのだが、ボクが大株主で代表取締を務めている間は、この方針を守りたいと考えている。
オルタスジャパンは、もともと6人の同志が始めた会社で、当然ながら生活していくための最低限のお金は確保しなければならないが、その目的は利潤の追求ではなくて、質の高いドキュメンタリー番組を作り続けて行きたい、世間をあっと驚かせたり、面白がらせたり、感動させたりする番組を作りたいね、という単純な目的のために立ち上げた青臭い考えの会社である。
それに賛同する作り手たちなら、一緒に仕事をして行きましょう、でもボクたちはお金を儲けるために番組を作るのではありませんよ、ドキュメンタリーが好きで、番組を作りたい人たちの集まりですよ、ボクたちの会社はそういう意思を持つ作り手たちの集う場なのですよ、とボクは常に語り、そのことはこのブロクでも書き続けて来た。
時代感覚は変われど、そんな考えの下でスタートし、継続して来た会社だから、会社としては、ずっと貧乏で特別に経済的に豊かな者はひとりとして存在しない。
お金を求める者は、他の職種に鞍替えするしか方法は無い。
町場の制作プロダクション、とりわけドキュメンタリーなどという儲からないジャンルの制作プロダクションは何処へ行っても同じ境遇の下にあるのは必定で似たり寄ったりだろう。
この仕事が好きだから選択し、そこで生き抜き、少しでも納得のいく番組を作りたい、との強い考えの無い人たちにはさぞかし、しんどい職場だろうと思う。
そして、現実に、ボクたちの会社のスタッフの全員がモノ作りに関しては同じ価値観を共有する作り手たちの集団である。
有名ブランドで身を飾り、高級車を乗り回し、豪邸に住みたいなどの夢を持つ者はいないことだけは確かである。
そんな基本的な考えや現状があるので、株主配当は行わないで来た。
お金は汗の対価として得るべきもので、株主配当などは不労所得の最たる悪だと思うからである。
それならば、実際に汗を流して番組作りに精を出し、会社という、みんなにとって大切な場を維持するために懸命に貢献しているスタッフに還元すべきだろうと考えるからである。
もっとも、会社の明日の命運は時としてどうなるか分からないから、緊急時に備えて経営者はある程度の資金の準備は必要で、経営者の責務として、私財を投げ打つ覚悟はしておかなければならない。
経営者であるボクの給与はそのためにあり、普段の生活は質素でなければならないと自覚している。
こうした形での経営方針でこれまでやってきたが、それはそれとして、少しでも給料を多く欲しいとスタッフが願うのも当然の人情というものである。
わが社の給与は世間と比べて特別に安い方ではない。
上を見ても、また下を見てもキリはないが、平均的水準を保っている。
その給与額は最終的にはボクが決めている。
その基準は、年齢と勤続年数を基本として、それに貢献度、家庭や個人の事情、働き方の姿勢や将来性などを査定して総合的に決める。
決して均一では無い。
入社して3~4年はスタッフ間の差はないが、それ以降は少しづつ差がついてくる。
お金には特別の魔力があるし、実際に無くては困るものであることは確かだ。
お金とは実に不思議な存在で、様々な価値判断の基準になったりもする。
お金の稼ぎ高が自分の価値だと考える者もいる。
大韓航空のナッツ姫ではないが、お金持ちが貧しい者に威張ったりするのはその典型例なのだろうが、賃金は労働とその質に対するもので、人間的価値とは関係ないのだが、そのように思い込む人たちもいる。
だから、そういう人たちは他人の給与が気になり、他人よりも少ないと不安や不満を持つ者も現れる。
その気持ちはボクにも分からない訳ではないが、世の中はそれほど幼く単純でもないし、同時に矛盾にも満ちていて老獪だ。
どんな人もどこかで我慢したり、歯を食いしばって頑張る気持ちに転化させたりして成長し、そして取り巻く環境や自分の力に合った収入のメドを立てる工夫を覚え成功を手にする。
しかし、自分の事情だけを優先し、自分を律することの出来ない者は我慢しきれなくなる。
そしてさらに不思議なことに、他の人よりも待遇の良い者ほど不満も大きいし、会社を辞める傾向がある。
ボクは甘いな、と思って見ている。
どの業界でも同じだと思うが、一人前になるのにはどんなに早くても最低20年はかかる。
そして一人前になれば、それなりの収入を得て、それなりの暮らしが出来る仕組みになっている。
そしてようやく大人になれる。
人はそれぞれで、100様の考え方を持つ。
だから、ボクたちの会社の考えに合わず辞めて行く人はボクは基本的には引き留めることはない。
去る者は追わず、だ。
ところで、冒頭に書いた「お金が欲しい」と思わずつぶやいたスタッフはボクの篤く信頼するスタッフのひとりだ。
頭ではなく身体で会社や仲間のことに思いを馳せることの出来る人である。
ボクが果たさなければならない仕事は山積しているとつくづく思っている。
「遥かなり お足に勝る 情あれよと」



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暑い!
