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平気で生きること

ボクが敬愛する作家で脚本家の早坂暁さんは、今年で86歳になられ、益々お元気だが、かつて若い頃にガンを宣告され、死の淵に立たされるという体験をされた。

さすがの早坂暁さんも、ご自身の死を前にして深く悩み彷徨われたとの話をお聞きしたことがある。
そんな時に出会ったのが、正岡子規の病床日記「仰臥漫録」で目からウロコだったという。

正岡子規は、肺結核から脊椎カリエスを発症し、寝たきりの闘病生活を送った。
子規の背中や腰にはいくつもの穴があき、膿が溜まった。

看病にあたった妹の律がその膿を拭きとるのだが、その際の痛みは尋常ではなかったようで、余りの痛みに耐えきれず、痛い、痛いと叫ぶ声が、子規の住んでいた根岸の住居から、遥か遠くまで響き渡ったという逸話まであるらしい。

「仰臥漫録」はそんな子規が病床で書いた日記で、日々の食事の献立から、病苦のさまや、家族への不満など思うがままを赤裸々に記したものである。

実は、この「仰臥漫録」に出会う前に、早坂さんはフランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーを日本に初めて紹介した自由民権運動の指導者であった中江兆民の著作「一年有半」に救いを求めておられたと云う。

中江兆民も喉頭ガンで余命一年半と宣告され、それなら残りの命がある限り、思い切って生きようと「一年有半」を著した。
その内容は、社会評論、人物評論、文学論、人形浄瑠璃観劇の感想など多岐にわたり、思っていることや考えていることを書いたものだ。
死を前にしての中江兆民の見事な生き方と相まって、この書が大反響を呼び、当時ベストセラーズとなった。

ガンの告知を受けた早坂暁さんは、ご自身の言葉を借りれば『この「一年有半」を杖がわりにしてわが死と対決し、突破しようとする算段だった』が正岡子規の「仰臥漫録」に見事打ち砕かれてしまったと云う。

中江兆民と同じような病状にあった正岡子規は、「評は一言で盡きる。平凡浅薄」と中江兆民を斬って捨てていた。
「仰臥漫録」で「生命を売物にしたるは卑し」とも。

子規が死の二日前まで書き綴った凄絶な随筆集「病床六尺」がある。
その中に「兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就いてはあきらめがついて居ったように見えるが、あきらめがついた上での天命を楽しむというような域には至らなかったと思う」とある。

余りにも深すぎて理解しがたいが、中江兆民は病に苦しみ、しかし、その苦しみに耐え、さらにそれを突き抜け、残りの人生を命ある限り生き抜こうとしている、しかし、兆民よ、お前はそこまでだろう、そこから楽しむという域にまでは達してはいないだろう、それじゃ駄目だよ、と子規は云ったのだろう。

さらに「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きていることであった」と語っている。

なるほど、早坂暁さんの目からウロコの秘密はこんなところにあったのか。
理屈では分かっても、いざ現実となると体感することはなかなかに難しそうである。
切実に死と向き合った者にしか見えない世界に違いない。

その後になって、早坂さんのガンの告知はなんと医者の誤診であることが判明した。
危うく命拾いされた訳だが、強烈な臨死体験をされたのだった。

いま、早坂さんは、その時の臨死体験を含め「死」をテーマとした著作に取り組まれている。
そろそろ脱稿間近とも聞いているが、早坂さんの並はずれた精神力と透徹した眼から著される「死」とはどういうものかとても楽しみにしている。

      「悟りなど 金庫の奥に カギを掛け」


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女性の時代

この日曜日、散歩がてら歩いて新宿に行った。

暮れなずむ頃、西口にある京王デパートにたどり着き、妻は少し買い物をしたいというので、ボクの方は金魚売り場をのぞこうと屋上に向かった。
久し振りの屋上はすっかり様変わりしていて、以前まであった子供たちのための遊園地はなくなり何やら工事中の囲いで覆われている。

目当ての、鯉や金魚の売り場はビアガーデンに変貌し、おおぜいの人たちで賑わっていた。
期待を裏切られて、ボクは所在なくベンチに座り一服した。

見るでも見ないでもなくビールを楽しむ人たちの群れを眺めていて、気が付いたことがある。
それは、客のほとんどが若い女性たちで占められているということだった。

男の姿はまばらで、年配者は皆無だった。
2~3人、あるいは5~6人連れの女たちだけのグループが豪快にジョッキーを傾けている。
屋外という解放感なのだろうか、誰はばかることなく、高らかに笑い興じている。

