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ブレーンを持つことの意味

ブレーンとは頭脳という意味の英語だが、転じて「専門的なアドバイスをしてくれる優れた相談役」という意味で使われている。

ボクたちテレビ屋は、時には事件や政治などを含めた報道番組を、また、自然・科学番組、経済番組、紀行番組、人物ドキュメンタリー、スポーツから音楽、美術、歴史ものなど、あらゆるジャンルや手法による番組を制作しなければならない。

テレビはごった煮の鍋料理のようなものだから、制作者に求められるジャンルは多肢に渡ることになる。
制作者は歳を経てくると、次第に得意分野が生まれて来るし、専門性もある程度出来てくるのだが、それでも、どんなジャンルのテーマであっても、その時々に応じて適切に対処することが求められる。

しかし、一人の人間の能力や知識には限りがあるので現実にはその対応は大変だ。
そのひとつひとつのテーマを初めから勉強して制作に臨むことになる。

あらゆるジャンルに精通することはとても無理な話なので、そういう時には、そのジャンルの専門家の教えを乞うことになる。
今はネット情報が驚くほど豊かになったので、昔のように、わざわざ足を使って専門家たちに会いに出かけるということは少なくなっているかもしれない。

一方で、ネット情報への頼り過ぎとの批判もあるが、情報の出所等々その真偽の精査をすればかなりの正確な情報を手にすることが出来る時代にはなっている。
その意味ではある程度、ネットがブレーンの役目を果たしてくれることは確かである。

ボクの体験で話すと、現役の頃は常に数人のブレーンのお世話になっていた。
放送作家、ジャーナリスト、お笑い芸人、ルポライター、作家、写真家、軍事評論家、アラブ、タイ、カンボジア、ラオスなどの専門家たち、映画監督、弁護士、政治家、事件屋等々、今から思うと贅沢なほどの有能な人材に恵まれて仕事をさせてもらっていた。

それらの人たちとは、いつでも電話ひとつで会える関係にあったので、具体的なテーマでの知恵を借りることも多かったが、ボクが行き詰ったり、迷ったりした時なども気軽に相談に乗ってくれた。
ブレーンの情報やアイディアや知恵を基にして番組を企画したり、また取材に臨んだものである。

これまで、大した仕事をして来た訳でもないが、それらブレーンがもし存在しなかったら、と考えると恐ろしくなる程に、その人たちから頂いた力は大きかったと思う。

余談だが、昔、ゲーテというとんでもない才人がいたようだ。
ドイツ生まれの詩人であり、戯曲家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)それに政治家、法律家でもあったという多才な人物であったらしい。
彼が書いた小説『若きウェルテルの悩み』や詩劇『ファウスト』などは読んだことはないが、タイトル位は知っている。
死に臨んでの「もっと光を」という言葉でも有名だ。

嘘か真かは知らないけれど、昔読んだ本でゲーテについて語られていたが、彼は驚くばかりに博識で、世界の諸事情に通じており、例えば、彼がそれまでに行ったことのない街についても、隅々まで知っていたと言う逸話が書かれていた。
18~9世紀の、まだネット情報はおろか、鉄道も飛行機も電話もなく、些細な情報を得るにも苦労した筈の時代にどのようにして、そのような知識を得ることができたのか不思議に思った記憶がある。
こういう人物がブレーンでいてくれれば、どんなにか心強いだろうと思ったものだ。

ブレーンは生身の人間なので、ネットとは異なり、一方通行でなく、やりとりが出来る。
顔と顔を合わせての会話を通しての話には広がりがあるので、こちらが求めている以上の成果を得ることが出来ることも多い。
そういう意味でも、制作者は出来る限りブレーンを抱えていた方が良いと思うので、スタッフにも常に勧め、機会を作ったもりしている。

しかし、一方でブレーンを持つことの難しさは存在する。
当然ながら、まず、それなりのギャランティーを必要とする。
貴重な才能や情報、それに時間を拘束する訳だから、その対価が必要だ。