夏が暑いのは当たり前のことだが、それにしても暑い。
「ああ、暑い。これまでこんなに暑い夏は無かった。今年の夏は特別に暑い」
などと毎年、この季節になると同じセリフを吐いている。
「暑い!」と叫んでみても、それで涼しくなる訳でもなく、余計に暑くなるばかりなのに、なぜか暑い、暑いという言葉が自然と口を衝いて出る。
でも思い返してみると、子供の頃の方がもっと暑かった。
ボクは大阪府の堺市で生まれ育ったのだが、冷暖房機など影も形も無い時代で、うちわでパタパタ扇ぐか、扇風機がせいぜいだった。
扇風機の風の前で、「あーあー」とか「シー、シー」とか声を出して、風で声の音が切れるのを楽しんだことを思い出す。
各家庭には電気冷蔵庫などは勿論無かったから、氷だって簡単には手に入らないし、冷たい飲み物と云えば、井戸水だけだった。
スイカやトマトなども井戸水で冷やして食べていた。
子供の頃は背丈も当然低かったから、道路の照り返しも厳しかったのに違いない。
でも、家に居る時は裸になって過ごしたり、子供なりに風の通る少しは涼しい場所を見つけたりと、その対応に知恵を使うことも出来たが、何と言っても一番暑かったのは学校だった。
ボクたちの小学生の頃はひとクラス60数人ほどの、ぎゅうぎゅう詰めの教室で、一日中過ごすのだから、お互いの体温や人いきれだけでも暑苦しい。
おまけに子供の頃の体温は高い。
冬は冬で暖房など一切無かったから寒かった。
よくあんなに暑くて寒い所で何年間も無事に過ごし通せたものだと、今さらながら思う。
しかし、政府が、来年度から学校の暑さ対策を図らなければならない、と発表したところを見ると、恐らく多くの学校は現在でも冷暖房無しの同じような状態が続いているのかもしれない。
でも、ボクたちの子供時代から比べると、総じて今はまるで天国の筈である。
電車に乗っても、バスに乗っても、また建物に入れば冷房が完備されている。
至れり尽くせりだ。
そんなことを言うと、熱い陽射しを浴びて毎日取材で駆け回っているスタッフたちには申し訳ないが、それでも快適な世の中になった。
オフィスなどでは冷やし過ぎて逆に寒い、寒いなどと言っている始末だ。
冷暖房に限らず、こうしたボクたちの便利で快適な生活を確保するためのさまざまな努力、別の言葉で言うとボクたちの欲望の集積が地球的な温暖化を招き、異常気象の原因になっていることも事実である。
このほど環境省は、このままで行くと2100年の日本は熱帯になるとの予報を出した。
東京、名古屋が44度、高知は44,9度まで気温が上がるだろうとの予測である。
80年後にはボクたちは生きて無いから関係ないや、などと夢にも思うなかれ。
事態は刻一刻と熱帯に向かって歩を進めている。
毎日毎日、少しづつ温暖化は進行している。
それが証拠に、人為的な原因によって自然が変化し、ここ年々自然現象が激しく荒々しくなっていて、驚くほどの被害を出していることは周知である。
ボクたちはそれを異常気象と呼ぶが、人間の営みを今のまま続けて行けば、この異常気象が常態化して、それが当たり前になるということである。
日本を襲う台風にしても、これまでは南洋で発達した熱帯性低気圧が北上し、沖縄から九州、四国を通り本島を抜けて北上するというのが通常のコースだった。
しかし、先日の大きな被害をもたらした台風12号は日本列島の東から西に進むという異例の逆進路を辿った。
予測を遥かに上回る異常な現象が多くなってきた。
ここ最近になって、気温にしても、雨量にしても観測史上初めて、という表現をしばしば耳にするようになっている。
日本列島熱帯化の道は、予想よりもその歩みを速めているのではないかとの見方も一部にはあるようだ。
そう云えば、大学時代の仲間たち数人と暑気払いを兼ねて、浅草のどじょう鍋でも食べて元気をつけようかとお店の予約もしていたのだが、ひとりが肺炎になって入院し、二人が熱中症で倒れるなどの思わぬ事態となり、お流れとなった。
