Archive | 2018年06月
いつもながらの与太話。
中国の取材から帰ってきた若手のディレクターが「食べ物で何が一番好きですか」と聞く。
「ボクは出汁巻き卵が一番好きだ。
魚も好きだけど、どちらかと云うと肉の方が好きで、何と言ってもギトギト脂の牛肉がいいなあ」
「肉食はガンの原因になって良くないみたいですよ」
「でも、ガンは血統だろう。ボクの身内一族でこれまでガンに罹った者は一人もいないよ。
ほとんど脳卒中か心臓で亡くなっているなあ」
「ああそうですか」と彼は静かに言った。
彼は、現在、驚異的な経済発展を遂げ続けている中国を舞台に、その食を通して人の生きることの意味を問う番組の取材に当たっていた。
「今回の取材で分かったのは、人の健康にとって一番大切なのは、毎日を楽しく過ごす、ということでした」と彼は言った。
「それならボクは長生きできそうだな。毎日が楽しいからね」
「ああ、そうですか」と彼は再び諦めたように苦笑いした。
これだから年寄りと話すのは嫌なんだよね、まるで話がかみ合わないモノね、との彼の心のつぶやきが聞こえる。
彼はディレクターとして、とても優秀な素質を持っていて、将来、どこまで大成するかを密かに楽しみにしている人材のひとりである。
別の言い方をすれば、ボクは彼のファンのひとりであり、応援団でもある。
今回の取材でどのような番組を作ってくれるのかを心待ちにしているところだ。
わが社にとっては勿論の事、この業界にとっても貴重な人材である。
それはともかく、楽しく過ごす、ことはどうやら人にとっては元来、難しいことのようだ。
大学受験に失敗し、予備校に通っていた頃の話である。
当時、仲良くしていた予備校の友人に「何か面白いことはないかな」と何気なく話し掛けたことがあった。
その時の友人の返答と彼の顔を今でも鮮明に覚えている。
「本当にお前は阿呆だな。人生で面白いことなどある筈はないだろう」
彼は京都大学の哲学科に進み、ボクは凡庸の徒が集まる早稲田大学に行くことになったが、その後、彼がどのような人生を送っているのかは知らない。
知り合いのNHK科学番組系の論説委員が、小学生の息子から
「人間は死ぬことが決まっているのに、どうして生きているのか」
と真剣に問われて答えに窮した、との話を聞いたことがある。
その問いは論理的で全く反論の余地はない。
一週間後に巨大ハリケーンが襲来し、すべての家屋が跡形もなく破壊されることが分かっているのに、そこに新しい家を建て始めるのと同じ理屈である。
地球上のすべての生き物にはそれぞれ固有の遺伝子があり、それぞれの種の運命が定められている。
そして、その種の中に個体差はあったとしても、それは微々たるもので、人間で言えば、その寿命はどんなに永くても100余歳。
1000年も2000年も生き続ける人間はいない。
長生きだ、短命だなどと言っても、そういう意味では50歩100歩でしかない。
遺伝子の中に描かれた設計図に従うしかないのが生命体の宿命である。
時間とは実に不可思議な存在で、一秒も、10年も100年も過ぎてしまえば一瞬のこととなる。
「人生は一炊の夢」のたとえ話もあれば、「光陰矢の如し」のことわざもある。
「人間が死ぬことが分かっているのに、どうして生きているのか」
の問いに答えることはボクには到底出来ないが、その処世法についてならば考えることはできる。
ボクのまことに計り知れないほどに浅薄な考えでは、人はその問いに答えるべく神という絶対的存在を作ったと思っている。
そして、天国やあの世などと称する仮想世界を創り出した。
人間も植物もゴキブリなども、素をただせば原形は同じ遺伝子を有する同列の生命体なのに、人間だけを特別扱いして魂なる存在を創造し、その不滅を論じたりしている。
答えの出ない問いに答えることができないままに結局、人は宗教に救いを求めることになる。
これら一連の考えや行動も、つまるところは処世法のひとつなのだろう。
そう考えることで人が救われ、安寧な一生を終えることが出来るのならば、それも一法である。
しかし、在りもしない言わば虚構の世界を在ると思うことはボクには出来ないので、いくら優れた方便でも使えない。
しばしば、人は生きているのではなくて、生かされている、という言葉を耳にする。
では、生かしているのは何か。
それは大きくは自然の摂理であり、小さくは遺伝子である、とボクは思っている。
自分の意思だと思っているのも実は勘違いで、組み込まれた設計図に従っているにすぎないのではないか。
そして自然の摂理を神と称するならば神は存在する。
人生は不条理と矛盾に満ちた虚しいものであることは宿命であり、否定のしようもない。
