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清き一票

安保法案が混乱の中、強行採決の末に大方の予想通りに成立した。
国会議員の圧倒的多数の前には、多くの国民の反対の声も届かなかった。

これが議会制民主主義のルールに従っての決定のありようだと言ってしまえばそれまでだが、ここまでの強引なやり方では、さすがに後味の悪さは拭い去りようもない。

今なお各地で若者たちを中心とした散発的なデモが行われているが、安倍政権が多くの国民の中に残した不信感は大きい。
しかし、その成立の過程がどのようなものであったかにかかわらず、いったん成立すると、その法案は力を発揮し一人歩きを始める。

この法案成立の影響力や後遺症については、ブログ「メディアの風」に詳しいので、ぜひ参照することをお勧めする。http://www.k2.dion.ne.jp/~m-kaze/index.html

日本の各政党の勢力図を見ると、必ずしも一党独裁ではないが、実際にはそれに近い形での政治が行われている。
余りにも野党勢力がだらしないことは周知だが、変な言い方になるが、与党自民党も総裁選で対立候補を立てることができないありさまで、かつての自民党に存在した自浄作用は姿を消した。

連立を組んでいる公明党も権力維持のために、変節するばかりで、当初彼らが誇りと共に持っていた筈の歯止めの役割を放棄してしまっている。

何を今さらではあるけれども、ひとつの政党の力が強大になり過ぎたことへの大いなる反省が必要だ。
こういう図を見ていると、改めて、選挙の大切さ、重要さを実感せずにはいられない。

「国籍を変えようかしら」と妻は言った。
彼女は中国国籍の朝鮮族である。
当然ながら日本での選挙権は無い。

医師である前夫と共に国からの派遣で20年ほど前に日本に来た。
夫は一年の留学の予定だったが、ひとり娘の強い意向もあり、夫妻はそのまま日本に在住することを決め、日本の永住権も得た。

訳あって離婚することになり、その後ボクと一緒になった。
ボクとは婚姻関係にはあるが、国籍が異なるので入籍はできない。

妻は今後中国に戻る気はないので、日本国籍を取ろうかどうしようかと迷っていたのだったが、国籍を変えなければならない特別の強い動機はこれまでなかった。
吉林省の大学の法科を卒業後、吉林省政府の仕事に就いていたという履歴の持ち主とは云うものの、決して政治的な人間ではない妻だが、今回の一連の日本の政治状況には感じるものがあったらしく、これまでさほど関心を示していなかった選挙権の取得に意欲を見せている。

それに何よりも彼女は日本が大好きなのだ。
「日本で働いて、日本人同様に税金を納めているのだから、選挙権があるのは当然だ。この際、日本国籍に変えることをボクも勧めるよ」と妻に言っている。

国籍を変える手続き自体はさほど困難なことではないが、その持つ意味は重い。
ある日を境にして中国人から日本人になる訳で、同時に日本に責任を負うことになる。

日本に生まれ、日本に住んでいるとごく当然のこととして選挙権があり、普段特別に意識することもなかったのだが、妻の存在でボク自身も改めて選挙権の大切さを意識することになった。

その妻も国籍を変えるという代償を支払うことで、これまで無かった選挙権という特別の権利を取得できることになる。
当たり前のことだが、この意味は大きい。

考えてみれば、どの国にも選挙権を得るために多くの国民の血が流されて来たという永い歴史がある。
選挙権は本来はとても価値ある権利なのだ。

こうして積極的な意志のもとに選挙権を手にする妻が、どの政党に投票するかなど、どのようにこれを行使するかは彼女の選択の自由だが、清き一票となることは間違いない。

      「政治家を 生かすも殺すも 票次第」


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決算の季節

またもや決算の季節がやってきた。

わが社は9月を決算の締めとしている。
つまり、昨年の10月から今年の9月までが、わが社の経理上の一年となる。
この間の収支を基にして決算書を作成するのだが、見通しとしては収支トントンという所に落ち着くだろうと推測している。

それにつけても、毎年のことだが、胃が痛くなる思いをするのはテレビ局から頂く制作費のことである。
各テレビ局による制作費の削減は何も今に始まったことではないが、実に厳しいものがある。

「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」との俗に伝えられている徳川家康の言葉ではないが、この言葉はそのまま、町場の制作プロダクションにはリアリティーをもって迫ってくる。

10年前と比べると局からの制作費は少なく見積もっても半分以下になっているし、メディアによっては、それよりももっと大幅な減額が行われている。
本当にこの制作費で面白い番組を作り、責任をもって視聴者に提供できるのか、との疑問を常に胸に抱きつつ、それでも必死でこの仕事に取り組んでいる。

