Archive | 2018年01月
会社の近くに、ちょっとした中華料理店がある。
かつてフジテレビの人気番組「料理の鉄人」で初代和の鉄人、道場六三郎との戦いでも話題になった通称・炎の料理人、周富徳さんが総料理長をしていたお店である。
適度の高級感が漂っているが、庶民的な感じでボクなどの貧乏人でも気軽に出入りできるので、会社の行事やお客さんの接待などでしばしば使わせて頂いている。
プライベートでも月に一度か二度ほどの割合で昼休みのランチを食べに行く。
一品何万円もする単品料理もあるようだが、そういう高級料理はボクなどには縁は無く、もっぱら一番安い日替わりランチを注文する。
とは言っても一人2000円だから普通の定食よりは少し値が張る。
でも、仕事が丁寧で、料理には心がこもっているのが分かり、美味しいし、ボリュームもそれなりにあるのが嬉しい。
特に、デザートの杏仁豆腐は絶品だ。
今では、ボクと同年配のお店の支配人ともすっかり親しくなり、世間話をするような仲にもなっている。
いつの頃からか、食後には、定食のコースには含まれていないコーヒーが決まって出るようになった。
その支配人が居ない時でもコーヒーを出してくれるので、お店としてのボクへの決められた対応らしい。
大した上客でもないのに、と申し訳なく思いながらも、有難くそのサービスに甘えている。
お店の仕組みについては全く分からないが、もうひとり副支配人がいる。
どうやら支配人と交代での勤務らしく、副支配人が居る時は支配人の姿は見えない。
この副支配人は、中国のお茶に精通していて、彼の話によると、かれこれ20年ほど中国茶道を研究しているとのことである。
ボクたちが行くと、茶器のセットをテーブルに持って来てお茶を用意してくれる。
中国茶にも色々と種類があり、どこの地方でいつ採れたお茶か、その品質や特徴などを事細かに説明しながら、作法に従い、気長にお茶を入れてくれる。
一服の茶をおちょこほどの小さな茶碗で一番茶から四番茶まで十二分に堪能する。
そして、それぞれの味や香りの変化の楽しみ方を教えてくれる。
時には、二種類のお茶の飲み比べもさせてくれる。
ボクたちは感心しながらお茶を楽しませて頂くのだが、結構お茶でお腹が膨らむ。
これもサービスで、これまで、他の人たちでこのサービスを受けている客をボクはまだ見たことはないが、何人かの人たちがいるのだろう。
とにかく親切にしてくれて、大事にしてくれるその理由が未だに分からないままでいる。
先日、年が明けて初めてランチに行った時の話である。
数品の飲茶料理が出てくるのだが、その中に香味野菜で煮た3匹の小魚が行儀よく並んでいる一品があった。
「これは、シシャモなの?」と妻は小魚を噛みながらボクに聞いた。
「ワカサギだよ。シシャモは海の魚だけど、これは淡水魚だよ。それにシシャモはもっと大きいよ」
「シシャモと味が似てるわよ。美味しいね」
「はい、これはワカサギです」とまだ疑わしそうな顔の妻に、傍で聞いていた支配人がフォローしてくれた。
食事を終えてコーヒーを飲む頃になって、妻が楊枝を使って何やら悪戦苦闘している。
「ワカサギの小骨が歯茎に刺さったみたい。あなたは大丈夫?」
骨があるかどうかなど気付かないほどに小さな魚だった。
そう云えば、ウナギの小骨や豚足の毛などで、何度か同じような体験をしている。
余りにも細くていつも往生する。
子供の頃は、しばしばイワシなどの小骨が喉に刺さって大騒ぎしたものだ。
チクチクと喉の粘膜を刺す不快な記憶を思い出す。
「あっ!骨が刺さったみたいや。チクチクと痛いわ」
「それはえらい事やな。そしたら、ごはんを噛まんと鵜呑みしなはれ」と母は事もなげに言う。
ボクは少し多めのごはんを噛まずに無理やり喉に押し込む。
「どうや、取れたか?」
ボクは唾を呑みこんで確かめる。
「あかんわ。まだチクチクしてるわ」