だから、禅宗の一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」じゃないけれど、どこかで、その宿命を受容し、笑いに変容させる精神を持つしかないとボクには思える。
少なくとも、誤魔化しや詭弁よりも潔良く、現実的で健康だ。
ご多聞に漏れず、ボク自身もエゴの塊だから、客観的な論評などは無責任にはなるが、苦しいけれど宿命は宿命としてありのままに受け入れ、そこで思いっきり生きるしかない。
額に皺を寄せて煩悩と闘う人生よりも、どうせなら馬鹿みたいにアハハハと笑って生きる人生を選ぶ。
かの有名な俳人、正岡子規のように脊椎カリエスで耐え難い痛みと闘い続け、弱冠34歳の若さで亡くなっていった人もいる。
死の二日前まで書き続けたという連載随筆「病牀六尺」の書き出しはこうである。
「病床六尺、これがわが世界である。
しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐこともできな
い。
はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けないことがある……」
こういった苦難を強いられた人の前で、アハハハと楽しく過ごす、などと語ることはさすがに気は引けるが、それでも子規さんは、耐え難い病と闘いながらも「平気に生きる」ことを説いた。
人がどのような生き方を選ぼうと、それはその人の自由である。
こうする方が良いよ、などと言うことはお節介というものだ。
しかし、その自由も所詮、遺伝子に描かれた設計図の範囲をはみ出ることはできない。
心配性の人に心配しないようにね、と言っても意味はない。
すべては運命の定める通りに動いている。
宿命と言っても過言ではないとも思う。
それがモノの道理だと確信を持つようになった。
万人が万人、どんな人でも、口では言い表せられないようなさまざまな苦難や苦悩や悲しみを抱えて生きているのだが、それを苦と観るか、敢えて楽と観るか。
ボクは迷わず後者の生き方を選ぶ。
恐らくその選択もボクに組み込まれた設計図に従ったものだとの意識がある。
しかし、ひと口に「楽しく過ごす」と言っても、その中身は何なのか。
出来心の与太話のつもりが、ついつい長くなりそうだ。
「与太話 語るも聞くも 設計図」

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中国の取材から帰ってきた若手のディレクターが「食べ物で何が一番好きですか」と聞く。
「ボクは出汁巻き卵が一番好きだ。
魚も好きだけど、どちらかと云うと肉の方が好きで、何と言ってもギトギト脂の牛肉がいいなあ」
「肉食はガンの原因になって良くないみたいですよ」
「でも、ガンは血統だろう。ボクの身内一族でこれまでガンに罹った者は一人もいないよ。
ほとんど脳卒中か心臓で亡くなっているなあ」
「ああそうですか」と彼は静かに言った。
彼は、現在、驚異的な経済発展を遂げ続けている中国を舞台に、その食を通して人の生きることの意味を問う番組の取材に当たっていた。
「今回の取材で分かったのは、人の健康にとって一番大切なのは、毎日を楽しく過ごす、ということでした」と彼は言った。
「それならボクは長生きできそうだな。毎日が楽しいからね」
「ああ、そうですか」と彼は再び諦めたように苦笑いした。
これだから年寄りと話すのは嫌なんだよね、まるで話がかみ合わないモノね、との彼の心のつぶやきが聞こえる。
彼はディレクターとして、とても優秀な素質を持っていて、将来、どこまで大成するかを密かに楽しみにしている人材のひとりである。
別の言い方をすれば、ボクは彼のファンのひとりであり、応援団でもある。
今回の取材でどのような番組を作ってくれるのかを心待ちにしているところだ。
わが社にとっては勿論の事、この業界にとっても貴重な人材である。
それはともかく、楽しく過ごす、ことはどうやら人にとっては元来、難しいことのようだ。
大学受験に失敗し、予備校に通っていた頃の話である。
当時、仲良くしていた予備校の友人に「何か面白いことはないかな」と何気なく話し掛けたことがあった。
その時の友人の返答と彼の顔を今でも鮮明に覚えている。
「本当にお前は阿呆だな。人生で面白いことなどある筈はないだろう」
彼は京都大学の哲学科に進み、ボクは凡庸の徒が集まる早稲田大学に行くことになったが、その後、彼がどのような人生を送っているのかは知らない。
知り合いのNHK科学番組系の論説委員が、小学生の息子から
「人間は死ぬことが決まっているのに、どうして生きているのか」
と真剣に問われて答えに窮した、との話を聞いたことがある。
その問いは論理的で全く反論の余地はない。
一週間後に巨大ハリケーンが襲来し、すべての家屋が跡形もなく破壊されることが分かっているのに、そこに新しい家を建て始めるのと同じ理屈である。