NHKを除く東京キー局の四半期ごとの決算内容を見ていると、好調な局と不調な局はあるが、ボクたちからみれば、それぞれ大きなあるいはそれなりの利益を上げている。
ああ、収奪の構造の下でボクたちは仕事をしているのだなと実感する。

この構造は一部大企業とそれを支える下請けの中小零細企業群の宿命的構図そのままである。
しかし、嘆いていても何事も進展はないので、その中でどのように生き抜けば良いのかを考えることになる。

元来、番組を制作したいとの思いや衝動を持ち、この仕事に従事している制作者たちのほとんど多くは、制作の仕事がたまらなく好きだからであり、曲がりなりにも表現者としての自分の存在に喜びを見出している者たちである。

自分の思いや考えを表に出して生きて行ける仕事は世の中にそれほど多くはない。
その意味では、制作の仕事に興味を持ち、それを成就することで、同時に生活の糧を得ることができることほど、幸せなことはない。

そんな仲間の集団だから、どうしても制作する番組の内容重視で、お金は二の次ということになる傾向がある。
好きで仕事をしていることは素晴らしいことなのだが、経営上の観点から見れば、同時にそれがボクたちの最大の弱点にもなっている。

テレビ局の人たちもそれをよく知っている。
だから、テレビ局にうっかり弱音でも吐くと「別に嫌なら良いよ。他にやりたいと言っている制作会社は沢山あるからね」ということになりかねない。

それまで共に汗を流して制作に携わっていた仕事仲間だと思っていたのに、突然クライアントに豹変するのである。
これは恐らく、テレビ業界に限らず、どの業種にも共通することではあろうと思うから、あらためて驚くことでもないが、用心々々である。

とにかく、良い番組を作りたいとの思いが先行して、予定していた以上のお金を使うケースが多々出現する。
月に二度行っている経営会議で、社外取締役や監査役などから、この点についてしばしば厳しい指摘を受けることになる。

決算を前にしての、先日の経営会議でもこのことがテーマとなった。
「社長はブログで安倍政権のことをいろいろと厳しく批判しているが、自分の会社のスタッフのお金に対する無責任体質をどう考えているのか」との監査役からの鋭い突っ込みを受けたりする。
確かに一理あるので、ボクは苦笑いするしかない。

そして、今後の半年間は特に収益をアップさせるための強化期間として、ボクたちの最大の弱点である予算管理の意識の変革に力を注ごうということになった。

その議論の中で、若い取締役から、たとえば赤字番組を黒字にすることができたり、その取り組みに実績を上げたりすることが出来た者には報奨金を出すなどの制度を作るべきではないか、との意見が出た。
これに関しての賛否両論の侃々諤々の議論が面白かった。

ボーナスなども能力に応じて査定すべきだ、との意見もだされたし、能力に応じた報奨金は必要だとの意見もあった。
わが社では、夏と冬に2回、僅かながらだが一時金を支給している。
これは基本的には査定はなく、一律定額支給の形をとっている。
給料に関しても査定という考えは取り入れていない。

スタッフ個々には才能の有無や能力の差があることは当然である。
しかし、どのスタッフもそれぞれの能力に応じて出来る限りの努力をして懸命にがんばっている。
そのことが素晴らしい訳で、結果は別の問題であると考えている。
だから、査定をしないとボクは硬く決めている。

監査役からは「金銭的インセンティブは、必ず会社の荒廃を招く。『能力に応じて働き、必要に応じて受ける』を社是とするべきだ」との意見が出された。
ボクも全く同感であるし、これまでそうして来ている。

わが社では、月に一度必ず行う全体会議で2~3名に社長賞と企画賞を出すことは決めている。
たまに該当者なしのケースもあるが、それで賄えば良いことである。

インセンティブは必要だが、それを金銭にしてはいけない。
それならば、初めからこの仕事をしていないからである。

   「今日生きる お金があれば それでいい」


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憲法第九条とエゴイズム

先のブログで、安保法案に関連して、憲法第九条の不戦の意志について書いた。
それについて、ボクの尊敬する聖書研究家の道川勇雄さんから次のようなメッセージをいただいた。
まず、それを紹介したい。

