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早坂暁さん大いに語る

突然の電話があり、本当に久しぶりに早坂暁さんが会社に訪ねて来られた。

今更、早坂暁さんについての説明は不要だと思うが、「天下御免」「夢千代日記」「花へんろ」「必殺からくり人」「七人の刑事」など、なんと1000本を超す映画やテレビドラマの脚本、小説を書いておられる。
とんでもない才人である。
今年の9月に88歳、米寿の誕生日を迎えられた。

実は早坂さんは、昨年1年の間だけで、心臓発作で3回倒れて病院に担ぎ込まれている。
胃は半分無いし、胆嚢も無い。前立腺にガンもある。
70歳の頃には胸を切り開いての心臓の大手術もしている。

早坂さんとはかれこれ30年近くお付き合いさせて頂いているが、その間にボクの目の前で2度倒れ、救急車に同乗した。
「これまで1億円以上の大金を病院に払っている」と豪語されるほどに、とにかく病気とは縁の深いお方である。

昨年の晩秋に、去年だけでも3回目となる心臓発作での入院の際は、実際に生死の境を彷徨われた。
これまで、危ないと思われたことが何度となくあり、しかしその度に、驚異的な生命力で生還し周囲の人たちを驚かしてきた。
しかし、3度目の時は集中治療室からなかなか出ることが出来ない状態が続き、今度ばかりはいよいよ助からないかもしれない、とボクも覚悟していたのだった。

しかし、何と再び三度、奇跡的な生還を果たす。
生きることへの凄まじいまでの執念を見せた。

退院直後は自力では歩けないほどに弱られ、この春にお会いした時にはかなりの回復を見せてはいたが、それでもその表情はどこか虚ろな感じだった。
そして、今回、半年ぶりにお会いしたのだったが、以前の時とは打って変わって顔色も良く、笑顔などもあり、かなり回復されているようにお見受けした。

ところで、早坂さんには、もうひとつ、驚かされたことがある。
米寿を迎えられたこの秋に新しい嫁さんを娶って正式に入籍された。
先生も、死の淵を彷徨いながらナカナカやるものだ。
いよいよただ者ではない。

耳がかなり遠くなっておられるので、ボクの方も大声で話すのだが、果たして聞こえているのかどうか分からないことも多い。
その度に、新しい嫁さんが、通訳のように早坂さんの耳元で改めて伝える。
先生はそこで頷く、といった調子の会話が続く。

「鼻ツンの耳ツンですねん」と嫁さんがボクに解説する。
「そうそう。鼻ツンの耳ツンだよ」と先生。
「なんや、ちゃんと聞こえてるやないの。悪口だけはしっかり聞こえますねん」
先生ニヤリと笑っている。
鼻ツン、耳ツンが差別用語ならごめんなさいだが、何とも微笑ましい新婚夫婦である。

普段は、面倒くさがり、あまり外出することもなく、家の中で過ごすことが多いと嫁さんは言う。
「先生、毎日、退屈してませんか」とボクは聞いた。
「毎日、退屈してませんか、と聞いてはるよ」と嫁さんが耳元で繰り返す。
「退屈してるよ」と先生は即座に子供のように応えた。

それがキッカケで先生に火が付いたのかどうか、それまで、ほとんど頷いてばかりだったのだが、突然、先生が実現させたいと考えている企画の話になった。
「日本にはこれまで2度の大きな国難があった」とやおら先生は語り始めた。

サテ、何だろう、太平洋戦争をまず思い浮かべた。
あるいは、アメリカのペリー来航だろうか。

「日本の国難のまず一つ目は二度に渡る蒙古の襲来だ」
一度目は1274年の文永の役、二度目は1281年の弘安の役で、当時アジア大陸を支配していたモンゴル帝国のフビライ皇帝が属国であった高麗王国の軍と共に九州に侵攻してきた。
いわゆる元寇で、役とは戦争のことである。
弘安の役で攻めてきた艦隊はそれまでの歴史史上最大規模の艦隊であったと言われている。

早坂さんは、かつてこの元寇の役をテーマとして毎日新聞に連載小説として書かれたことがあった。
神風が吹いてモンゴル軍が敗退したとボクたちは学校で教えられたが、当時、瀬戸内海を支配していた水軍、いわゆる海賊の末裔でもある早坂さんによれば、実際はそんな単純なものでは無かったらしい。
書くことが多すぎて、連載の期間内では収まりきれなかったらしい。

