Archive | 2017年12月
株主総会も無事に終え、会社恒例の忘年会も賑やかに楽しみ、年賀状書きもあと少しを残して28日仕事納めの日を迎えた。
一年の中でも12月の、時間の過ぎる速さは特別に群を抜いている。
昔からこの月が師走と言われていることを今さらながら実感する。
会社の一年の収支は、お蔭さまで僅かながらも法人税を納めることができた。
その意味では、まずまずの一年だった。
ただ敬愛する作家で脚本家の早坂暁さんの突然の死は、悲しいと言うには辛い出来事だった。
百数十人集まっていただいた会社の忘年会の冒頭の乾杯の挨拶で、わが社の専務取締役の吉岡攻が
「本来ならば、毎年ここに来られている筈の早坂暁さんの姿を見ることができないのは寂しい」
と語り哀悼の辞を述べたが、乾杯とも献杯ともつかない杯を皆で交わした。
この忘年会の翌日に早坂さんのお通夜があり、その翌日に告別式が行われ、妻と参列した。
すでに生前葬を済ませておられたので、告別式はごく少人数で行われた。
早坂さんが納められた棺を取り巻く十数人の中に控えめで、目立たないように配慮している小柄で美しい女性がいた。
妻は小声でボクに「吉永小百合さんね」とささやいた。
人前で涙を流す姿を見られるのは潔しとはしないのだが、これまでのことが色々と思い出され、どうしても溢れる涙を我慢することは出来なかった。
父親の葬儀でも流さなかった涙だった。
ボクも歳をとったのだろうか。
先生のひとつのお骨を白い箸で妻と挟んで骨壺に納めた。
「これが喉仏です」と火葬場の職員は慣れたしゃべり方で説明した。
何度となく見てきた喉仏のお骨だが、本当に人が両手を合わせて合掌しているように見える。
それまで顔かたちがあった存在が、小一時間でお骨だけになってしまう衝撃は何度体験しても慣れるということはない。
「人が怒ったり、争ったりすることが虚しいことに思えるわね」と妻は言った。
「長生きしてね」
斎場を後にしたボクたちは、早坂さんが倒れて息を引き取られたという場所に向かった。
亡くなられた当日、すき焼きを食べたい、と先生夫妻が向かわれたお店は、斎場からほど近いオペラシティーの地下にあった。
警察署の現場検証の防犯カメラに映っていた写真にならって、先生たちが歩いたであろう道を通り、写真にあったエスカレーターに乗った。
下りると広場があり、そこに雪をイメージした10メートルほどの大きなクリスマスツリーがあった。
ああ、この日はちょうどクリスマスイブだった。
写真の中で先生が両手を腰に回し、何かを仰ぎ見ていたのはこのクリスマスツリーだったのか。
その直後に先生は倒れそのまま帰らぬ人となられた。
その先に、先生が食べたいと思っていたすき焼きのお店があり、ショーウインドウにそのすき焼きが置かれていた。
先生のささやかな望みは果たせなかった、食べさせてあげたかったと思った。
そう云えば、もう1ヶ月ほど前になるが会社に訪ねて来られ、帰り際に「来週、お好きな中華を食べましょう」と約束したのだったが、それを果たせなかったのが悔やまれる。
それに、先生から多くの宿題も預ったままになっている。
余りにも沢山あるのだが、中でも夏目漱石の小説「門」に登場する公案「父母未生以前本来の面目を問う」を映像化しようという難題ある。
浅薄に云えば、お前の父や母がまだ生まれる以前のお前はいったい何者だったのか、という意味になろうか。
画家のゴーギャンは、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という画を描いているが、恐らく同じ意味で、それをドキュメンタリーにしよう、というのである。
ボクたちは、それを日本人論として捉え、真剣に取り組んでそれなりの企画書を作ったが、未だにテレビ局に採択されていない。
禅宗の公案の映像化は余程の知恵を必要とする。
永遠のテーマになりそうだ。
先生がお元気な間に、もっと先生から知恵を盗んでおけば良かった、と悔やむばかりである。
しかし、少なくとも、ボクがこの世から消え去るまで、早坂暁さんは生き続けることになる。
ボクのような人たちが大勢いらっしゃるだろうから、多くの人たちの中で先生は生き続けるに違いない。