しかし、単純にお金を払えば済むというものでもない。
乱暴な言い方になるが、お金だけで動く人間は当てにはならない。

確かにお金は多面性を持つ不可思議な存在である。
金の切れ目が縁の切れ目という言葉もあれば、宵越しの金は持たないとの気風もあるように、お金は人の心を計るひとつの尺度にもなる。

しかし、お金に絶対的価値を置き、お金で動く人間をボクは信用しない。
なぜなら、お金は生きて行くための単なる道具のひとつに過ぎず、仕事をする上でお金を得ることだけが目的とはなり得ない、と考えているからだ。

それよりも、本当に信頼できるブレーンを常に抱えて行くためのもっと大切な条件がある。
その土台になるのはお金ではなく、お互いの知的人間関係だ。

ブレーンとはその言葉通りに、優れた頭脳や才能の持ち主である。
それぞれの分野で秀でた才能豊かな一流の人たちである。
誇りもあるし、時間を大切にして生きる忙しい人たちだ。
少なくとも、頼む側よりも優れた才能やより多くの情報を持っていることは確実で、そうでなければブレーンとしてその人物を抱える意味はない。

しかし、一方ブレーンの側から言えば、自分の才能を求めている相手が、本当に信頼に足る人物かどうかを計る。
自分にとっても刺激になるかどうかなどの評価を含めて相手を選ぶ。
この双方のバランスが取れない限り両者の関係は成立しない。

魅力もやりがいも感じない相手とは仕事はしたくはないのは当然のことである。
単なる馬鹿とは会いたくもないし、時間の無駄だ。

そこで一番必要なものは両者に共通の言葉が存在するかどうかである。
考え方の違いは障害にはならないが、お互いの共通理解が必須で、その基本となる端的な形が言葉の理解だ。
つまり、ブレーンを抱える側にも相手と向き合うことの出来るレベルの能力がなければならないということである。

ブレーンを持つことの難しさがそこにある。
ブレーンを持つということは、自分を限りなく磨かなければならないということなのだ。

かく言うボクも、振り返って考えてみれば、これまで多くの人たちと出会い、また数多くの才能を紹介されてきた。
そして、現在もブレーンを必要として仕事に臨んでいる。
しかし、それら多くの才能をボクは生かし切れないで来たし、今なお生かせないでいる。
ただただ、己の頭の悪さと勉強不足を恥じる毎日なのである。

      「銭ケリで 済まぬ仏の 頭脳かな」


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大きな声では言えないお話

少しばかりお恥ずかしい話をする。

ボクたちの会社は9月決算を行っている。
説明するまでも無いことだが、毎年、10月から翌年9月までがボクたちの1年で、この12ヶ月間の収支で決算を行う。

現在は8月の半ば過ぎなので、間もなく〆の期限である9月が来る。
売上高は、ほぼ前期同様で横ばい状態なので、それはそれでまずまずなのだが、利益が減る見通しである。
これは頭の痛い問題だ。

本来会社は増収増益を目指す。
収入は前期並みでも増益ならば良いのだが減益はいけない。
収支は赤字になることは無い見通しだが、ギリギリのところにあるので、お金の使い方については少しばかり引き締めて、気を使う状態が続いている。

会社設立以来、これまで30回ほどの決算をしてきているが、最近ではお蔭さまで黒字の決算が出来ている。
そして、得た利益はスタッフに分配することを原則とし、実行してきた。

先だって、大手銀行の営業担当者が株式上場の話を勧めに来た際に、会社が赤字決算をした場合の銀行の厳しい対応についての話を聞いた。

赤字額が1千万円であろうと1円であろうと、赤字は赤字であること、同様に、1円であろうと黒字は黒字であるとの判断を銀行はする。
そして、それまで黒字を出していた会社が一度赤字決算を行うと、途端にその対応は変わり、例えば、銀行からの借り入れ等についても基準は厳しくなり、同時にその利息も高利になるという。
その後黒字を出しても、一度赤字を出した会社が銀行の信用を取り戻すのに最低5年はかかるとの話も聞いた。