「もうひとつの国難は日露戦争だった」と早坂さんはさらに熱弁をふるい続けた。
「ところで、緊迫している世界の情勢の中で、これから日本がどのようにやっていけば良いのかは大きなテーマでね。国難という視点から僕は三つの企画がある。それをぜひオルタスジャパンで実現させたい」と語った。

企画の詳細については割愛するが、その衰えることのない熱い思いや企画への執念は、とても病で何度も倒れている米寿の老人のものではなかった。
本物の表現者の姿をボクは改めてしげしげと見つめていた。

「今度会う時までに企画書を書いて来ますよ」と早坂さん。
次から次へと話は展開し、どこまでも留まるところを知らなかった。
身体を心配して、そろそろ帰りましょう、と促す嫁さんにも耳を貸す気配を見せない。

帰り際に「ホントに久しぶりで早坂節を聞きましたわ」と嫁さんは嬉しそうに言った。   

        「宿題の またひとつ増え 馬鹿社長」


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ジャーナリスト魂と客観報道

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不安増幅時代をどう生きるか

選挙戦が始まった。
余りヤキモキせずにしばらく見ていることにした。
このようになって欲しいとか、こうなったら困るナ、などとひとつひとつに反応していたら疲れるばかりだ。
もっとも、発言を控えるつもりは無いのだが、何がどうなるのか、しばし、じっと冷静に観察するしかない。

ボクは比較的不安を感じることの少ないタイプなのだが、不安というのは不思議な存在で、一度不安に陥ると次から次へと次第に増幅していくものであるらしい。
それが行き過ぎると不安症と診断されたりもする。

心配や恐れなども同様で心配し出すとキリがなくなる。
ボクの周りにも、そういった人たちが案外沢山いる。

かく言うボクも、若い頃は恐いもの知らずで、出たとこ勝負のずいぶん無鉄砲で無防備な生き方をして来たのだが、近頃では少しは分別みたいなものが出てきた。
その意味で大人になった。
間もなく後期高齢者の仲間入りをする年齢になって、今さら大人になったも無いのだが、別の言い方をすれば、いよいよ若さを失い衰えてきたということなのだろう。

それに伴い、日常生活で恐いものや恐いことが少しづつ多くなってきた。
まず階段が恐い。
下りる時は慎重になるのでまだ良いのだが、上りが恐い。
上りで躓く。

建築現場が恐くなった。
赤坂見付の駅から会社まで、四六時中ビル工事をしている。
今も、この300メートルほどの通りで5つのビル工事が行われていて大きなクレーンがそびえている。
そういう所は出来るだけ早足で通り過ぎる。

自転車も恐い。
身体すれすれに猛スピードですり抜けて行く。
風圧が肌に残る危うさだ。

交差点も恐い。
交差点での事故は多い。
信号で守られている安心感がある分だけ危険も多いと感じる。
信号の無い道路を注意して渡る方が安全だとさえ思っている。

こう考えると、街の中は危険がいっぱいだ。
特に、近頃のテレビでは毎日、血生臭い事故や事件などの報道が多いし、世界を見ても、紛争だ、戦争だ、テロだと安全な地はどこにもなさそうだ、不安が煽られるばかりで堪らない、もうテレビなんて見たくないよ、と誰かが言っていたが、確かにその通りかもしれない。

核戦争だって起きる可能性がゼロとは断言できない世の中である。
まさに現代は不安増幅時代のようだ。
こういう時代をボクたちはどう生きて行けば良いのだろうか。

振り返ってみれば、何が正しいのか、間違っているのか、そんなことも分からないまま、後先を考える思慮もなく、損得勘定で生きるのは恥ずべき事だと考え、損得は初めから問題外で、その瞬間に自分が伝えたいと考えていることを、ただひたすらに発信し続けて駆け抜けた数十年があり、気が付くと現在がある。

今思うと、それは一瞬のことのように感じられ、すでに過去となり幻となったが、それが遥か遠い昔のことだったようでもあり、つい昨日のことのようでもある。
その時々に知り合った親しい人たちの多くが、すでにこの世を去っている。

だが、無鉄砲な生き方をして恐いことなどまったく意識しなかった時よりも、いつの頃からだったのか、階段を恐いと思い、自転車を怖がり、交差点で車を恐いと感じるようになった今の方が、その時々の生きているリアリティーのようなものがあって、これもまた面白いと感じている不思議さがある。