年寄たちにとっても、暑さを象徴とするこの一連の異常気象は実際に堪えているようだ。
遠い将来ではなくて、異常な事態はボクたちの身近にヒタヒタと音を立てて迫ってきている。
そして、その深刻さはすでに現実の問題としてボクたちに突き付けられている。
このことは、人類ひとりの問題では無く、実は地球に生きるすべての動物や植物全体の生態系にも係る大問題でもある。
敢えて極端で象徴的な表現をすれば、暑さを凌ぐために冷房機を生み出したツケが、地球規模の温暖化を招き、より暑い夏に苦しんでいる、というのが現在の人間の皮肉な姿である。
自然のままと快適さや便利さのどちらが善でどちらが悪であるのかはボクには分からない。
人は相矛盾する二つの幸せを同時に手にすることは出来ないのは自明の理だが、それを同時に求めるのが人間の性であり業でもある。
ほどほどの中庸の精神を持つことは難しい。
自然を愛する一方で、どこまでもボクたちは快適さや便利さを追い求められずにはいられない。
その意味では、例えそれが破滅に向かう道であろうと、行き着くところまで行かないと、何も終わらないし、新しく何も始まらないのだとは思う。
仮に理屈はそうであるにしても、本当は今、これまでの人間の生き方を見直す最後の時が来ていると感じる。
地球は人間だけのものでは無く、多くの生き物や植物のものでもある。
ボクたち人間には、自分たちのエゴで他の生物を犠牲にする権利は無い筈である。
共存共栄の思想の実践が今ほど求められている時代はないかもしれない。
そしてそれは、生態系の頂点に君臨する人類に課せられた使命である筈だ。
冷房の効いた快適な部屋で冷蔵庫から取り出した良く冷えたビールを飲みながら、ボクはぶつぶつと、こんな愚にもつかない独り言を呟いているのである。
「暑過ぎる! ほざいていろや 馬鹿社長」

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夏が暑いのは当たり前のことだが、それにしても暑い。
「ああ、暑い。これまでこんなに暑い夏は無かった。今年の夏は特別に暑い」
などと毎年、この季節になると同じセリフを吐いている。
「暑い!」と叫んでみても、それで涼しくなる訳でもなく、余計に暑くなるばかりなのに、なぜか暑い、暑いという言葉が自然と口を衝いて出る。
でも思い返してみると、子供の頃の方がもっと暑かった。
ボクは大阪府の堺市で生まれ育ったのだが、冷暖房機など影も形も無い時代で、うちわでパタパタ扇ぐか、扇風機がせいぜいだった。
扇風機の風の前で、「あーあー」とか「シー、シー」とか声を出して、風で声の音が切れるのを楽しんだことを思い出す。
各家庭には電気冷蔵庫などは勿論無かったから、氷だって簡単には手に入らないし、冷たい飲み物と云えば、井戸水だけだった。
スイカやトマトなども井戸水で冷やして食べていた。
子供の頃は背丈も当然低かったから、道路の照り返しも厳しかったのに違いない。
でも、家に居る時は裸になって過ごしたり、子供なりに風の通る少しは涼しい場所を見つけたりと、その対応に知恵を使うことも出来たが、何と言っても一番暑かったのは学校だった。
ボクたちの小学生の頃はひとクラス60数人ほどの、ぎゅうぎゅう詰めの教室で、一日中過ごすのだから、お互いの体温や人いきれだけでも暑苦しい。
おまけに子供の頃の体温は高い。
冬は冬で暖房など一切無かったから寒かった。
よくあんなに暑くて寒い所で何年間も無事に過ごし通せたものだと、今さらながら思う。
しかし、政府が、来年度から学校の暑さ対策を図らなければならない、と発表したところを見ると、恐らく多くの学校は現在でも冷暖房無しの同じような状態が続いているのかもしれない。
でも、ボクたちの子供時代から比べると、総じて今はまるで天国の筈である。
電車に乗っても、バスに乗っても、また建物に入れば冷房が完備されている。
至れり尽くせりだ。
そんなことを言うと、熱い陽射しを浴びて毎日取材で駆け回っているスタッフたちには申し訳ないが、それでも快適な世の中になった。