そんなこんなで、刻一刻と時間が過ぎ去っていく。
そして、あっという間の1年となった。
ボクを含めて、日常生活に流される時間の中で自らの死を実感することは難しい。
ずっと生き続けることなどできないことは頭では分かってはいても、現実感を持つことができない。
また、そうでなければ人は到底生きては行けないのだろうが、それ故の愚かさも同時に手放すことが出来ないでいる。
人とは実に情けない生き物だ。
さて、また来年も同じように、平凡で馬鹿な人生の一コマを生きることにしよう。
今年は正月休みがちょっと長いので、ブログもその間休ませていただく。
それではみなさんも良いお年をお迎え下さいますように。
「どう生きる 年が明けたら 七変化」

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一年の中でも12月の、時間の過ぎる速さは特別に群を抜いている。
昔からこの月が師走と言われていることを今さらながら実感する。
会社の一年の収支は、お蔭さまで僅かながらも法人税を納めることができた。
その意味では、まずまずの一年だった。
ただ敬愛する作家で脚本家の早坂暁さんの突然の死は、悲しいと言うには辛い出来事だった。
百数十人集まっていただいた会社の忘年会の冒頭の乾杯の挨拶で、わが社の専務取締役の吉岡攻が
「本来ならば、毎年ここに来られている筈の早坂暁さんの姿を見ることができないのは寂しい」
と語り哀悼の辞を述べたが、乾杯とも献杯ともつかない杯を皆で交わした。
この忘年会の翌日に早坂さんのお通夜があり、その翌日に告別式が行われ、妻と参列した。
すでに生前葬を済ませておられたので、告別式はごく少人数で行われた。
早坂さんが納められた棺を取り巻く十数人の中に控えめで、目立たないように配慮している小柄で美しい女性がいた。
妻は小声でボクに「吉永小百合さんね」とささやいた。
人前で涙を流す姿を見られるのは潔しとはしないのだが、これまでのことが色々と思い出され、どうしても溢れる涙を我慢することは出来なかった。
父親の葬儀でも流さなかった涙だった。
ボクも歳をとったのだろうか。
先生のひとつのお骨を白い箸で妻と挟んで骨壺に納めた。
「これが喉仏です」と火葬場の職員は慣れたしゃべり方で説明した。
何度となく見てきた喉仏のお骨だが、本当に人が両手を合わせて合掌しているように見える。
それまで顔かたちがあった存在が、小一時間でお骨だけになってしまう衝撃は何度体験しても慣れるということはない。
「人が怒ったり、争ったりすることが虚しいことに思えるわね」と妻は言った。
「長生きしてね」
斎場を後にしたボクたちは、早坂さんが倒れて息を引き取られたという場所に向かった。
亡くなられた当日、すき焼きを食べたい、と先生夫妻が向かわれたお店は、斎場からほど近いオペラシティーの地下にあった。
警察署の現場検証の防犯カメラに映っていた写真にならって、先生たちが歩いたであろう道を通り、写真にあったエスカレーターに乗った。
下りると広場があり、そこに雪をイメージした10メートルほどの大きなクリスマスツリーがあった。
ああ、この日はちょうどクリスマスイブだった。
写真の中で先生が両手を腰に回し、何かを仰ぎ見ていたのはこのクリスマスツリーだったのか。
その直後に先生は倒れそのまま帰らぬ人となられた。
その先に、先生が食べたいと思っていたすき焼きのお店があり、ショーウインドウにそのすき焼きが置かれていた。
先生のささやかな望みは果たせなかった、食べさせてあげたかったと思った。
そう云えば、もう1ヶ月ほど前になるが会社に訪ねて来られ、帰り際に「来週、お好きな中華を食べましょう」と約束したのだったが、それを果たせなかったのが悔やまれる。
それに、先生から多くの宿題も預ったままになっている。
余りにも沢山あるのだが、中でも夏目漱石の小説「門」に登場する公案「父母未生以前本来の面目を問う」を映像化しようという難題ある。
浅薄に云えば、お前の父や母がまだ生まれる以前のお前はいったい何者だったのか、という意味になろうか。