それまで、少しくらいの赤字ならば良いだろう、位に決算について軽く考えていたのだったが、世の中はそんなに甘くはないことを改めて知ったのだった。
銀行マンの友人にその話をすると、お前は相変わらず呑気な奴だなあ、と笑われた。

そう云えば、会社を立ち上げてからしばらくの間は帝国データバンクや東京商工リサーチなどの企業信用調査会社からの調査がしばしば入ったことを思い出す。
調査を依頼した会社の名前は明かしてくれなかったが、テレビ局だったのかどこかの企業だったのか、調査会社はわざわざ会社まで訪ねて調べに来たものだった。
今では、毎年一度、決算期の電話での確認だけで済んでいる。

それでも、テレビ局によっては、大型のレギュラー番組企画を提出した際には、現在でも決算書の添付を別途要求されることがある。
本当に年間通じて制作を続けるだけの会社としての体力があるかを確かめられる訳だ。

税務署に提出する厚さ1センチに満たない決算書類を見れば、その会社の財務内容のすべてが分かる。
今更ではないが、決算内容とは会社にとっては、良くも悪くも、とても重要な意味を持つ。

その意味では数字がすべての判断基準となり、いくら評判の良い番組を制作したのだから、などと言ってみたところで銀行などの金融筋にとっては評価の対象とはならず、何の役にも立たない。
プロデューサーやディレクターの制作者としての誇りなどは数字の前では一蹴される厳しい現実がある。

今期は売上高に関しては前年並みだったにも拘らず、収入が伸び悩んだのには大きくは二つの原因がある。
そのひとつは、価格破壊とも言えるテレビ局による制作費の削減に因むものである。
特に、民放のBS番組などは信じられない低予算の番組が多い。

直接的な原因としては、わが社の制作陣がそれに見合った制作対応が出来なかったということである。
例え低予算であってもテレビ局のプロデューサーは番組のクオリティーを求めてくるので、番組の質は落とせない。

例えて言うならば、特上の天丼を並みの天丼にすると、明らかに質は落ちるので苦情が来る。
しかし、特上の天丼を作るだけのお金はない。
この矛盾をどう解決するかの知恵が求められる。

つまり、簡単に言うと、質を落とすのではなくて質を変える知恵と工夫が求められる。
これまでの特上の天丼を例えば、特上のサラダにすることによって、制作費に見合った特上の料理を提供できる訳である。
質の変化への頭の切り替えが求められる時代になった。
この対応が出来ていないことが一つ目の理由である。

また、民放BS局に限らず、いくら工夫しても赤字が出てしまう番組制作上の構造的な理由による赤字番組もある。
それを解決するためにはテレビ局側の金銭的、人的協力を必要とするが、それが叶えられないケースもある。

そういうレギュラー番組については、泣く泣く降板させてもらった。
レギュラー番組を自ら捨て去ることは、安定収入を捨てることに等しいので本来ならば有り得ないのだが、制作すればするほど赤字が増えるのでは致し方ない。
今年の4月から、そんな番組をひとつ整理した。
4年以上続けて来ていたわが社にとって思い入れのある番組だったのだが血を吐く思いで決断した。

もうひとつは、プロデューサーの予算管理能力の欠如である。
これは資質と責任感の問題である。
少ない予算でも、立派に仕事をし終えるプロデューサーもいる。

適応能力の欠如した人材の整理もやむを得ない厳しい状況も生じている。
情だけでは対処しきれない時代の流れがある。
これらの諸問題を踏まえて、それなりの大ナタを振るわざるを得ない局面もあった。
意識や人事を含めて改革も進んでいるので来期を期したいと考えている。

そんな事情で、今期は減収の見込みにあり、例年7月末に支給している夏季一時金の支給を見合わせた。
今の所、9月末の様子を見て、決算賞与という形で10月初旬に時期をずらせて支給するつもりでいるが、果たしてどうなるか。