「そしたら、もう一回鵜呑みしなはれ。どうや?とれたか?」
「まだ、あかんわ」
もう一回、もう一回と試しているうちに、瞬く間に茶碗一杯のごはんが空になってしまう。
「なんぼやってもあかんわ。もうお腹いっぱいや。どうしょう」というボクに
「しようがないなあ。そうやなあ、こうなったら、忘れるしかないなあ。それが一番やで」
と母は笑いながら言ったものだ。
妻はと見ると、懸命に小骨相手に格闘している。
「どうしても、取れないわ。どうしよう」と妻。
「そうやなあ。忘れるしかないなあ。それが一番やで」
ボクは母の顔を思い浮かべながら言った。
小魚と見て俺を侮るんじゃねぇよ、との5センチにも満たない、か弱きワカサギのささやかな復讐だったのかもしれなかった。
「妻を見て 母懐かしむ 小骨かな」

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かつてフジテレビの人気番組「料理の鉄人」で初代和の鉄人、道場六三郎との戦いでも話題になった通称・炎の料理人、周富徳さんが総料理長をしていたお店である。
適度の高級感が漂っているが、庶民的な感じでボクなどの貧乏人でも気軽に出入りできるので、会社の行事やお客さんの接待などでしばしば使わせて頂いている。
プライベートでも月に一度か二度ほどの割合で昼休みのランチを食べに行く。
一品何万円もする単品料理もあるようだが、そういう高級料理はボクなどには縁は無く、もっぱら一番安い日替わりランチを注文する。
とは言っても一人2000円だから普通の定食よりは少し値が張る。
でも、仕事が丁寧で、料理には心がこもっているのが分かり、美味しいし、ボリュームもそれなりにあるのが嬉しい。
特に、デザートの杏仁豆腐は絶品だ。
今では、ボクと同年配のお店の支配人ともすっかり親しくなり、世間話をするような仲にもなっている。
いつの頃からか、食後には、定食のコースには含まれていないコーヒーが決まって出るようになった。
その支配人が居ない時でもコーヒーを出してくれるので、お店としてのボクへの決められた対応らしい。
大した上客でもないのに、と申し訳なく思いながらも、有難くそのサービスに甘えている。
お店の仕組みについては全く分からないが、もうひとり副支配人がいる。
どうやら支配人と交代での勤務らしく、副支配人が居る時は支配人の姿は見えない。
この副支配人は、中国のお茶に精通していて、彼の話によると、かれこれ20年ほど中国茶道を研究しているとのことである。
ボクたちが行くと、茶器のセットをテーブルに持って来てお茶を用意してくれる。
中国茶にも色々と種類があり、どこの地方でいつ採れたお茶か、その品質や特徴などを事細かに説明しながら、作法に従い、気長にお茶を入れてくれる。
一服の茶をおちょこほどの小さな茶碗で一番茶から四番茶まで十二分に堪能する。
そして、それぞれの味や香りの変化の楽しみ方を教えてくれる。
時には、二種類のお茶の飲み比べもさせてくれる。
ボクたちは感心しながらお茶を楽しませて頂くのだが、結構お茶でお腹が膨らむ。
これもサービスで、これまで、他の人たちでこのサービスを受けている客をボクはまだ見たことはないが、何人かの人たちがいるのだろう。
とにかく親切にしてくれて、大事にしてくれるその理由が未だに分からないままでいる。
先日、年が明けて初めてランチに行った時の話である。
数品の飲茶料理が出てくるのだが、その中に香味野菜で煮た3匹の小魚が行儀よく並んでいる一品があった。
「これは、シシャモなの?」と妻は小魚を噛みながらボクに聞いた。
「ワカサギだよ。シシャモは海の魚だけど、これは淡水魚だよ。それにシシャモはもっと大きいよ」
「シシャモと味が似てるわよ。美味しいね」
「はい、これはワカサギです」とまだ疑わしそうな顔の妻に、傍で聞いていた支配人がフォローしてくれた。