画家のゴーギャンは、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」という画を描いているが、恐らく同じ意味で、それをドキュメンタリーにしよう、というのである。
ボクたちは、それを日本人論として捉え、真剣に取り組んでそれなりの企画書を作ったが、未だにテレビ局に採択されていない。
禅宗の公案の映像化は余程の知恵を必要とする。
永遠のテーマになりそうだ。
先生がお元気な間に、もっと先生から知恵を盗んでおけば良かった、と悔やむばかりである。
しかし、少なくとも、ボクがこの世から消え去るまで、早坂暁さんは生き続けることになる。
ボクのような人たちが大勢いらっしゃるだろうから、多くの人たちの中で先生は生き続けるに違いない。
そんなこんなで、刻一刻と時間が過ぎ去っていく。
そして、あっという間の1年となった。
ボクを含めて、日常生活に流される時間の中で自らの死を実感することは難しい。
ずっと生き続けることなどできないことは頭では分かってはいても、現実感を持つことができない。
また、そうでなければ人は到底生きては行けないのだろうが、それ故の愚かさも同時に手放すことが出来ないでいる。
人とは実に情けない生き物だ。
さて、また来年も同じように、平凡で馬鹿な人生の一コマを生きることにしよう。
今年は正月休みがちょっと長いので、ブログもその間休ませていただく。
それではみなさんも良いお年をお迎え下さいますように。
「どう生きる 年が明けたら 七変化」



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年の瀬もいよいよ押し詰まり何かと慌ただしくなってきたが、毎年この時期になるとボクを待ち構えている仕事がある。
とても楽しいのだが、ちょっとした労力と時間を必要とする作業である。
それは年賀状書きだ。
例年800通ほど書く。
この時代に年賀状などの虚礼はやめた方が良いですよ、と以前に忠告してくれた親切な方もいたが、ボクは虚礼だとは思っていないので相変わらず続けている。
もっとも、中には形式上の挨拶状としての内容のものもあるが、一年に一度の年賀状だけでのお付き合いの地方の方やしばらくお会いしていない人たちも多いので、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら語りかけるのも悪いことでもない。
相手によって書く内容や文言も異なるし、印刷だけの年賀状はいかにも味気ないので、手書きにしている。
以前は宛名も書いていたが、数年前から、宛名だけは印刷するようになってずいぶん楽になった。
普段、取引のあるコピー機会社の営業の人からサービスです、と言って頂戴した少し大きめのプリンターがあり、それをキッカケとして宛名書きを印刷に切り替えたのだったが、図体が大きい割には余り機能的ではなく、貰っておいて文句を言うのも気が引けるが、その扱いには苦労した。
メカには滅法弱い。
一年に一度だけしか使わず普段は会社の部屋の片隅に置いてあるのを今年もエンヤコラと力持ちの若いスタッフにデスクまで運んでもらった。
何しろ重いのだ。
手引書のメモを片手に面倒な手順を踏んでやおら印刷を始めたのだが、機械の調子が悪い。
折よく、コピー機会社の営業の人が来社していたので診てもらったところ、新しく買った方が良いですね、といとも簡単に言う。
使い始めて数年経っているとは云え、一年に一度しか使っていないので、印刷した枚数は高々知れたものだ。
何と脆弱な製品なのだろうと思っていると、そばに居たスタッフが「中国製なんじゃないですか」などとつぶやいている。
総務のスタッフが、量販店で買うのが安くて速いと言う。
「明日、買ってきますよ」
翌朝、出社するとデスクに新品の小型のプリンターが用意されていて、業務デスクのスタッフたちが配線などしてくれていた。
日本の某有名メーカーの社名が記されている。
そして、ボディの横に「オルタスジャパン備品NO565」というステッカーがすでに貼られていた。
いいぞ、いいぞ。
簡単そうに見えるプリンターでも、イザ新しい設定となるとそう簡単でもなさそうで、結構戸惑っている。