この間の事情はすでにスタッフ全員に伝えた。
経営の責任者として忸怩たるものがあり、頑張っているスタッフに対して申し訳ない思いと悔しさで一杯である。

そんな気持ちでいる時に、人づてにあるスタッフの言葉が耳に入った。
「一時金が支給されないことは残念だが、それは自分たちの責任だ。自分たちの働きが悪いからだ。赤字を出さないように工夫してがんばりたいと思う」

そう語ったのは40代前半の中堅のプロデューサーだったことを、ボクにその話を伝えてくれた別のスタッフから聞いた。
こういう言葉を聞くことが出来るとは実は想像もしていなかった。

夏季一時金を予定通りには出せないことを、申し訳ない思いでスタッフたちに伝えた時も、スタッフの間に特別の動揺も感じられなかったし、それについての不満の声も直接、間接にボクの耳には届いてはいない。

しかし、その中堅スタッフの言葉は、頼もしく、月並みな表現になるがとても嬉しかった。
これ以上の励ましはなかった。
これまで、それなりの苦労をして会社をやってきて良かった、と心の底から思った。
まるでボクへの臨時ボーナスだった。

夏季一時金の支給の遅延を会社全体の問題として捉え、さらにそれを自らの責任として考えることの出来るスタッフは決して多くはないだろう。
しかし、こういう人材が一人でもいてくれる限り、ボクたちの会社の将来は安泰である。

       「がんばるぜ まだがんばれる あと少し」


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蟻とサラダ

毎度ながらの与太話で申し訳ないとは思いつつ。

会社の女性スタッフたち数人と赤坂サカスの食堂にランチを食べに入り、それぞれ思い思いの定食を注文した。
早速、いまでは当たり前になった定番のグリーンサラダが運ばれてくる。

「あ、何、コレ!」とテーブルのはす向かいに座っていた経理を担当しているボクの娘の声がした。
見ると、娘に配られたサラダの野菜の上を少し大きめの蟻が元気よく歩いている。

ボクは無意識のうちに手を伸ばしてその蟻を捕まえようとした。
「駄目よ、お父さん」と娘は言って、ボクの動きを制した。
すかさず、他の女性たちが店員を呼び、新しいサラダを持ってこさせた。
大騒ぎをするでもなく、一瞬の出来事だった。

「何をしようと思ったの?」と娘はボクに聞いた。
「蟻くらい払いのければ良いんじゃないかと思ってさ。別にわざわざ新しいものと取り替えてもらわなくても」と言うボクに「駄目だよ。汚いよ」と虫嫌いの娘は言い、他の女性スタッフたちも「そうですよ」と口をそろえて娘に同調している。
「へえー。そんなもんかね」とボクはサラダを頬張った。

ボクはこれまで蟻を汚いと思ったことが一度も無かった事に改めて気づいた。
マンションで暮らす近頃でこそ、蟻などを含めて、虫を見ることが少なくなったが、子どもの頃から、ずっと一軒家で住んでいた10年ほど前までは、周囲には蟻はいつもいたし、ハエや蚊や他の色々な虫たちを毎日目にしていた。
ドングリの木もあったし、家の裏には土手の草むらも広がっていた。

近頃トンとお目にかからなくなったが、ハエには多少は汚い感はなくもない。
しかし、それとて取り立ててどうと言うほどの観念はない。
食べ物にたかってくれば追い払う程度だ。
衛生上どうかは考えたこともない。
特に蟻とは大人になってからも良く遊んだので親しみさえ持っている。

「昔は米にはコクゾウムシがいてね。米を炊く前に選り分けるのだけど、しばしば一緒に炊きこまれていたもんだよ」とボクはいかにも年寄りじみた話をした。
「嫌ねえ」とみんな眉をひそめている。

子どもの頃は米穀通帳があって米がまだ配給制度だった。
1960年代まで配給制度は続いたが、その頃にはいわゆるヤミ米が実際に流通していたように思う。
有名無実になってからも、米穀通帳は1981年(昭和56年)の食糧管理法が改正されるまで残っていたようだ。

貧しかったからなのか、配給米だけでは足りなかったのか、幼稚園に通っていた戦後間もない昭和22~3年頃は、麦の入ったご飯やサツマイモの入ったご飯を食べた記憶がある。
麦ご飯はパサパサして好きではなかった。