ボクなど古い人間は、ビアガーデンといえば、中年の男性サラリーマンというイメージがあるのだが、日曜日の夕刻という条件があるにもせよ、時代は変わったなあ、との印象が深い。

女たちの嬌声を背にして、その場を立ち去ったのだったが、それにしても、女性たちのパワーは凄くなったものである。
わが社の長老のKさんに「女性が強いというのはどういう時代ですかね」と聞くと「それは日本が駄目になったということでしょう。見てごらんなさいよ、大企業の社長連中は、みんな腰が座らなくてオタオタしているじゃないですか」と即座に応えた。

ボクたちの会社でも、スタッフのおよそ半数近くが女性で、皆元気が良い。
最近、会社のすぐ近くに立ち食いのステーキ屋が出現したのだが、文字通り肉食系の女子スタッフたちは300グラムもある肉塊を見事に平らげに通っている。

立ち食いと云えば蕎麦と相場が決まっていたが、「俺たちのフレンチ」以来、洋食にも立ち食いが現れた。
ボクなどまだまだ立って食べることへの抵抗感があるし、女性がねぇ、とも思うが、そう云う考えは時代遅れのようである。

一方で女性蔑視も甚だしいと叱られそうな「女々しい」などという言葉があるが、近頃の女性には、この文字は当てはまりそうもない。
「男男しい」と文字を変えなければならないのかもしれない。
とにかく女性が元気である。

しかし、振り返ってみれば、もともと女性は逞しかった。
子供を産む能力を持っているのは女性だけだし、子を育て日常の暮らしに深く根をおろし生理で動くことができる女性の方が、理屈や社会性を根拠として行動する傾向のある男よりも、ドンと肝が据わっているのは当然のことかもしれない。

2週間ほど前に届いた仕事仲間である女性のドキュメンタリー制作者からのメールにそんな頼もしい女性のことが書かれていた。
少し長いが興味深い話が綴られている。

『「標的の村」というドキュメンタリーが昨年ありました。琉球放送で3年間撮ったやんばるにオスプレイが来るのに対する住民の反対の記録です。
このディレクターが局をやめてフリーになって辺野古を撮った「戦場ぬ止み」が昨日からポレポレで上映されるので行ったら、1時間前で既に立ち見も満杯で入れませんでしたが、別のチームが撮った「圧殺の海」という辺野古の現状を描いたのは見ました。
陸自が乗り込んで、道路にぎざぎざの鉄板を敷きつめたり、ゴムボートに乗って測量を止めようとする人を、鉄パイプで突き落としたりする映像が生々しく、やりきれない怒りを覚えます。
これらの映像の中で、私が目を離せなかったのは、普通のおばあたち。
ごく自然体で叫ぶでもなく、子どもたちのために、当たり前にノーと座り込むおばあと女性たちの姿でした。
理論でなく、堂々と「いかん」「許せん」と悠然と座っていて動じない。
3月4日満月の夜、沖縄では三シン(線)の日で辺野古の金網の前で、おじいやおばあが夜通し歌い踊ったと聞きました。
辺野古へ行ったのは1969年、パスポートで行ったきりで、いま辺野古でこのおばあたちに会いたい、撮りたいと血は騒げども、飛行機代すらないていたらく。わが身を恥じています。』

ところで、このほど、わが社では来年4月入社予定の新規採用試験を終え、3人の新卒者の採用内定を決めた。
男子1名、女子2名である。

どうしても自然に女性の人数が増えて行く傾向にある。
良いとか悪いとかの問題ではなく、これが現在の日本の形であるようだ。

現在わが社の取締役はボクを含めて7名。
女性は財務担当の常務取締役1名だけである。
そろそろ、骨太の制作現場あがりの女性取締役が経営陣に参画しても良い頃だと考えているのだが。

      「わが家にも いつもおわすは 山の神」


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あるパレードの風景

ボクが住んでいる信濃町から四谷三丁目を経由して新宿の繁華街までプラプラ歩いて3~40分。
ちょっと遠回りをして、神宮外苑から千駄ヶ谷の駅前のイチョウ並木を通り北参道口から明治通りを行っても小一時間で新宿に着く。
ほど良い散歩コースだ。