食事を終えてコーヒーを飲む頃になって、妻が楊枝を使って何やら悪戦苦闘している。
「ワカサギの小骨が歯茎に刺さったみたい。あなたは大丈夫?」
骨があるかどうかなど気付かないほどに小さな魚だった。
そう云えば、ウナギの小骨や豚足の毛などで、何度か同じような体験をしている。
余りにも細くていつも往生する。
子供の頃は、しばしばイワシなどの小骨が喉に刺さって大騒ぎしたものだ。
チクチクと喉の粘膜を刺す不快な記憶を思い出す。
「あっ!骨が刺さったみたいや。チクチクと痛いわ」
「それはえらい事やな。そしたら、ごはんを噛まんと鵜呑みしなはれ」と母は事もなげに言う。
ボクは少し多めのごはんを噛まずに無理やり喉に押し込む。
「どうや、取れたか?」
ボクは唾を呑みこんで確かめる。
「あかんわ。まだチクチクしてるわ」
「そしたら、もう一回鵜呑みしなはれ。どうや?とれたか?」
「まだ、あかんわ」
もう一回、もう一回と試しているうちに、瞬く間に茶碗一杯のごはんが空になってしまう。
「なんぼやってもあかんわ。もうお腹いっぱいや。どうしょう」というボクに
「しようがないなあ。そうやなあ、こうなったら、忘れるしかないなあ。それが一番やで」
と母は笑いながら言ったものだ。
妻はと見ると、懸命に小骨相手に格闘している。
「どうしても、取れないわ。どうしよう」と妻。
「そうやなあ。忘れるしかないなあ。それが一番やで」
ボクは母の顔を思い浮かべながら言った。
小魚と見て俺を侮るんじゃねぇよ、との5センチにも満たない、か弱きワカサギのささやかな復讐だったのかもしれなかった。
「妻を見て 母懐かしむ 小骨かな」



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自分が年寄だとの自覚を持ったのはいつのことか、フト考えた。
思い起こすと、37歳のまだまだ働き盛りの頃に、何となくではあったが、人生の曲がり角のような感覚を持ち、自分を見つめ直そうと、当時勤めていたテレビ局に無理を言って一ヶ月の休暇をとり、断食道場に入ったことがある。
道場とは言っても、一部屋とフトンだけ与えられて一ヶ月の断食をするだけで特別なことは何も無い。
その間は、水の他に口に入れるものは皆無だし、特別にやることもなく時間を費やすだけである。
部屋に鍵がある訳でもなく、屏がある訳でもない。
どこへ行こうが、何をしようが出入りは自由だが、水の他のものを口にしてはいけないだけである。
食欲の抑制もそれほどの苦痛では無かったし、体力や気力も極端には落ち込むことも無かった。
ただ、仕事も食事も無いので、一日の区切りも無く、自由な時間だけが横たわっていた。
その有り余る時間とどう向き合うのかが最大のテーマとなる。
本来は生きるために必要なエネルギー源が遮断されているので、脳も身体も異常事態を察知していたのだろうか、脳はボクに、生きるとは何か、を考えろとの指令を出すことになる。
そして生きることの意味を求める中で出会ったのが仏教の経典「般若心経」だった。
そんな諸々の体験がいったい自分にとってどんな効果をもたらしたのかは分からないが、一ヶ月近く食事をしなくても水だけで平気で生きられるし、体重にしてもわずか数キロほどしか落ちないことだけは分かった。
そして、今から思うと、それがボクの老いへの最初の自覚だったのだろうと思い当たる。
50歳の頃に始めた禁煙も同様のケースだった。
本来は体験したくない老いることに楽しみを求めるために、65歳という年齢に目標を定め、それまでの期間、大好きなタバコを止めることにした。
老いることは嫌だが、老いて65歳になれば好きなタバコが吸えるぞ、との楽しみを作ったのだった。
遥か遠い先の未来だと思っていた65歳だったが、瞬く間にその期限は来た。
そして、15~6年の禁煙後、望み通りに再び喫煙の喜びを取り戻したのだった。