夕食で炊いたご飯はおひつに入れて、食べきれなかった残りを翌朝に食べたりするのだが、そこに大量の蟻が入り込んでいたりする。
そんな蟻ごはんも食べた記憶がある。
今の時代なら大騒ぎのあげく惜しげもなく捨てるのだろうが、その時代はそんな勿体ないことは出来なかったのだろう。

そんな話を交えてすると、女性スタッフたちは、ますますオェーという顔をしている。
だから、年寄の話は嫌なのよ、と思っている。

少し小洒落た和食屋のランチなどに行くと「白いご飯が良いですか、五穀米が良いですか」などとお店の人が注文を聞く。
ボク以外の女性たちはその全員が決まって「五穀米!」と声を揃える。
何が入っているのかは正確には知らないが、米・麦・粟・豆・きび・ひえなどを炊き込んだものなのだろう。

「五穀米は身体にも良いのよ。値段は高いけどね」と妻も圧倒的に五穀米派である。
貧しかった頃には、誰もが銀色にピカピカ光る白い米を食べることを熱望しつつも、仕方なく麦やひえなどの雑穀で我慢していたに違いないのだが、飽食の時代にあっては、わざわざ高いお金を払って雑穀入りのご飯を喜んで食べている。
時代の変化とは云いながら、人とは不思議な生き物である。

時代の変化は、歳の所為なのか、多くの面で感じることは多いが、暮らしで見るとその環境は圧倒的にきれいになったし、衛生的にもなった。
疫痢や赤痢、腸チフス、寄生虫など不衛生が原因の病気は余り耳にしなくなった。
生活環境が整備され、衛生的で健康的になることはとても良いことだ。

しかし、これはボクの独善と偏見に満ちた独断だが、良いことと悪いことは表裏の関係で、それぞれのその総量は一定なのではないかと勝手に思っている。
だから風船のように、どこか凹めば、その分どこかが膨らむように、良い面が増えれば同量の悪い面が現れる。
平和が続くと平和を壊そうとする勢力が力を伸ばす、といった具合である。

それと、人間の欲望にはキリは無いので、一旦ひとつの方向に向かうと、どこまでも突き進んでいく。
美容や健康志向などはそのもっとも分かり易い例だが、ダイエットに夢中になって、栄養失調で亡くなったり、健康を害する女性たちは後を絶たない。
健康に気を配る余り、サプリメントにハマり過ぎたりする。
過度な健康志向が健康を損なう原因となるのは皮肉なことだ。

時節柄、思わず声を潜め少しばかり小声になるが、タバコに対する攻撃などは度が過ぎているとも思っている。
タバコの箱を見ただけでビクつく様子を、先日偶然目にしたのだが、その過敏な反応には逆に驚かされた。
ここまでくればまるで信仰の世界で理屈を越えていて、すでに立派な病気のようにも見える。

ことほど左様に、すべての事象は表裏の関係にあり、エネルギー凹凸の原則に支配されている。
環境が整備されればされる程に、それに反比例して人は免疫を失うのかどんどんひ弱になって行く。
寄生虫を駆除したお蔭てアトピーなどが増えたとの研究結果もあるし、大気汚染が原因なのかどうかは知らないが、昔は多くなかった花粉症などで悩む人たちが急増し、花粉の飛び交う季節になると、マスクをした怪しげな人の群れで街は賑わう。

そして、社会の管理化と共に精神を病む人間も増加する。
ひと昔前、アメリカ社会では都市部の多くの市民が掛かり付けの精神科医がいるとの話を聞き、アメリカは病んでいると思ったことがあったが、その状況は今の日本にそのまま当てはまる。

イギリスやアメリカ、ドイツなどと比べるとまだまだ少ないと言われているが、それでも日本人の10人に一人の割合でうつ病患者がいるようだ。
現実に、ボクの身の回りにもうつ病で苦しむ人たちが沢山いるのだが、このデーターを見てナルホドと納得がいく。