「憲法第九条の戦争放棄の思想は人類としての夢であり意義のある実験である。この壮大な実験を成功させる努力を続けられることは大きなチャレンジである。」と書いておられますが、人類はすでに実験済みなのです。
イスラエル・ユダヤがその実験民族でした。そして、失敗しました。
失敗の経緯を記録しているのが聖書です。
失敗の理由は、個々人に巣食う我執(エゴイズム)でした。
イエスは、このイスラエル・ユダヤが失敗した「平和共存」の条件を、エゴイズムからの百八十度の方向転換である「悔改め」として要請しました。
ところがこれを説いたイエスをイスラエル・ユダヤ人は十字架につけて殺しました。
そのことは、「平和共存」の条件である「より弱い者の弱さを負う」ことが、生来の人間には不可能であることを実証したことになります。「全に対する個の背反」というエゴイズムからの百八十度の方向転換は、個が自らを「無きに等しい者」として自覚するまでは不可能であることを意味します。
お書きになられている「壮大な実験を成功させる努力」は、すでに聖書が達しているこの帰結をベースにして始める必要があるのでしょう。

道川勇雄さんを、ボクは勝手に日本一の聖書研究家である、と思っているが、まんざら的外れではないと信じている。
道川さんによると、日本の聖書研究の第一人者は、三笠宮崇仁親王だとのことである。

三笠宮は現在の天皇の叔父にあたる。
1915年生まれで、現在、存命中の皇族の中では最年長であり、古代オリエント史を修めた歴史学者でもある。

神道を奉ずる皇族が聖書研究の専門家というのは意外な感もあるが、皇室というのはそういう存在でもあるらしい。
秋篠宮の二女である佳子さんが、学習院大学を中途退学して、国際基督教大学に入学したのも、実は皇室の聖書研究の一環の流れであるとも聞いている。
そうだとすると、道川さんは、三笠宮に次ぐ聖書の研究家ということになる。

道川さんからのメッセージで、聖書とはそういう書であったのかと初めて知ったのだったが、とても興味深い。
彼のメッセージに書かれている内容を理解するには実はボクの教養があまりにも乏し過ぎるのだが、意味はある程度は分かる。


エゴの存在は人間である限り、否定することはできないし、極言すれば、エゴが人間を存在させているとも云える。
実際に、そのエゴが原因で日常生活でも争い事は絶えることはないし、大きくは地球上で戦争が行われなかったことは一瞬として無かったことも事実である。

平和共存は理屈の上でも、また実際上でも絶望ということになる。
聖書が指摘している通りに、そこからが、スタートである、というのは正論であり、また当然であると理解する。
しかし、絶望していても始まらない。

たとえば戦争をもっとも身近なところで見るとどうか。

わずか500年ほど前の日本は、戦国時代と称されているように、何十もの国に分かれ覇権を巡って戦争を繰り返していた。
目的は日本の統一にあった。
当時の戦国武将たちの中で、現在の日本の姿を予想できた者が果していたかどうか。

同じ民族とは云え、文化も言葉も異なっていた。
それが、明治維新を経て、ようやく日本はひとつの国になった。
情報文化の発達により、言語も文化も均一化されて現在がある。
その間、失われたモノもあるが、少なくとも日本国内での戦争は無くなった。

日本は朝鮮系、中国系、南方系等々を含めた異民族の混血で成り立つ国だが、その構成が比較的分かり易い民族である。
未来は計り知れないが、当分は過去では当たり前だった日本国内での内乱を含めた戦争は想定し難い。
少なくとも日本国内の戦争は克服できた。
この歴史の事実をどう受け止め、考えるかである。

過去も現在も宗教は平和を妨げる大きな要因だし、民族の対立もある。
経済や政治体制の違いや大国の野望もある。

それらの諸事情を前にして、世界の平和などという言葉は何の意味も持たないかのようにも見える。
それでも、人間がエゴという業から逃れることができず、戦争のない世を作ることなど不可能だよ、との聖書による検証結果が存在したとしても、ああ、そうですかと戦争肯定に向かうのではいかにも情けない。

だからこそ余計に、戦争を否定するとの目標を掲げ、そこに人類が向かう努力をしようとする意志の存在が大切である。

科学の世界で、人間が想像したり、描いたりする図は必ず達成できると聞いたことがある。
政治の世界もそうはならないのだろうか。
可能か不可能か、つまるところは、その成否に関わらず、それぞれの人間の生き方が問われる問題なのである。

不遜にも他国に侵略し、挙句の果てにアメリカに戦争を仕掛け、その結果手ひどい敗戦を喫するという惨めだが貴重な体験を経た後、日本は70年間という、歴史からすると短いかもしれない時間だが、直接戦争の体験をしない形で生きて来た。

勿論、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争等々で日本は後方基地としての役割をはじめとして間接的、直接的な形で戦争に加担して来た事実はあるから、戦争と無縁であった訳ではない。