どうして苦労して止めたタバコをまた吸うのかと、しばしば問われるのだが、もともと再び吸う喜びのために始めた禁煙だったのだ。
しかし、なかなかこれを理解してくれる人はいない。
改めて振り返れば、断食をした37歳の頃も、禁煙を始めた50歳の頃も、そして再びタバコを始めた65歳の頃も、老いについて真剣に考えたり、自覚していたかと問われれば疑問は残る。
実際には、ずっと自分のことを若造だと思い続けていた。
そんな若造感覚はつい昨日まであったことに気付く。
誠に恥ずかしいことだ。
恥ずかしいだけで済めばまだ良いが、実は危ないことだ。
もっとも、肉体的には、色々と自覚はある。
70歳の頃の健康診断で右耳の聴覚の高い音が聞き取れなくなった。
そして昨年、右耳に続き左耳も同様の診断結果となった。
日常生活では全く支障はないが、正確な音が聞き取れなくなっている訳だ。
凹凸のない道を歩いていて躓いたりもする。
食事の量も次第に減ってきた。
大病はしたことはないが、人並みに、白内障の手術も受けたし、糖尿や高血圧の薬のご厄介にはなっている。
そして今年は後期高齢者の仲間入りをする。
否も応も無く、いよいよ本物の年寄の筈だ。
こういうのは年齢を含め、現象として表に現れるので分かり易い。
しかし、内なる年寄の自覚は下手をすると意識することは難しい。
自分は若いつもりでいて、周囲との感覚のギャップに気付かなくなっているとしたら、それが恐い。
ボク自身はこれまで、年長の方々との付き合いが多かったので、老齢に伴う不都合や具合の悪さを直に眼にして来て知っている。
それが、いま、自分の身の事として迫ってきている。
老いの怖さと危なさに直面しようとしている。
一方で、まだまだ俺の頭は柔らかい、大丈夫だよ、との自信は正直ある。
これまでの日常での大きな判断ミスやミスリードを犯してはいないことは確かだ。
まだ行けるとの確信もある。
しかし、そういう過ちを犯す時期は徐々にではなく、突如として襲って来るのに違いないとの予感もまた同時にある。
世間で言われる老害への懸念である。
幸いなことに、自覚とは別次元で、まだスタッフの中に苦笑いや意味ありげな目配せなどの現象は見られない。
会社内の風通しも良く、スタッフたちはそれなりに言いたいことを言っている。
組織が動脈硬化を起こしていないことは確かだ。
オルタスジャパンはかつてボクが興した会社だが、今や、スタッフみんなの会社である。
それだけに、リーダーであるボクのマイナスエネルギーが少しでも組織に作用するようなことがあってはならない、との自戒の念は強い。
自分では正しいと思って過ちを犯すのが老害の正体だ。
そのための安全弁を二重三重には張ってはいるが用心に越したことはない。
理屈の上では一年に1歳づつ歳を重ねていくのが年齢だが、自分が気が付かぬうちにこっそりと忍び寄るのも年齢の不思議だからだ。
「年齢じゃ 計りきれずに カラ元気」

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思い起こすと、37歳のまだまだ働き盛りの頃に、何となくではあったが、人生の曲がり角のような感覚を持ち、自分を見つめ直そうと、当時勤めていたテレビ局に無理を言って一ヶ月の休暇をとり、断食道場に入ったことがある。
道場とは言っても、一部屋とフトンだけ与えられて一ヶ月の断食をするだけで特別なことは何も無い。
その間は、水の他に口に入れるものは皆無だし、特別にやることもなく時間を費やすだけである。
部屋に鍵がある訳でもなく、屏がある訳でもない。
どこへ行こうが、何をしようが出入りは自由だが、水の他のものを口にしてはいけないだけである。
食欲の抑制もそれほどの苦痛では無かったし、体力や気力も極端には落ち込むことも無かった。
ただ、仕事も食事も無いので、一日の区切りも無く、自由な時間だけが横たわっていた。