自殺者については平成28年度の警察庁の統計では、2万1897人で、男性は1万5121人、女性は6776人にのぼり、世界で6番目に多い。
女性は3位ということだ。
これらうつ病や自殺者の数と環境の整備やそれに伴う管理社会との因果関係については分らないが、無関係では無いと思われる。

一方、国連が発表した2017年度の世界幸福度ランキングでは155ヶ国の中で日本は51位だった。
幸せは経済の繁栄だけでは得られないということかもしれない。
もっとも、数字はあくまでも数字に過ぎないが、それでも何かを推測するための参考にはなる。

ボクは日本の風土は好きだし、今の自分の暮らしに特別の不満がある訳では無い。
ある程度、好きなようには生きさせて頂いている。
しかし、日本の社会がより住みやすい所であることを願うし、同時に、今進みつつある世の在り方に不安を感じることは確かである。

社会が整備され、社会の管理化が進めば進むほど世の中は窮屈になり、息苦しくなるとの矛盾を生む。
神経過敏な現代人を増加させ、当初の目的には無かった裏腹の不健康を初めとする様々な不都合を生み出す。
どこかで折り合いをつけなければならないのだが、人の持つ欲望は限度を知らないから、妥協は無く、行き着くところまでどこまでも突き進む。

そういう社会では、汚いものや変わったものは異物として排除されるだろうし、物事の規格化が進む。
規則の増加に伴い、やってはならない禁止事項が増える。
ますます人をがんじがらめの環境に追いやる。

形や制度への規制はその土台となる思想の規制に及んでくる。
それが怖い。
想像を逞しくすれば、やがて人工知能が人間社会を管理し、人間は人工知能の支配下に入ることになることは充分に予測できる。

「美しい国」を提唱する団体が現在大きな力を持って存在している。
美しいとの概念はとても抽象的で必ずしも定型がある訳では無い。
美しさは人によって異なる筈なのだが、これが美しい国だとの押し付けが行われることになることは必定でそれが怖い。

「美しい国」と「神の国」は同義語であるとボクは思っているのだが、そんな思想が当たり前に大手を振ってまかり通るような社会だけは絶対に御免だ。

ボクたちの暮らす日本の社会が進もうとしている道を決めるのはボクたちである。
今、日本は将来の日本の国の形を決める分岐点にいることだけは間違いない。

        「夏来れば 厚着の準備 冷房病」

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核兵器の無い世の中は来るか

去る7月7日、核兵器の開発や保有、使用などを法的に禁止する初めての国際条約が、ニューヨークの国連本部で開かれていた条約交渉会議で賛成多数で採択された。

この日の交渉会議には国連加盟193カ国中124カ国が出席、投票の結果122カ国が賛成した。
アメリカ、イギリス、フランスを初めとする核保有国は「現実の安全保障環境を考慮すべきだ」として強く反対。
アメリカの核の傘の下に入る日本は、核軍縮を前進させるためには、核保有国と非保有国の協力が不可欠との立場から条約に反対し、他の核保有国と歩調を合わせこの会議をボイコットしている。

条約案が採択された瞬間の様子をニュースの映像で視たが 各国の代表から大きな拍手と歓声が上がり、市民社会の代表として参加した広島の被爆者も立ち上がって拍手を送るなど、抱き合って喜び合う賛成参加国のスタッフたちの姿はとても印象的だった。

9月20日から各国の署名手続きが始まり、批准国数が50カ国に達した後、90日を経て発効することになっていて100ヶ国以上が加盟する見通しのようだ。

ただし、批准しない国には効力がない。
したがって、肝腎の核保有国やそれに同調する国家群が数多く反対している現実の世界では、国連での採択の喜びとは裏腹に、実効性という点ではその効力は無いに等しい。

日本政府は3月の交渉会議でも「北朝鮮の脅威といった現実の安全保障問題の解決に結びつくとは思えない」と表明し、5核保有国などと共にボイコットした経緯がある。

ボクには世界の安全保障についての知識は皆無なので、例えばこういった核兵器の扱いをどうすれば良いのか等の高度な軍事的、政治的判断に関して云々することは到底出来ないことは知っている。
しかし、核保有国を初めとしてそれらの国々に追従する日本の姿勢には違和感を持つ。