「制作現場の若い人たちはみんな得意なんですけどね、こういうことは」と女性スタッフ。
業務デスクの人たちは全員が40歳を越えている。
ボクほどオンチでもないだろうが、それほどメカには強くなさそうだ。
あれやこれや、ああでもない、こうでもない、と悪戦苦闘の末、一時間以上かけてやっと使用可能となった。
ボクなど会社のスタッフのお陰でこうして楽をさせて貰っているが、一人だったらまるで何もできないな、とつくづく思う。
まったく生活能力がないのも困ったものだ。
早速刷り始めて快調に事が進む。
300枚ほど刷り終えていた。
「お陰さまで、助かったよ。前のコピー機はしばしば紙詰まりを起こして困ったけれど、やっぱり新品は良いね」とセッティングをして助けてくれた女性スタッフたちに声を掛けた。
「プリンターの機嫌が良さそうで良かったですね」とひとりがニッコリと笑ったまさにその瞬間だった。
いきなりガタガタガタという音がし始めたかと思うと、年賀ハガキを突如送り込まなくなってしまった。
「調子が良いと言うと、決まってこれだよ。不思議だな、いつだってそうなんだ。今日は道が空いていて車の流れがスムーズだな、と口にすると、その瞬間から必ず道が混み始めるんだよな。ホントに不思議だな。ボクの褒め言葉がいけなかったのかな」
それから再びプリンター相手の奮闘が始まり、やがて一枚づつ手差しでハガキを押し込むと何とか印刷できることが判明した。
買った初日から故障するなんて欠陥商品もよいところだが、それにしても、日本の著名なメーカーの商品がこれでは困る。
仮に、実際に作っているのが、たとえ中国であろうが、ベトナムであろうが、れっきとした日本製の商品である。
技術立国の日本の名誉の問題だ。
別に目くじらを立てる気は毛頭ないが、こんな欠陥商品を平気で店頭に並べて商売をしている実態の裏に潜んでいるナニか、が問題だ。
その原因が廉価で販売するために生じたものなのか、製品のチェックが不足していたのか、あるいはもともと設計に欠陥があるのか、それは分からない。
しかし、少なくとも、このメーカーが消費者に自信と責任を持って自分たちの製品を使って貰うのだとの自覚や誇りをすでに喪失しているのではないかとの恐れを抱く。
安かろう、悪かろうの時代は遠い昔の話の筈である。
そして同時に、もしかするとボクたちが体験している欠陥プリンターは、日本製品の象徴的な姿なのではないかとの不安を生む。
ひとり電化製品のみならず、車や建築物や食料や医薬品や、それにボクたちが毎日制作しているテレビの番組までも含めて、その氷山の一角ではないのかとの予感と恐れである。
「それではお先に失礼します」と女性スタッフは少し遠慮がちに挨拶して帰った。
「お疲れさま。遅くまでありがとうね」
さあ、めげずに、とに角、この欠陥商品をなだめながら、少し時間はかかっても、あと500枚、一枚一枚手差しでの印刷を仕上げてしまおう。
そして、明日から、肝腎の裏面の手書きの本文に取り掛かろう。
日本の経済、強いては日本社会の衰退が水面下の深いところで静かに進行しているのではないかとの疑念が杞憂であることを願いつつ。
「沈没の 予感を胸に 賀状書き」

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とても楽しいのだが、ちょっとした労力と時間を必要とする作業である。
それは年賀状書きだ。
例年800通ほど書く。
この時代に年賀状などの虚礼はやめた方が良いですよ、と以前に忠告してくれた親切な方もいたが、ボクは虚礼だとは思っていないので相変わらず続けている。
もっとも、中には形式上の挨拶状としての内容のものもあるが、一年に一度の年賀状だけでのお付き合いの地方の方やしばらくお会いしていない人たちも多いので、ひとりひとりの顔を思い浮かべながら語りかけるのも悪いことでもない。
相手によって書く内容や文言も異なるし、印刷だけの年賀状はいかにも味気ないので、手書きにしている。
以前は宛名も書いていたが、数年前から、宛名だけは印刷するようになってずいぶん楽になった。