例え、危険が多く、不安や心配ごとに満ち溢れていようとも、やっぱり刻々と変化して行く世の中は面白いと感じている自分が確実にいる。
生きているとの実感がある。

結局はどんな時代であろうとも、ボクたちはその時々の瞬間、瞬間に自分を生きることしかない、自分に正直に生きるしかないナと思う。

瀬戸内寂聴さんは、自らの戦争体験を通して、戦前と戦後の日本の価値観の激変を目にし
「これからは自分の目で見て、自分の手で触って感得したものだけを信じて生きていこう」
と思われたと言っている。

恐らく不安や心配の無い、また安全で危険の無い時代や世の中など、もともと存在しないのだと考える方が自然なのかもしれない。
それは自分が感じたか、感じなかったかだけの問題なのかもしれない。

ことほど左様に、世界は不条理に包まれているのだから、自分の思い通りの世の中など所詮存在する訳はないのだが、少なくとも楽しく生きて行きたいと思うし、少しでも多くの人たちが幸せと思える自由な社会を目指して生きて行きたいと願う。

ところで、今度の選挙の結果予想だが、自民党を中心とする勢力の圧倒的多数で新たにスタートすることは確実だ。
今後、安倍首相としては、消費税増税10%を実現し、憲法改正に道筋をつけて退陣することになるのだろう。
首相としての花道を飾っての退陣というこれが歴代首相に倣う定型だ。

ここで浮上するのがポスト安倍問題である。
希望の党小池党首は、そのポスト安倍を狙って今回の動きに出たのだが、時機尚早というか、見込み通りにはいかずに失敗したのだろう。
国民の審判が投票の前に下されたとの感がある。
策士、策に溺れるである。
政治の世界はこれだから実に不可解で面白い。
民意が生きていることのひとつの証拠だ。

現実的には、今度の選挙結果を受けて多数を確保する自民党は、消費税や憲法改正を日程通りに推し進めることになる。
それらのことが、本当に正しい判断なのか間違った道を進むことになるのかは別にして、民主主義のルールに従って多数派がそんな路線で制して行くことになる。
経済的安定を求めている今の国民の民意には、それらの決定を覆すだけのエネルギーは無い。

国会はそれらの議題で紛糾する図を描くが、そのゴール地点はすでに決まっているただの儀式で、これまで通りの茶番劇に終始するに過ぎない。

そして、実際のこれからの政局の焦点は、ポスト安倍に移ることになるのだろう。
安倍首相が花道を飾るためにはどうしても必要なのがポスト安倍の人材である。
ここで自民党はどういう策を編み出すのだろうか。
とても常識的かもしれないが、これが大方の今後の見方なのではないかと思っている。

結果の見えている選挙とは云え、しかし、22日に控えた投票日には願いを込めて一票を投じようと思っている。

      「一票に 一喜一憂 民主主義」



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小池新党とボクたちの責任

いよいよ10月10日に衆議院選の公示が行われ、選挙戦が始まる。
果たしてどういう結果になるのか、再び自民党の圧勝に終わるのだろうか。

ここ数日の民進党の混乱振りを暗澹たる気持ちで眺めているのはボクだけではないだろう。
政治信条も意地もかなぐり捨てて、自らの保身だけを考えることしかできない多くの議員たちが、その情けない姿を連日国民の前に露わにしている。

小池新党の公認を貰えるのかどうかに右往左往し、一喜一憂していた姿はとても見苦しい。
自民党の独走に歯止めをかけ、日本を少しでも良くしたいという国民の思いや期待を受けて選ばれた代理人であるにもかかわらず、そんな意識も責任のかけらも見ることはできない。
国会を就職先と勘違いしているに違いない。

これじゃ自滅しても仕方ないね、と多くの国民も呆れていることだろう。
だから民進党は国民の負託に応える存在にはなれなかったのだと皆が改めて感じている。

希望の党の小池党首が安倍首相と同様に、日本会議のメンバーであり、憲法改正を目指す右翼勢力であることを知りながら、民進党の議員たちが希望の党との合流を両院総会において全会一致で賛成したことも信じられない出来事だったが、そういう節操の無さが党だけではなく、政治家としての自滅への道であることに気付かなかったとしたら、それこそ政治家としての資質はない。
政党が政策や党名を捨てて、いったい何が残るというのだろうか。
民進党のすべてが狂っている。

これまでリベラルのお面を付けて世間を欺き、新しく任に就いた民進党の党首がとうとう正体を露わにし、自ら民進党の分裂解体を画策して生き残りを図った。
権力闘争のために国民の信を裏切った悪党である。