核は兵器に限らず原発も含めて20世紀以降の人類の最大の脅威であり続けていることは論をまたない。
不幸にして科学の力が産み出したこの脅威は、どうしても地球から消滅させなければならないことだけは確かである。

しかし、核保有国は自国の防衛と他の国家に対する威圧のために核兵器を手放そうとはしない。
これを核の抑止力と称しているが、この考えを持ち続けている限り、核兵器が地球から無くなる可能性は永遠にない。

本来ならば、ここで唯一の被爆国と言われている日本の出番がある筈である。
日本がアメリカの属国と云えば言い過ぎかもしれないが、日本の総選挙にも介入、アメリカの意向を汲まない総理大臣は決まって潰されることは周知だ。
しかも安全保障に関しては、日本は100%アメリカの支配下にある。

しかし、日本の自業自得とは云え、かつてアメリカにふたつの原爆を落とされ多くの市民が死傷し、甚大な被害を蒙ったという歴史的事実がある。
そして今なお被爆で苦しみ続けている人たちがいる。

安全保障とは別の視点から、核兵器の持つ意味については、日本独自の意見は言える筈だし、また言わなければならない。
日本が選択すべき道は、核兵器保有国とは別にあると考える。

しかし、もっと現実的な見方をすれば、日本が国連の核兵器禁止の国際条約に反対する本当の理由は、アメリカへの配慮だけではなく、実際に日本も核保有国となることを望んでいる可能性も高い。
そうだとすれば話は別で、とんでもないことだ。

いずれにしても、今回の国連への日本の対応と選択についての異議が野党から出ない日本は相当に病んでいる。
本来はこういった、国の在り方に関する議論が必要だと思えるのだが、今の日本の政治状況はとてもお粗末で、まともな政策論議が行われない形になっている。

それも当然と云えば当然で、現在の日本に本気で国民のために闘おうとする野党は存在しないし、政治の世界は政争に明け暮れているのが実情だ。

圧倒的多数の国会議員を擁している自民党は、その数に溺れ傲慢不遜な、国民を愚弄した政治姿勢で自ら墓穴を掘り、盤石に見えていた安倍政権も怪しくなっている。
驚くばかりの数々の自民党議員の低レベルの不祥事に続き、PKO日報問題で稲田防衛大臣が辞任に追い込まれ、森友学園の国有地払い下げ売却問題、加計学園問題等々で内閣支持率が危険水域まで急落している。

今回の加計学園疑惑についてもその仕掛け人は総理の座を狙う農水族の石破茂だとの一部報道があったが、その真偽は別として自民党内部もガタつき始めている。

これら一連の動きは、一種の権力の腐敗の結果でもあり、自民党内部の安倍下ろしとも相まってもいるのだろうが、長い腐敗の時間を経て、一度失った信頼は簡単には元には戻らないことは必定だろう。
内閣の改造人事位では信頼は回復できない。
実際、自民党の新三役の言を聞いても、これまでの自民党政治に対する反省の色はまったく見られない。
逆に開き直りともとれる言動に終始している。

官邸主導の政治力学に反発する官僚の力も大きく作用しているのだろう。
従来ならば、ここまでの多数の不祥事があり、様々な疑惑に対して明確な説明が出来ず、政治の混乱を招けば政権が交代しても不思議ではない筈だ。

しかし、一方、民進党はと云えば、蓮舫代表が辞任するなど、本来受け皿となるべき野党第一党が下手をすれば解党の危機さえ迎え兼ねないなど、現在日本の政界は混乱の極にある。

余談ながらトランプ大統領が率いるアメリカも日本と同様に政権内部は崩壊状況にあるようだが、アメリカも日本も株価が安定しているためなのか、何とか持ちこたえている格好で、その様子が両国共によく似ている。

