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ある老放送作家の悩み

「長生きしてね」が妻の口癖である。

ボクとの年齢差がいささか大きいので、気になるらしい。
そして「お墓はどうすれば良いのかしら」と続き、「遺言書を書いておいてね」で終わる。

ボクは根っからの浮草で、財産などとはからっきし縁が無く、カバンひとつあれば、いつでもどこへでも移り住むことができる。
だから、遺言書を書くのはよいが、書いたとしても遺すべきモノがないので、ほとんど遺言書の体をなさない。

いずれにしても、ボクの死が、妻にとっての大きなテーマであるらしい。
確かにお墓をどうするのかは、残される者にとっては重要なことなのだろう。

近頃では、樹木葬をはじめ散骨など自然葬も多いようだ。
ボクの生涯の友であった馬渕直城は、散骨を希望していた。
遺族たちは彼の第二の故郷であるカンボジアのトンレサップ湖で小舟を仕立てて、その骨を撒いた。

ボクなどは、自分が死んだ後の骨の始末などどうでも良いことのように思うのだが、実際は、どうやらそういう簡単なことでもなさそうである。

先日、放送作家のHさんが会社に遊びに来られた。
Hさんは今年83歳になられる。
すでに現役を引退され、今では悠々自適の日々を送られている。

囲碁を楽しみ、ピアノなども習っておられる。
暑い季節には、軽井沢のはずれの別荘で過ごされ、何不自由のない暮らしで、傍目からは何の悩みもないかのように見える。

しかし、Hさんは、実は大きな悩みを抱えておられる。
それは、お墓の問題である。

Hさんには2人の娘がいるが、共に嫁いでいる。
すでに50歳を過ぎた上の娘には子供が1人いるが、これも女である。
下の娘夫婦に子供はいない。

Hさん自身も女系家族で、男の兄弟がいない。
東京の谷中にH家代々の墓があるのだが、Hさん夫妻を最後として、この墓を守って行く者がいなくなる。
いったいどうすれば良いのか、というのである。

すでに、10年ほど前から、ボクはこの悩みを聞かされていた。
娘に養子をとらせれば良かったと悔やんでおられた。
しかし、恋愛結婚したその相手も長男で、向こうの家を継がなければならず、その願いも叶わなかったようである。

そう云えば、ボクは3人兄弟で、弟と妹がいる。
ボクが故郷を逃げ出したので、否応なく弟が本家の家屋敷を継いでいる。

妹は嫁ぎ、弟には2人の娘がいるがすでに嫁ぎ、他家の人となっている。
小田家代々の墓も守り手がいなくなる。
ボクはたいしたことではないと思っているので、弟が今後の対処についてどう考えているかを確かめたことはない。

恐らく、こういった例は多いことだろうと思う。
かの天皇家でも世継ぎで苦労している様子である。

現在の一夫一婦制では、昔のように家名を代々無事に受け継いでいくことは難しいのだろう。
特に家父長制の日本社会ではさらにそれは困難なこととなる。

ボクにとってはどうでも良いと思えるお墓だが、Hさんが真剣に悩まれる気持ちや考えは、ある程度は推測できる。

代々のお墓を守り続けて行くことは、つまり家系を絶やさないということであり、それは深くその家のアイデンティティーに係わる重大事である。
家系図と同様、お墓にはその家の歴史が刻まれている。

それぞれの家には、それぞれの家訓や教えなど独自の文化があり、その文化を守り、次に伝えて末永く代々の家系を継いでいくことは、それなりの意味があるだろう。
それを自分の代で終わらせることに、重い責任を感じるのは自然なことかもしれない。

「なぜ人は生きるのか」などという難しい設問があるが、簡単に言ってしまえば、人は子孫を残すために生きるのであり、それ以外の理由は無いはずである。
これは、この世に生を受けたすべての生物共通の原理で、つきつめれば、種の保存以外に生物生存の理由はない。

自分をこの世に存在させてくれた気の遠くなるような祖先の代々の営みを自分の代で絶やすことは本来は許されないことである。
だから人はお墓という記念碑を作り、自分を生み出してくれた祖先に感謝し、さらに次の代に伝えて行くことを肝に銘じる。
その意味では、Hさんの悩みはとても自然の理にかなっている健全な人間本来の自然の姿である。

しかし、俯瞰で見れば、実際にはHさんのDNAは2人の娘に受け継がれ、彼女たちを通して次の代に引き継がれて行くことを考えれば、それほど悩むことでもない。
すでに種の保存の役目は立派に果されている。

ボクたち多くの町人や農民の子孫にとっては、どうせ家名など、明治時代以降に与えられたものであることを考えれば、気も軽くなろうというものだ。
しかし、こういう考えをするのも、ボクが浮草である故かも知れないとも思う。