先日の日曜日はもっと遠回りをして、青山一丁目経由で新宿に向かった。
途中で一息入れようと千駄ヶ谷の駅前にある喫茶店のテラスでコーヒーを飲んでいると、遠くからブラスバンドの音が聞こえ始め次第に大きくなって来る。

演奏曲は早稲田大学校歌のようだ。
都の西北 早稲田の森に……久々、耳にする懐かしいメロディーに思わず見やると、黒い学ラン姿の数人からなる応援団の学生の持つ大きな校旗を先頭に、ブラスバンドの一行が続き、その後ろからチアガールの集団、そして手に手に提灯を持った何百人とも知れぬ学生たちが元気よく車道を歩いて来る。

どうやら、六大学野球で早稲田大学が優勝したらしく、神宮球場から繰り出して来た優勝祝賀のパレードらしかった。

脳裏に50年以上も前の光景が突如甦った。

ボクも、早稲田大学の学生だった頃、一度だけ神宮球場で行われる早慶戦の応援に行ったことがある。
六大学野球でも早慶戦は特別の戦いだった。

その試合の記憶は全く無いが、試合の後、新宿の歌舞伎町に繰り出し、明け方まで乱痴気の大騒ぎをした。
当時は物騒だと言われていた歌舞伎町にあって、誰が払ってくれているのか分からない酒を思いっきり飲んだものである。

すでに卒業し社会人となった先輩なども来ていて、一緒になって騒いでいた。
恐らく、そういった先輩連中のお世話になっていたのだろうと思う。

慶応の学生たちは銀座に、早稲田の学生は新宿に、というのがその頃の習わしだった。
歌舞伎町のお店も早慶戦のある日だけは特別の応対をしてくれていたようで、学生たちの狼藉ぶりを受け入れてくれた。

迷惑に違いなかったが、そんな定例となった行事を許容する度量があった。
ある意味大らかな時代でもあったのだろう。

パレードの長い行列を眺めながら、すでに幻となった過去のさまざまな一瞬の映像が点滅した。

ボクは妻を促し、喫茶店を出て、車道を行くパレードについて歩道を歩いた。
楽隊やチアガールたちは行列の各所に配置されている。

眩しいほど、溌剌として踊る無邪気なチアガールたちが、とても幼く見えた。
妻はしきりに彼等の写真を撮っている。
娘が同じ大学を数年前に卒業したからかもしれなかった。

「何だかしらないけれど涙が出て仕方がないわ」と妻は感動している。
勝利を祝い、誇らしげに行進する若者たちの姿は純粋で確かに感動的なものだった。

パレードの行列が、北参道口の交差点を右に折れ新宿の方向に向かうのが見えた。
「どこまで行くの?」とボクは、まだ暑い日差しの中で学生服を身に付けた応援団の学生に聞いた。

「早稲田大学まで行進します」と学生は礼儀正しく答えた。
いかつい顔に、しかし、まだ幼さを漂わせている。

ああ、俺にもこんな時代があったのだな、と思った。
過去の感傷に心を移す自分を不思議に感じた。

「もし、戻れるとしたら、何歳に戻りたい?」と妻はボクに尋ねることがある。
そんな時必ず「戻りたくはないよ。今が一番良いよ」とボクは答える。
もし、仮に戻っても、きっと同じ道を歩むに決まっているからである。

しかしこの日のパレードは、ボクに青春のヒトコマを甦らせてくれた。
その青春の正体がどういうものかは自分でも説明できないが、あえて言えば、人生は可笑しなものだな、とでも表現するのだろうか。

以前、施設にいる母を見舞った時、母がボクの顔をじっと見て「人生は可笑しなもんやな」とつぶやいたことがある。
ずっと、その意味が分からなかったが、やっと母の言葉が理解できたような気がした。
「人生は可笑しなもんや」。

パレードは賑やかに明治通りを新宿に向かった。
ボクたちも、そのパレードにずっとついて歩いた。

そして、新宿三丁目の伊勢丹デパートの前の喧噪の中を早稲田鶴巻長の方にさらに行進して行く学生たちの姿をいつまでも見送っていたのだった。

   「人生は 可笑しなもんや 異なもんや」


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馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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