早くも政界に解散風が吹き始めている。
たとえここで解散しても国民は選ぶ政党が見つからず、史上最低の投票率の結果、結局は自民党が多数を占めることになり、自民党は「みそぎ」が終わったと、再び現在と同様の政治を行うことになる可能性は高い。

安倍首相の求心力は既に失われていると思われるが、次の首相が誰になっても、240名を越える日本会議のメンバーを抱える自民党にあっては、似たり寄ったりの王政復古を目指す民族主義の極右政治家がリーダーシップを握る図式は変わらない。
今後中央政界に乗り出して来ることになっている都民ファーストの小池新党も同様で、小池知事も日本会議のメンバーだ。

日本会議は周知の通り、天皇を元首とする政治体制を目指す民族主義の団体である。
当然ながら、王政の復活であり、民主主義は否定される。

今回の組閣を見ても、公明党の石井啓一国交相以外全員が「日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のどれかの議員連盟に所属歴がある「靖国」派の政治家だ。
この人事を見て分かることは、安倍政権を中心に、自民党執行部は、かつての太平洋戦争を反省するどころか「自存自衛」「アジア解放」のための「正義の戦争」であったと、どうしてもあの戦争を正当化したいと云う強い意志が存在することである。

こう考えると、やや絶望的で、日本の将来に灯りは見えないように思われる。
しかし……である。

絶望的と云えば、核兵器の未来も同様だ。
それでも、今回の国連の決議のその効力に疑問があるとは云え、国連に加盟している100ヶ国以上の国々の非核化への意志表示は尊くその持つ意味は重い。

このことは、日本の憲法第9条を連想させる。
戦争の絶えることのない地球上に在って、戦争を放棄するとの宣言は一見無防備で無謀にも見える。

しかし、この宣言は世界一の権力を行使する国家であるアメリカがかつて日本に与えた、皮肉な言い方をすれば、貴重な無形文化遺産である。
この憲法のお蔭で日本は平和国家として戦後の奇跡とも言える経済復興を遂げることができた。

核兵器の廃絶宣言も日本の憲法第9条の戦争の放棄も、共に国家の理念の宣言であり、不可能への挑戦でもある。
そして、その根底には平和を希求する強い思いと信念が共通して存在する。

残念ながら、現在、現実の世界は平和とは反対の方向に向かってエネルギーのベクトルが存在するかに見える。
しかし、そういう時代だからこそ、平和を求める理念こそが必要なのではないかと考える。
その理念に基づいた発言を繰り返し、行動を推し進めることの意味があるのではないか。

幸いにも、日本は地理的にも、極東というある種、地の果てに位置している小さな島国である。
ヨーロッパなどのように他国と地続きで国境を接することなく、周囲は海に取り囲まれている。
小さくは中国との小競り合いや北朝鮮との関係は存在するが、日本が平和の理念を本気で発信し、それに向けての邪心の無い行動を内外に示し、本気で解決する気になればそれほど難しい問題である筈はない。

対中国、北朝鮮に関しても、マスコミを使って大騒ぎして見せ、必要以上の危機感や緊張感を煽ることを止め、大人の知恵と胆力の外交こそが大切で、そこが本来の政治家の腕の見せ所ではないのか。

日本独自の外交のための、ひとつの試金石であり踏絵が、核兵器への対応であり、憲法第9条の堅持であると考えるのだが、青臭すぎるであろうか。
ここで敢えて軍事力を誇示し、わざわざ軍隊の存在をアピールする必要はないと思うし、軍事大国への道筋をわざわざ憲法に明文化することは、とりも直さず日本を戦争の危険により一層近づけることになるのは自明の理である。
愚かなことだとボクには思える。

日本の現在の政権は間違いなくその方向に照準を合わせて一直線で突き進んでいる。
ここで、その過ちを正せるのは民の力だ。

そのためにも、日本は常に民に主権が在り、民が政治を決定する、民を中心とする国家であり続けなければならない。
国民に主権の無い、天皇を国民の上に存在させるような王政の国家にしてはならないと考える。

自由も責任も含めてその全てを国民が負う国家で暮らしたいと願うからである。

       「第9条 原理主義者と 言うなかれ」





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