その有り余る時間とどう向き合うのかが最大のテーマとなる。
本来は生きるために必要なエネルギー源が遮断されているので、脳も身体も異常事態を察知していたのだろうか、脳はボクに、生きるとは何か、を考えろとの指令を出すことになる。
そして生きることの意味を求める中で出会ったのが仏教の経典「般若心経」だった。
そんな諸々の体験がいったい自分にとってどんな効果をもたらしたのかは分からないが、一ヶ月近く食事をしなくても水だけで平気で生きられるし、体重にしてもわずか数キロほどしか落ちないことだけは分かった。
そして、今から思うと、それがボクの老いへの最初の自覚だったのだろうと思い当たる。
50歳の頃に始めた禁煙も同様のケースだった。
本来は体験したくない老いることに楽しみを求めるために、65歳という年齢に目標を定め、それまでの期間、大好きなタバコを止めることにした。
老いることは嫌だが、老いて65歳になれば好きなタバコが吸えるぞ、との楽しみを作ったのだった。
遥か遠い先の未来だと思っていた65歳だったが、瞬く間にその期限は来た。
そして、15~6年の禁煙後、望み通りに再び喫煙の喜びを取り戻したのだった。
どうして苦労して止めたタバコをまた吸うのかと、しばしば問われるのだが、もともと再び吸う喜びのために始めた禁煙だったのだ。
しかし、なかなかこれを理解してくれる人はいない。
改めて振り返れば、断食をした37歳の頃も、禁煙を始めた50歳の頃も、そして再びタバコを始めた65歳の頃も、老いについて真剣に考えたり、自覚していたかと問われれば疑問は残る。
実際には、ずっと自分のことを若造だと思い続けていた。
そんな若造感覚はつい昨日まであったことに気付く。
誠に恥ずかしいことだ。
恥ずかしいだけで済めばまだ良いが、実は危ないことだ。
もっとも、肉体的には、色々と自覚はある。
70歳の頃の健康診断で右耳の聴覚の高い音が聞き取れなくなった。
そして昨年、右耳に続き左耳も同様の診断結果となった。
日常生活では全く支障はないが、正確な音が聞き取れなくなっている訳だ。
凹凸のない道を歩いていて躓いたりもする。
食事の量も次第に減ってきた。
大病はしたことはないが、人並みに、白内障の手術も受けたし、糖尿や高血圧の薬のご厄介にはなっている。
そして今年は後期高齢者の仲間入りをする。
否も応も無く、いよいよ本物の年寄の筈だ。
こういうのは年齢を含め、現象として表に現れるので分かり易い。
しかし、内なる年寄の自覚は下手をすると意識することは難しい。
自分は若いつもりでいて、周囲との感覚のギャップに気付かなくなっているとしたら、それが恐い。
ボク自身はこれまで、年長の方々との付き合いが多かったので、老齢に伴う不都合や具合の悪さを直に眼にして来て知っている。
それが、いま、自分の身の事として迫ってきている。
老いの怖さと危なさに直面しようとしている。
一方で、まだまだ俺の頭は柔らかい、大丈夫だよ、との自信は正直ある。
これまでの日常での大きな判断ミスやミスリードを犯してはいないことは確かだ。
まだ行けるとの確信もある。
しかし、そういう過ちを犯す時期は徐々にではなく、突如として襲って来るのに違いないとの予感もまた同時にある。
世間で言われる老害への懸念である。
幸いなことに、自覚とは別次元で、まだスタッフの中に苦笑いや意味ありげな目配せなどの現象は見られない。
会社内の風通しも良く、スタッフたちはそれなりに言いたいことを言っている。
組織が動脈硬化を起こしていないことは確かだ。
オルタスジャパンはかつてボクが興した会社だが、今や、スタッフみんなの会社である。
それだけに、リーダーであるボクのマイナスエネルギーが少しでも組織に作用するようなことがあってはならない、との自戒の念は強い。
自分では正しいと思って過ちを犯すのが老害の正体だ。