しかし、戦後、表向きは無事に平和国家としての道を歩んで来た。
その根拠となっていたのが憲法第九条であることは間違いの無い事実である。

少なくとも、曲がりなりにも不戦の意志を国家の意志として貫いてきた。
この形をあと10年でも20年でも、1日でも長く続けることはとても意味のあることである。

刻々と移ろう世は無常である。
変化する。
人類の命にも、地球の寿命でさえも限りはある。
恒久や永遠など求めることはもともと無理なこと。

それでも、1日でも長い平和を願い、そのための努力を重ねることは、それほど困難なことではない。
それを自らの意志で放棄するほど愚かなことはない筈である。
憲法第9条はそのためにも絶対不可欠な平和のための砦にするべきである。

ちなみに、聖書は人間絶望の書であると同時に、神による希望の書であるという。
希望の書と言える理由は、神によって「宇宙万物が再完成」されることが確約されているから、だそうである。

しかし、神は所詮人間が創り出した概念に過ぎず、その存在を証明する方法さえ持たない。
文字通り、苦しい時の神頼みで、そんな概念上の存在が保証する確約を当てにすることは出来ない。

聖書を含めた人間絶望論のリアリティーの下で、人間のことは人間が責任をもって始末するしか、他に方法はないのである。
たとえそれが絶望的に困難なことであっても、何度でも失敗を繰り返して挑戦するしかない。
それが平和への唯一の生き方であると思う。

 「神さまが ホントに在れば いいのにな」


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本音と建前

物事には常に表と裏がある。
建前と本音という云い方もする。

しかし、本音をすべて吐露しての議論というのは現実には難しいようである。
特に政治の世界では、それが顕著に現れる。

国会などでは、ほとんどすべての議論が建前で行われるので、何が話されているのかが分からないし、本当の姿が見えて来ない。
政治評論家と称する専門家たちが解説してくれるのを聞いて、ああ、あれはそういう意味なのか、などと頷いたりもするのだが、それでもその解説もやはり建前の域を出ないことが多いので結局のところは何だか分からない、ということになる。

一方、野党の先生方も、国会質疑などで、慣れ合いなのか勉強不足なのかは知らないが、舌鋒だけは鋭いが、内容が伴わないので、不毛の論議で終わる。
政局がらみの時だけは野党の活躍が目立つ、というのが現状だ。

先日、弁護士のHさんと食事をした。
Hさんは60歳を少し過ぎた熟練の弁護士である。
つい最近、ある案件で大変お世話になり、まずはお礼を兼ねての酒席からお付き合いが始まった。

安保法案のことが話題に上がった。
「8月30日の国会正門前のデモは3万人ですね。あの広さではそれ以上の人数は無理ですね」とHさんは云った。

主催者は12万人と発表したが、警察の発表では3万人となっている。
こういう数字は主催者側と警察とでは大きく異なるのが通例である。

いったい本当のところはどうなのかと、今回のデモの参加者の実数を調べた人がいる。
実際にデモに参加したその人の調べだと、国会正門前には3万人程度が最大の許容人数だと云う。
しかし、厳重な規制が敷かれた状況下で、正門前にたどり着けずにその周辺にいた参加者たちも多い筈だと、その人は観察した。

そこで、当日国会周辺の地下鉄の最寄り駅4駅の改札を出た人数を調べ、そこから差し引きして推測したデモ参加者人数は、およそ7万人以上になるという。
赤坂見付駅はどうしてもデーターを開示してくれなかったのでそれを勘定に入れると、更に参加人数は増える。

従って、国会正門前のデモ参加者は3万人という警察発表も正しいし、周辺の参加者を含め12万人という主催者発表も正しいのではないか、というのがその人の結論である。
なるほど、物事は調べれば、当たらずと言えども遠からず、実態に近い姿に近づくものである。

「それにしても、国会議員がデモに参加して、それに頼るというのはどんなもんでしょうかね」とHさんは云う。
選挙によって選ばれ、国民の負託を受けた国会議員は、国会で死力を尽くすべきで、デモに参加するなどは無様だとのHさんの論は正論である。
勿論、政治活動の一環としてデモに加わることは自由であるが、その力に頼ろうとするのではいかにも情けない。

「国民も、選挙で選んだ結果がこういう形の政治を生み出しているのだから、今さら何を騒いでいるのか、と私も思っているんです」と同席した妻の意見もあった。
これもまた、正論である。
憲法改正を初めから謳っている政党を支持し、圧倒的多数の国会議員を選出したのは、われわれ国民であることはその通りである。

しかし、共同通信8月14、15日の世論調査によると、戦後70年に当たって安倍首相が発表した首相談話で、安倍政権の支持率が多少持ち直したとは云え、依然として不支持率が支持率を上回っている。