地球上のすべての生き物にはそれぞれ固有の遺伝子があり、それぞれの種の運命が定められている。
そして、その種の中に個体差はあったとしても、それは微々たるもので、人間で言えば、その寿命はどんなに永くても100余歳。
1000年も2000年も生き続ける人間はいない。
長生きだ、短命だなどと言っても、そういう意味では50歩100歩でしかない。
遺伝子の中に描かれた設計図に従うしかないのが生命体の宿命である。
時間とは実に不可思議な存在で、一秒も、10年も100年も過ぎてしまえば一瞬のこととなる。
「人生は一炊の夢」のたとえ話もあれば、「光陰矢の如し」のことわざもある。
「人間が死ぬことが分かっているのに、どうして生きているのか」
の問いに答えることはボクには到底出来ないが、その処世法についてならば考えることはできる。
ボクのまことに計り知れないほどに浅薄な考えでは、人はその問いに答えるべく神という絶対的存在を作ったと思っている。
そして、天国やあの世などと称する仮想世界を創り出した。
人間も植物もゴキブリなども、素をただせば原形は同じ遺伝子を有する同列の生命体なのに、人間だけを特別扱いして魂なる存在を創造し、その不滅を論じたりしている。
答えの出ない問いに答えることができないままに結局、人は宗教に救いを求めることになる。
これら一連の考えや行動も、つまるところは処世法のひとつなのだろう。
そう考えることで人が救われ、安寧な一生を終えることが出来るのならば、それも一法である。
しかし、在りもしない言わば虚構の世界を在ると思うことはボクには出来ないので、いくら優れた方便でも使えない。
しばしば、人は生きているのではなくて、生かされている、という言葉を耳にする。
では、生かしているのは何か。
それは大きくは自然の摂理であり、小さくは遺伝子である、とボクは思っている。
自分の意思だと思っているのも実は勘違いで、組み込まれた設計図に従っているにすぎないのではないか。
そして自然の摂理を神と称するならば神は存在する。
人生は不条理と矛盾に満ちた虚しいものであることは宿命であり、否定のしようもない。
だから、禅宗の一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」じゃないけれど、どこかで、その宿命を受容し、笑いに変容させる精神を持つしかないとボクには思える。
少なくとも、誤魔化しや詭弁よりも潔良く、現実的で健康だ。
ご多聞に漏れず、ボク自身もエゴの塊だから、客観的な論評などは無責任にはなるが、苦しいけれど宿命は宿命としてありのままに受け入れ、そこで思いっきり生きるしかない。
額に皺を寄せて煩悩と闘う人生よりも、どうせなら馬鹿みたいにアハハハと笑って生きる人生を選ぶ。
かの有名な俳人、正岡子規のように脊椎カリエスで耐え難い痛みと闘い続け、弱冠34歳の若さで亡くなっていった人もいる。
死の二日前まで書き続けたという連載随筆「病牀六尺」の書き出しはこうである。
「病床六尺、これがわが世界である。
しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。
わずかに手を延ばして畳に触れることはあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐこともできな
い。
はなはだしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けないことがある……」
こういった苦難を強いられた人の前で、アハハハと楽しく過ごす、などと語ることはさすがに気は引けるが、それでも子規さんは、耐え難い病と闘いながらも「平気に生きる」ことを説いた。
人がどのような生き方を選ぼうと、それはその人の自由である。
こうする方が良いよ、などと言うことはお節介というものだ。
しかし、その自由も所詮、遺伝子に描かれた設計図の範囲をはみ出ることはできない。
心配性の人に心配しないようにね、と言っても意味はない。
すべては運命の定める通りに動いている。
宿命と言っても過言ではないとも思う。
それがモノの道理だと確信を持つようになった。
万人が万人、どんな人でも、口では言い表せられないようなさまざまな苦難や苦悩や悲しみを抱えて生きているのだが、それを苦と観るか、敢えて楽と観るか。
ボクは迷わず後者の生き方を選ぶ。
恐らくその選択もボクに組み込まれた設計図に従ったものだとの意識がある。
しかし、ひと口に「楽しく過ごす」と言っても、その中身は何なのか。
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