オフィスなどでは冷やし過ぎて逆に寒い、寒いなどと言っている始末だ。
冷暖房に限らず、こうしたボクたちの便利で快適な生活を確保するためのさまざまな努力、別の言葉で言うとボクたちの欲望の集積が地球的な温暖化を招き、異常気象の原因になっていることも事実である。
このほど環境省は、このままで行くと2100年の日本は熱帯になるとの予報を出した。
東京、名古屋が44度、高知は44,9度まで気温が上がるだろうとの予測である。
80年後にはボクたちは生きて無いから関係ないや、などと夢にも思うなかれ。
事態は刻一刻と熱帯に向かって歩を進めている。
毎日毎日、少しづつ温暖化は進行している。
それが証拠に、人為的な原因によって自然が変化し、ここ年々自然現象が激しく荒々しくなっていて、驚くほどの被害を出していることは周知である。
ボクたちはそれを異常気象と呼ぶが、人間の営みを今のまま続けて行けば、この異常気象が常態化して、それが当たり前になるということである。
日本を襲う台風にしても、これまでは南洋で発達した熱帯性低気圧が北上し、沖縄から九州、四国を通り本島を抜けて北上するというのが通常のコースだった。
しかし、先日の大きな被害をもたらした台風12号は日本列島の東から西に進むという異例の逆進路を辿った。
予測を遥かに上回る異常な現象が多くなってきた。
ここ最近になって、気温にしても、雨量にしても観測史上初めて、という表現をしばしば耳にするようになっている。
日本列島熱帯化の道は、予想よりもその歩みを速めているのではないかとの見方も一部にはあるようだ。
そう云えば、大学時代の仲間たち数人と暑気払いを兼ねて、浅草のどじょう鍋でも食べて元気をつけようかとお店の予約もしていたのだが、ひとりが肺炎になって入院し、二人が熱中症で倒れるなどの思わぬ事態となり、お流れとなった。
年寄たちにとっても、暑さを象徴とするこの一連の異常気象は実際に堪えているようだ。
遠い将来ではなくて、異常な事態はボクたちの身近にヒタヒタと音を立てて迫ってきている。
そして、その深刻さはすでに現実の問題としてボクたちに突き付けられている。
このことは、人類ひとりの問題では無く、実は地球に生きるすべての動物や植物全体の生態系にも係る大問題でもある。
敢えて極端で象徴的な表現をすれば、暑さを凌ぐために冷房機を生み出したツケが、地球規模の温暖化を招き、より暑い夏に苦しんでいる、というのが現在の人間の皮肉な姿である。
自然のままと快適さや便利さのどちらが善でどちらが悪であるのかはボクには分からない。
人は相矛盾する二つの幸せを同時に手にすることは出来ないのは自明の理だが、それを同時に求めるのが人間の性であり業でもある。
ほどほどの中庸の精神を持つことは難しい。
自然を愛する一方で、どこまでもボクたちは快適さや便利さを追い求められずにはいられない。
その意味では、例えそれが破滅に向かう道であろうと、行き着くところまで行かないと、何も終わらないし、新しく何も始まらないのだとは思う。
仮に理屈はそうであるにしても、本当は今、これまでの人間の生き方を見直す最後の時が来ていると感じる。
地球は人間だけのものでは無く、多くの生き物や植物のものでもある。
ボクたち人間には、自分たちのエゴで他の生物を犠牲にする権利は無い筈である。
共存共栄の思想の実践が今ほど求められている時代はないかもしれない。
そしてそれは、生態系の頂点に君臨する人類に課せられた使命である筈だ。
冷房の効いた快適な部屋で冷蔵庫から取り出した良く冷えたビールを飲みながら、ボクはぶつぶつと、こんな愚にもつかない独り言を呟いているのである。
「暑過ぎる! ほざいていろや 馬鹿社長」



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【小田昭太郎】
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