そのための安全弁を二重三重には張ってはいるが用心に越したことはない。
理屈の上では一年に1歳づつ歳を重ねていくのが年齢だが、自分が気が付かぬうちにこっそりと忍び寄るのも年齢の不思議だからだ。
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今年も無事に年が明けた。
5日には会社のスタッフと近くの日枝神社に初詣でに出かけ、大枚を納めて祈祷を受けた。
授与されたお札と破魔矢は早速、会社の神棚に祀った。
神棚と言っても正確には神棚ではない。
比叡山の親しくしていた尼僧にお願いして祀ってもらったものだから、天台宗の仏壇である。
しかし、その尼僧のおっしゃるには、神仏混交で神棚でも仏壇でも、そんなことは構うことは無い、比叡山も日枝神社もヒエで繋がっている、とのことで、密教天台宗の護摩を焚いて授与されたお札と日枝神社の祈祷を受けたお札と並べて祀っている。
何とも摩訶不思議、豪勢な神棚なのである。
破魔矢は神棚の神社の屋根に斜めに立てかけている。
以前、見た目の収まりが良いので、破魔矢の羽根の付いている方を上にしていたのだが、羽根の部分は下にして矢じりの方を上に向けなければ、運勢が下がる、とアドバイスしてくれる方が居て、それ以来、その助言に従って飾ることにした。
矢が進んでいく方向が下を向いているのは縁起が良くない、と言われてみれば、ナルホドなあ、と思えた。
事業繁栄祈願を書き入れて貰ったお札を供え、破魔矢の矢じりは上の方向に向けてはみたものの、サテ、今年のオルタスの運命は如何なるものになるのだろうか。
3月7日で会社設立30周年を迎える。
今年は平成30年なので、ボクたちは平成の世と共にその歩を進めて来たことになる。
あっ、と言う間の一瞬の出来事だったようにも思えるのだが、考えてみれば人生の最も脂の乗り切った面白味の理解できる40代からの貴重な時間だったとの実感もある。
人生は短いとの思いが重なる。
来年は平成天皇が退位して、年号が改まる。
ボクは天皇制には反対の考えを持つが、ボクたちの会社も、30周年という、この機会をキッカケとして再出発の気概に燃えている。
世の中は否応なく著しい変化を遂げている。
政治の世界も、経済も、それに伴う世界全体の社会の形も大きく変化している。
ハードもソフトも驚くばかりの変わりようで、うっかりすれば、置いてけぼりを喰らってしまう世の進み様である。
その中でボクたちはどう生き抜いていくのかが、これからの大きな課題だ。
かつて企業30年寿命説が存在し、それ以上の生き残りの難しさが語られたこともあった。
確かに、後継ぎのことも含めて、30年という時間はひとつの節目である。
ある意味、新たな命の吹き込みが欠かせない。
これからも、ドキュメンタリーというジャンルを主軸としてモノ作りに生きることは変わることはないし、高みから世の中を見るのではなくて、地べたから人びとの暮らしや世の在り方を観る視線は持ち続けなければならないとは思う。
しかし、「いま」「なぜ」という視点は常に必要である。
そのジャンルや手法はどうであれ、ボクたちが広い意味でのジャーナリストであり、表現者である限り、時代を切り取ることがその使命であり、時代に取り残されてはならないのである。
その視点さえしっかりと持っていれば、どんな時代が到来しようと、世の中がどんなに変化しようと恐れることはない。
伝統や信念を失ってはならないが、時代遅れにだけはなってはならないのだ。
ボク個人としてはテレビと共に生き、テレビと共に死ぬ、との考えを抱いてこれまで来たが、これからはもう少し大きな世界が広がって行くのだろう。
あと何年オルタスジャパンという制作の場を見ていることが出来るのかは分からないが、次に続く若い人たちの繰り広げる世界がとても楽しみである。
30周年を迎える今年を、その新しい世界への第一歩を踏み出す年にしたいものだと願っている。