また、安保法案の今国会の成立に関しては、賛成29.2%、反対が62.4%と多くの国民が反対していることもまた事実である。
そんな世論の中にあって、安保法案が今月14日の週内の成立に向けて進んでいる現実がある。
間違いなく安保法案は成立する。

これらをどう考えるかである。
野党の非力やだらしなさは腹立たしいし、国民も前から分かっていることをいまさら騒いでどうなるの、という面はあるが、それでも、これが議会制民主主義の形なのだから仕方が無いと割り切れない人々が立ちあがったデモを愚かな事とは断罪できない。

今回のデモに集まっているのは、組織動員は勿論あるだろうが、多くは普通の人たちである。
この法案が内包している危険性を危惧する一般市民である。

「安保法案を戦争法案だと思いますか」とHさんは少し皮肉っぽくボクに問うた。
「この法案が成立したから、はい、戦争、などという風には思わないし、いくら安倍政権でも積極的に戦争をしようなどと考えているとも思わない。ただ、この安保法案の成立に続いて、憲法改正が待ち構えていることは事実です。これは許してはならない。ボクたちに最も必要なのは、戦争は絶対にしない、という不戦の決意だと思います」いささか単純めいて青臭いかもしれないと思いながらではあったがボクそう応えた。

「わたしも戦争をすることには反対です。それは同じです。しかし、集団的自衛権の行使を認めていない国は無いでしょう」とHさんは云った。
「不戦の決意を国家の決意として全世界に発信することが何よりも大切で、その決意をあやふやにするような一切の言動や法案は慎むべきだと思っています。中国や韓国、北朝鮮などアジアの近隣諸国と友好な関係を築くことを第一義として、それらの国々に不安を感じさせるようなことはするべきではないと思います」

先日書いた、降伏文書でも明らかなように日本は「天皇および日本国政府は連合国最高司令官の下に、隷属するものと定める」との条件の下で先の戦争を終結した。
そして占領下の屈辱を味わわされ、それが解かれた後も、実質的にはアメリカに従属する形で現在があることは誰もが認めるところである。

アメリカに叛旗を翻した政権はアメリカの手で倒されるのを見て来た。
従属の中で独立国としての体面を保つことは困難である。
政権運営を担う者の苦労は察するに余りある。

そして安保法案の本質もここにあることは理解できる。
日本に脅威を与える国家は中国や北朝鮮などであろう筈はなく、最も恐ろしいのは実はアメリカである。
そうだからと言って、唯々諾々と安保法案を受け入れるのは賢明なことだろうか。

一方で、憲法はアメリカから押し付けられたものだから、これを改正すべきだとの論がある。
しかし、そうならば、ここはそれを逆手にとって、日本には、先人があなた方から頂いた大切な日本国憲法がある。
これを守って行くことがそれを受け継いだ子孫としての役目です、との論を張るべきだと思う。

実際に、多くの憲法学者が安保法案は憲法違反であると断定している。
近くは、山口繁元最高裁長官も安保法案を違憲であるとの見解を示した。
憲法の番人である最高裁の元トップの発言の意味は重い。

その意味では、日本国憲法は日本を守る最大の武器である。
そして、それはアメリカからいただいたものだ、との強みもある。

翻ってみれば、もともと議会制度を含めて、日本の近代化に向けての動きの中で、日本独自の文化は賛否は別にして天皇制の他に何があるのだろうか。

日本はこれまで、古くから中国や朝鮮半島から文化を取り入れ、明治維新以来西欧列強に蛮族と言われ、攻め滅ぼされないために文明開化と称し、競って西欧文化に習ってきた。

古来から、外来文化の長所を日本流にアレンジするのが日本のお家芸の筈である。
日本の神話でさえ、外来の思想を取り入れているということも耳にしている。

アメリカの考えた憲法であっても良い所は受け入れることに躊躇する理由は無い。
ことに憲法第九条の戦争放棄の思想は人類としての夢であり意義のある実験である。
この壮大な実験を成功させる努力を続けられることは大きなチャレンジである。

時代の変化に伴い、憲法を含めた様々な約束事の見直しはする必要はあるだろう。
世界は動いているし、生き物である。

現実の動きとそれら約束事とのかい離はある程度は正すべきである。
硬直化すれば破綻を来すことになる。

しかし、その根っこにある大切な芯を変えることがあってはならない。
ボクは特別の思想信条がある訳ではない。
何十年来、支持政党もなければ政治にも鈍感で、無責任を任じて生きている。

しかし、少なくとも、憲法第九条の不戦の思想だけは大切にしたいと考えている。

   「建前を いまこそ生かせ 第九条」


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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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