普段、取引のあるコピー機会社の営業の人からサービスです、と言って頂戴した少し大きめのプリンターがあり、それをキッカケとして宛名書きを印刷に切り替えたのだったが、図体が大きい割には余り機能的ではなく、貰っておいて文句を言うのも気が引けるが、その扱いには苦労した。
メカには滅法弱い。
一年に一度だけしか使わず普段は会社の部屋の片隅に置いてあるのを今年もエンヤコラと力持ちの若いスタッフにデスクまで運んでもらった。
何しろ重いのだ。
手引書のメモを片手に面倒な手順を踏んでやおら印刷を始めたのだが、機械の調子が悪い。
折よく、コピー機会社の営業の人が来社していたので診てもらったところ、新しく買った方が良いですね、といとも簡単に言う。
使い始めて数年経っているとは云え、一年に一度しか使っていないので、印刷した枚数は高々知れたものだ。
何と脆弱な製品なのだろうと思っていると、そばに居たスタッフが「中国製なんじゃないですか」などとつぶやいている。
総務のスタッフが、量販店で買うのが安くて速いと言う。
「明日、買ってきますよ」
翌朝、出社するとデスクに新品の小型のプリンターが用意されていて、業務デスクのスタッフたちが配線などしてくれていた。
日本の某有名メーカーの社名が記されている。
そして、ボディの横に「オルタスジャパン備品NO565」というステッカーがすでに貼られていた。
いいぞ、いいぞ。
簡単そうに見えるプリンターでも、イザ新しい設定となるとそう簡単でもなさそうで、結構戸惑っている。
「制作現場の若い人たちはみんな得意なんですけどね、こういうことは」と女性スタッフ。
業務デスクの人たちは全員が40歳を越えている。
ボクほどオンチでもないだろうが、それほどメカには強くなさそうだ。
あれやこれや、ああでもない、こうでもない、と悪戦苦闘の末、一時間以上かけてやっと使用可能となった。
ボクなど会社のスタッフのお陰でこうして楽をさせて貰っているが、一人だったらまるで何もできないな、とつくづく思う。
まったく生活能力がないのも困ったものだ。
早速刷り始めて快調に事が進む。
300枚ほど刷り終えていた。
「お陰さまで、助かったよ。前のコピー機はしばしば紙詰まりを起こして困ったけれど、やっぱり新品は良いね」とセッティングをして助けてくれた女性スタッフたちに声を掛けた。
「プリンターの機嫌が良さそうで良かったですね」とひとりがニッコリと笑ったまさにその瞬間だった。
いきなりガタガタガタという音がし始めたかと思うと、年賀ハガキを突如送り込まなくなってしまった。
「調子が良いと言うと、決まってこれだよ。不思議だな、いつだってそうなんだ。今日は道が空いていて車の流れがスムーズだな、と口にすると、その瞬間から必ず道が混み始めるんだよな。ホントに不思議だな。ボクの褒め言葉がいけなかったのかな」
それから再びプリンター相手の奮闘が始まり、やがて一枚づつ手差しでハガキを押し込むと何とか印刷できることが判明した。
買った初日から故障するなんて欠陥商品もよいところだが、それにしても、日本の著名なメーカーの商品がこれでは困る。
仮に、実際に作っているのが、たとえ中国であろうが、ベトナムであろうが、れっきとした日本製の商品である。
技術立国の日本の名誉の問題だ。
別に目くじらを立てる気は毛頭ないが、こんな欠陥商品を平気で店頭に並べて商売をしている実態の裏に潜んでいるナニか、が問題だ。
その原因が廉価で販売するために生じたものなのか、製品のチェックが不足していたのか、あるいはもともと設計に欠陥があるのか、それは分からない。
しかし、少なくとも、このメーカーが消費者に自信と責任を持って自分たちの製品を使って貰うのだとの自覚や誇りをすでに喪失しているのではないかとの恐れを抱く。
安かろう、悪かろうの時代は遠い昔の話の筈である。
そして同時に、もしかするとボクたちが体験している欠陥プリンターは、日本製品の象徴的な姿なのではないかとの不安を生む。
ひとり電化製品のみならず、車や建築物や食料や医薬品や、それにボクたちが毎日制作しているテレビの番組までも含めて、その氷山の一角ではないのかとの予感と恐れである。