なにしろ政治の世界のことだから、どこまでが、計算された出来レースなのかはボクなど素人には分からないが、いずれにしても、日本からリベラルな政治勢力が決定的に喪失する大きな転機を迎えていることは間違いのないところである。

一連の動きは、日本からリベラル勢力を無くすための目論みにも見えるが、それでも、かろうじて一部リベラル派と思える議員たちによって立憲民主党を立ち上げることが出来たことはせめてもの救いだ。
その脆弱さは別として、自民党と小池新党が一体となって進もうとしている日本の将来の形に危惧を抱く国民の受け皿が用意されただけでもその意味は大きい。

今更の感はあるが、小池新党はどこまでその勢力を伸ばすのだろうか。
自民党が勝とうが、票を減らして小池新党にその票が流れようが、いずれにしても、日本の未来に希望があるとは思えない。

小池新党と自民党は党名こそ異なるが同質の、同じ目標に向かっている党だ。
目指すは王政復古の戦前の政治体制である。
それほど遠くない将来、ボクの恐れている、自由を失う社会が訪れることになるのだろう。

いつだったか、やはり民進党のやる気のなさに呆れた時があり、ずいぶん以前に同じことを書いた記憶があるが、こうなれば、自民党の良識派の目覚めを待つしかないのだろうか。
しかし、その良識派もすっかり影が薄くなってしまっている。

だが、本当の問題は政治家にあるのではない。
小池新党の正体も安倍政権の目指すところも、それらのことを国民はすべて知っている。
知った上で自ら、自由を放棄する道を選択していることが恐ろしい。
現在の政治の姿を作っているのは、実は国民の総意によるものなのだ。
日本の社会全体の振り子がその方向に振れているのだろう。

しかし、これは、良くも悪くも民主主義のひとつの結果である。
その結果がどんなに悲惨な次の結果を生み出そうとも、その責任を負うのはどこまでも国民である。
少なくとも、選挙権を持つ国民のひとりひとりが主人公である民主主義の下では、その結果に対して責任を負う覚悟だけはしておかなければならない。

昔、ボクたちは親の世代に、日本が戦争に向かうのをどうして止めることができなかったのか、と問うたことを今さらながらに思い起こす。
それと同じ過ちをボクたちの世代がまた犯している。
どうしても日本は天皇の呪縛から逃れられないでいるのだ。
そしてこれが権力の持つ魔力なのだ。

安倍政権も同様とは云いながら、小池新党には不気味さを直感する。
その不気味さは、希望の党の結成時に公開された新党アピールのための動画を目にした時にも感じたものだ。
あの動画をご覧になって違和感を持たれた方も多いのではないか。

あの動画からは独裁の悪臭がした。
宗教的な強い異臭もした。
とても薄気味悪かった。

小池党首と思しき女性が数人の部下を後ろに従えて白い光に向かって歩む映像に希望の党の本性が見える。
仲間と手を携えて共に歩むのではなくて、小池党首に家来のように従属する男たちの後姿が映る。
主役は国民ではなく、どこまでも小池女帝であるとのアピールが見える。
国民にも黙って自分に従えと強要しているかのようである。
その眩い光の先にどのような闇が用意されているのかとも感じる。

それと、動画の中で煙草を悪の象徴として小道具に使っていたのも気になる。
そんなことは多くの人たちにはどうでも良いことかもしれないし、こういうことを言うと、あるいはひんしゅくを買うことになるかもしれない。
だが、この嫌煙主流の時代にあって、きっちりとルールを守りながら喫煙を楽しんでいる愛煙家のボクにとっては面白くない。

喫煙そのものは違法では無い筈だし、不道徳なものともボクは思っていない。
ただ世間の考えや流れがあるから、そのルールに従い肩身の狭い思いでいるのだが、ルールの下での喫煙が社会に対して悪いことだとの意識など毛頭ないし、その喫煙を一方的に悪に仕立て上げるのはいかにも問答無用の強引さと暴力性を感じる。
その行き着く先は言論の封殺だ。

実は、喫煙のことなどはどうでも良いのだが、ひ弱なボクとしては、小池党首のこういった手法にどこか強圧的な独裁性を直感するのである。

政治家には強い意志と決断力、それにリーダーシップは必要だが、独裁はもっとも忌むべき要素である。
それは、神の存在と同様に民主主義を根本から否定する思想だからである。

      「どこまでも 行くか振り子の 振れるまで」


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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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