「神さまも 仏も知らぬ 明日かな」

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5日には会社のスタッフと近くの日枝神社に初詣でに出かけ、大枚を納めて祈祷を受けた。
授与されたお札と破魔矢は早速、会社の神棚に祀った。
神棚と言っても正確には神棚ではない。
比叡山の親しくしていた尼僧にお願いして祀ってもらったものだから、天台宗の仏壇である。
しかし、その尼僧のおっしゃるには、神仏混交で神棚でも仏壇でも、そんなことは構うことは無い、比叡山も日枝神社もヒエで繋がっている、とのことで、密教天台宗の護摩を焚いて授与されたお札と日枝神社の祈祷を受けたお札と並べて祀っている。
何とも摩訶不思議、豪勢な神棚なのである。
破魔矢は神棚の神社の屋根に斜めに立てかけている。
以前、見た目の収まりが良いので、破魔矢の羽根の付いている方を上にしていたのだが、羽根の部分は下にして矢じりの方を上に向けなければ、運勢が下がる、とアドバイスしてくれる方が居て、それ以来、その助言に従って飾ることにした。
矢が進んでいく方向が下を向いているのは縁起が良くない、と言われてみれば、ナルホドなあ、と思えた。
事業繁栄祈願を書き入れて貰ったお札を供え、破魔矢の矢じりは上の方向に向けてはみたものの、サテ、今年のオルタスの運命は如何なるものになるのだろうか。
3月7日で会社設立30周年を迎える。
今年は平成30年なので、ボクたちは平成の世と共にその歩を進めて来たことになる。
あっ、と言う間の一瞬の出来事だったようにも思えるのだが、考えてみれば人生の最も脂の乗り切った面白味の理解できる40代からの貴重な時間だったとの実感もある。
人生は短いとの思いが重なる。
来年は平成天皇が退位して、年号が改まる。
ボクは天皇制には反対の考えを持つが、ボクたちの会社も、30周年という、この機会をキッカケとして再出発の気概に燃えている。
世の中は否応なく著しい変化を遂げている。
政治の世界も、経済も、それに伴う世界全体の社会の形も大きく変化している。
ハードもソフトも驚くばかりの変わりようで、うっかりすれば、置いてけぼりを喰らってしまう世の進み様である。
その中でボクたちはどう生き抜いていくのかが、これからの大きな課題だ。
かつて企業30年寿命説が存在し、それ以上の生き残りの難しさが語られたこともあった。
確かに、後継ぎのことも含めて、30年という時間はひとつの節目である。
ある意味、新たな命の吹き込みが欠かせない。
これからも、ドキュメンタリーというジャンルを主軸としてモノ作りに生きることは変わることはないし、高みから世の中を見るのではなくて、地べたから人びとの暮らしや世の在り方を観る視線は持ち続けなければならないとは思う。
しかし、「いま」「なぜ」という視点は常に必要である。
そのジャンルや手法はどうであれ、ボクたちが広い意味でのジャーナリストであり、表現者である限り、時代を切り取ることがその使命であり、時代に取り残されてはならないのである。
その視点さえしっかりと持っていれば、どんな時代が到来しようと、世の中がどんなに変化しようと恐れることはない。
伝統や信念を失ってはならないが、時代遅れにだけはなってはならないのだ。
ボク個人としてはテレビと共に生き、テレビと共に死ぬ、との考えを抱いてこれまで来たが、これからはもう少し大きな世界が広がって行くのだろう。
あと何年オルタスジャパンという制作の場を見ていることが出来るのかは分からないが、次に続く若い人たちの繰り広げる世界がとても楽しみである。
30周年を迎える今年を、その新しい世界への第一歩を踏み出す年にしたいものだと願っている。
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