「それではお先に失礼します」と女性スタッフは少し遠慮がちに挨拶して帰った。
「お疲れさま。遅くまでありがとうね」
さあ、めげずに、とに角、この欠陥商品をなだめながら、少し時間はかかっても、あと500枚、一枚一枚手差しでの印刷を仕上げてしまおう。
そして、明日から、肝腎の裏面の手書きの本文に取り掛かろう。
日本の経済、強いては日本社会の衰退が水面下の深いところで静かに進行しているのではないかとの疑念が杞憂であることを願いつつ。
「沈没の 予感を胸に 賀状書き」



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来年の3月7日で会社設立30周年を迎える。
昭和63年の設立だった。
翌年の昭和64年1月7日で昭和が終り平成の世になったが、来年は平成30年なので、奇しくもボクたちの会社はまるまる平成の世と共に歩んで来たことになる。
その平成も間もなく終わることが決まった。
いま、ボクたちは設立30周年記念のパーティーに向けての準備を始めたところだ。
ボク個人は、普段は余り過去を振り返ることはしない方だが、こういう時はどうしても、設立当時から現在までの会社の歴史を遡ることになる。
設立メンバー6人のうち、男たちはボクを除いてみんな先にあの世に逝ってしまった。
若い頃は一年の内の半分以上をアフリカのケニヤで動物の生態を追い続けていたディレクターの日野成道、カンボジアの専門家で戦場カメラマンの馬淵直城、それに優秀な編集マンだったTさん等それぞれユニークな個性の持ち主たちだった。
いずれも長い付き合いの同志で親しい間柄だったが、Tさんは会社を設立して4年ほど経った頃に亡くなっている。
まだ40歳代の前半という若さだった。
彼は腎臓に大きな結石が生じ、それをレーザーで砕くという当時新しく開発された療法を実験的に受けていた。
確か、レーザー放射は40回が限度だと聞いた記憶があり、その治療も終え、本人からは、まずまずの成功だとは聞いていたが、かなり身体への負担が大きかったのかもしれない。
Tさんとも良く飲んだ。
酔うと決まって大下八郎のヒット演歌「女の宿」を歌った。
熊本県生まれの肥後もっこすで、心根の優しいリベラルな男だったが、興が乗ると必ず歌う軍歌があった。
ある時、軍歌を歌ったTさんが、同席していた先輩の女性ディレクターから、どうして軍歌など歌うのか、と厳しく問い詰められて、とうとう泣き出したことがある。
その女性ディレクターの兄は先の戦争で、学徒出陣での徴兵を受け、南方戦線に出征を余儀なくされ戦死している。
彼女は日本を無謀な戦争に導き、赤紙一枚で兄の命を奪った為政者や軍部を心の底から憎んでいた。
そして、戦意高揚を図るために作られた軍歌を認めることは出来なかったのだった。
後日、Tさんから彼が軍歌を歌う理由を聞いた。
彼が子供の頃に父親は風呂に入ると、きまって軍歌を歌っていたという。
その父親も亡くなって久しいが、酔うと懐かしくなり、ついついその父親を偲び父の歌っていたその軍歌を歌いたくなってしまうのだ、ということだった。
Tさんは麻雀が好きで、一緒に打つことも多かった。
ある日、夜中まで打っていたが、余り身体の調子が良くないので先に帰る、と言って彼は途中で抜けた。
そして、明け方になって奥さんから電話が入り、Tさんが急死したとの知らせを聞くことになる。
信じられない思いで病院に駆け付けた時には、Tさんはすでに霊安室に移されていたのだった。
本当にあっけないほどの突然の死だった。
そんなことを思い出しながら、ボクは30周年記念のパーティーに来ていただきたい方々の名簿のリストアップをしていた。
そして、Tさんを初め亡くなった設立メンバーの奥さんたちにも案内状を送らなければならないな、などと思っていた。
その時、「お客さんですよ」とのスタッフの声がした。
見ると、笑顔でこちらを見ているひとりの女性がいた。
なんとTさんの奥さんだった。
噂をすれば影がさすとの言葉そのままの出来事に驚いた。
彼女はTさんが亡くなった後、保険の外交をして生計を立てて来た。
これまで毎年、わが社のお花見や忘年会に誘っていたが、ここ1~2年姿を見せていなかった。
「わたしも65歳になりました」と彼女は言った。
改めて彼女の顔を見た。
応接セットで向き合って話すのは実に20数年ぶりのことだった。
これまで、お花見や忘年会などで何度か会っているが、ゆっくり顔を見て話すことはなかった。
そんな席上で会ってはいてもボクの頭の中では昔の若い頃のイメージしかなかったのだが、目の前には確かに65歳の女性がいた。
Tさんが亡くなってからの長い年月と彼女の苦労がしのばれた。
時間の流れの中で、時々、思い込みの世界から自分を現実の世界に引き戻してくれるこういった瞬間があるものだ。
「母の身体の具合も良くないので東京での暮らしを終え、故郷の京都に帰ることにしました」
実は、彼女は苦労してTさんと結ばれた。
Tさんには妻子があり、いま、何かと話題になる不倫の末に一緒になったのだったが、Tさんの死が早すぎたので実際の結婚生活はそれほど長くは無かった。
Tさんが亡くなった後も、奥さんはふたりで住み始めた郊外のマンションに住み続けていた。
奥さんのその後の私生活については詳しくは知らないが、ずっと一人暮らしを続けて来た。
浮いた噂を耳にしたこともなかった。
演歌の世界ではないが、古い気質の京女の一途な生き方だったのかもしれない。
Tさんの死後これまで東京を離れずにいたのは、Tさんへの想いや未練を断ち切れなかったためだとボクは勝手に想像している。
「明日、東京を離れることにしました。長い間お世話になりました」と深々と頭を下げた。
これからは老いた母親の面倒を見ながら過ごすつもりだと言う。
65歳という年齢をひとつの機と捉え、これまでの生活に区切りをつけ、新たな人生を始めようと決断したのだろう。
ボクたちの会社も30周年を迎える。
思い返せば、ひとつづつ色んなことがあった。
それは人生にも似て、計り知れない思いの詰まった過去だったとも思う。
そして、これを機にまた新たな一歩を踏み出すことになる。
人生には始まりがあり、そして終焉がある。
しかし、会社に終焉はない。
これからどういう未来を切り開いていくのか。
終わりなき挑戦の旅が続く。
「春風を 招いて明日へ 帆を立てる」

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昭和63年の設立だった。
翌年の昭和64年1月7日で昭和が終り平成の世になったが、来年は平成30年なので、奇しくもボクたちの会社はまるまる平成の世と共に歩んで来たことになる。
その平成も間もなく終わることが決まった。
いま、ボクたちは設立30周年記念のパーティーに向けての準備を始めたところだ。
ボク個人は、普段は余り過去を振り返ることはしない方だが、こういう時はどうしても、設立当時から現在までの会社の歴史を遡ることになる。
設立メンバー6人のうち、男たちはボクを除いてみんな先にあの世に逝ってしまった。
若い頃は一年の内の半分以上をアフリカのケニヤで動物の生態を追い続けていたディレクターの日野成道、カンボジアの専門家で戦場カメラマンの馬淵直城、それに優秀な編集マンだったTさん等それぞれユニークな個性の持ち主たちだった。
いずれも長い付き合いの同志で親しい間柄だったが、Tさんは会社を設立して4年ほど経った頃に亡くなっている。
まだ40歳代の前半という若さだった。
彼は腎臓に大きな結石が生じ、それをレーザーで砕くという当時新しく開発された療法を実験的に受けていた。
確か、レーザー放射は40回が限度だと聞いた記憶があり、その治療も終え、本人からは、まずまずの成功だとは聞いていたが、かなり身体への負担が大きかったのかもしれない。
Tさんとも良く飲んだ。
酔うと決まって大下八郎のヒット演歌「女の宿」を歌った。
熊本県生まれの肥後もっこすで、心根の優しいリベラルな男だったが、興が乗ると必ず歌う軍歌があった。
ある時、軍歌を歌ったTさんが、同席していた先輩の女性ディレクターから、どうして軍歌など歌うのか、と厳しく問い詰められて、とうとう泣き出したことがある。
その女性ディレクターの兄は先の戦争で、学徒出陣での徴兵を受け、南方戦線に出征を余儀なくされ戦死している。
彼女は日本を無謀な戦争に導き、赤紙一枚で兄の命を奪った為政者や軍部を心の底から憎んでいた。
そして、戦意高揚を図るために作られた軍歌を認めることは出来なかったのだった。
後日、Tさんから彼が軍歌を歌う理由を聞いた。
彼が子供の頃に父親は風呂に入ると、きまって軍歌を歌っていたという。
その父親も亡くなって久しいが、酔うと懐かしくなり、ついついその父親を偲び父の歌っていたその軍歌を歌いたくなってしまうのだ、ということだった。
Tさんは麻雀が好きで、一緒に打つことも多かった。
ある日、夜中まで打っていたが、余り身体の調子が良くないので先に帰る、と言って彼は途中で抜けた。
そして、明け方になって奥さんから電話が入り、Tさんが急死したとの知らせを聞くことになる。
信じられない思いで病院に駆け付けた時には、Tさんはすでに霊安室に移されていたのだった。
本当にあっけないほどの突然の死だった。
そんなことを思い出しながら、ボクは30周年記念のパーティーに来ていただきたい方々の名簿のリストアップをしていた。
そして、Tさんを初め亡くなった設立メンバーの奥さんたちにも案内状を送らなければならないな、などと思っていた。
その時、「お客さんですよ」とのスタッフの声がした。
見ると、笑顔でこちらを見ているひとりの女性がいた。
なんとTさんの奥さんだった。
噂をすれば影がさすとの言葉そのままの出来事に驚いた。
彼女はTさんが亡くなった後、保険の外交をして生計を立てて来た。
これまで毎年、わが社のお花見や忘年会に誘っていたが、ここ1~2年姿を見せていなかった。
「わたしも65歳になりました」と彼女は言った。
改めて彼女の顔を見た。
応接セットで向き合って話すのは実に20数年ぶりのことだった。
これまで、お花見や忘年会などで何度か会っているが、ゆっくり顔を見て話すことはなかった。
そんな席上で会ってはいてもボクの頭の中では昔の若い頃のイメージしかなかったのだが、目の前には確かに65歳の女性がいた。
Tさんが亡くなってからの長い年月と彼女の苦労がしのばれた。
時間の流れの中で、時々、思い込みの世界から自分を現実の世界に引き戻してくれるこういった瞬間があるものだ。
「母の身体の具合も良くないので東京での暮らしを終え、故郷の京都に帰ることにしました」
実は、彼女は苦労してTさんと結ばれた。
Tさんには妻子があり、いま、何かと話題になる不倫の末に一緒になったのだったが、Tさんの死が早すぎたので実際の結婚生活はそれほど長くは無かった。
Tさんが亡くなった後も、奥さんはふたりで住み始めた郊外のマンションに住み続けていた。
奥さんのその後の私生活については詳しくは知らないが、ずっと一人暮らしを続けて来た。
浮いた噂を耳にしたこともなかった。
演歌の世界ではないが、古い気質の京女の一途な生き方だったのかもしれない。
Tさんの死後これまで東京を離れずにいたのは、Tさんへの想いや未練を断ち切れなかったためだとボクは勝手に想像している。
「明日、東京を離れることにしました。長い間お世話になりました」と深々と頭を下げた。
これからは老いた母親の面倒を見ながら過ごすつもりだと言う。
65歳という年齢をひとつの機と捉え、これまでの生活に区切りをつけ、新たな人生を始めようと決断したのだろう。
ボクたちの会社も30周年を迎える。
思い返せば、ひとつづつ色んなことがあった。
それは人生にも似て、計り知れない思いの詰まった過去だったとも思う。
そして、これを機にまた新たな一歩を踏み出すことになる。
人生には始まりがあり、そして終焉がある。
しかし、会社に終焉はない。
これからどういう未来を切り開いていくのか。
終わりなき挑戦の旅が続く。
「春風を 招いて明日へ 帆を立てる」



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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役
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