Hさんは、生き字引の言葉通り、とにかく博識な方である。
これまで、ボクが何かを聞いて分からない、ということはなかった。

「いや、詳しいことは分かりませんがね………」という前置きがつくのだが、いやはや、実に詳しくご存知なのだ。
世の中の成り立ちや仕組みをその原理原則から現実の形までを良く理解されている。

それだけなおさら、出口がなく、解決方法の見つからない難問に深く悩まれているのだろう。
Hさんと食事をご一緒しながら、慰める術もなく、ボクは何でもないように笑いながら、ただただ明るく振る舞うしかなかった。

      「馬鹿のよに 笑いとぼけて 死を語り」


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不祥事が起きた!

恥を忍んで、つい最近、わが社で起きた不祥事のお話をする。

ある民放のローカル放送局に出向させていた若いスタッフが、任期半ばで戻されるという事態が起きたのである。
本人からの虚偽の報告が二件続いたというのが、その理由だった。

そのスタッフHは、入社3年目で昨年の10月から、そのローカル放送局の報道局に勤務していた。
局からの突然の解雇通告を受けて、わが社の取締役制作部長が、急きょ局に赴き、局の責任者から説明を受け、スタッフであるH本人とも会って事情を聞いた。

その報告によると、虚偽報告のひとつめは、ある映像資料を放送使用する際の著作権処理に関するもので、Hは処理したと上司に報告していたが、その後局の調べで、正式な著作権処理の最終確認がされていなかったことが判明したというものであった。

二件目は、ネパールの大地震関連報道で、地元の団体が4名の医師をネパールに派遣したとHが取材して報じたが、放送後、その団体から、派遣した医療関係者は4名だが、全員が医師ではなく、看護師等々もいたとの指摘を電話で受けた。
Hはその電話のあったことを上司に報告せず、翌日あらためて団体から指摘があり、問題化したというものだった。

詳細は省くが、このやりとりの過程で言った、言わない等の出来ごともからんでいるようだが、局はこの事案に関して徹底的に各関係者の証言を調べたようである。

局はこの二件のHの対応について、不適切であったと判断し、Hの解雇通告をしてきたことが判った。
前もっての連絡もなく、いきなりの通告にボクも多少の驚きを隠せなかった。

というのも、このローカル局との付き合いは実に長いものだったからである。
ボクが日本テレビに在職中からの期間を含めると、40年以上になる。

オルタスジャパンを設立した後も、この局がプロデュースする全国ネットのレギュラー番組を制作したり、人的交流も頻繁で、これまでお互いの信頼関係も厚く、ボク自身の人脈も多い。
現在の社長とも、かつて番組の制作で共に汗を流した仲である。

これほど親密な関係にある局が、突然の解雇通告をしてくるには、それだけの理由がある筈だった。
ボクは、同局の元専務取締役を務め、現在関連会社の社長をしているO氏に別の裏事情があるのではないかと確かめてもらったところ、「二件の虚偽報告の問題がすべてで、Hは報道マンとしての資質に大きく欠けるため、仕事の上で信頼関係を築くことができない、と局が判断した」との返答を受けた。

数年前から、各テレビ局のコンプライアンスに対する取り組みが強化された。
講習会が頻繁に行われ、その度にわが社も出席している。

10数年前になるが、NHKで、ある番組の局のプロデューサーのIDカードを、わが社のスタッフが、ついでだからと別の番組のために使用したことが明るみになり、処罰としてそのレギュラー番組から半年間外されるという事件が起きたことがある。

ほんとに些細な不注意のために会社が大きな打撃を受けたのだった。
それ以来、コンプライアンスに関しては、特別の注意を払って来ていたのだったが、この度の不祥事が起きた。

当然ながら、ボクもHから直接、事情を聞いた。
「悔しい」という言葉がHから出た。
言った、言わない、伝えた、伝えていない、の水かけ論のことを指しているらしかった。

しかし、いろいろな情報を総合的に照らし合わせ、客観的に判断すると、Hの言い分はあやふやで、局の調査や判断に間違いの無いことは明らかだった。
わが社内においても、Hがこれまでに、事務処理等々に関して不明朗な点が多々あったことなども分かってきた。

さて、会社として、Hの処遇をどうするべきかについて、取締役会で検討した。
特に、社外取締役の方々からは、厳しい意見が出された。

責任問題はともかくとして、同じ過ちを犯す可能性が大きく、場合によっては、会社の存続上に大きな危険をもたらすことになるのではないか、というものだった。
これは、社員教育以前の人間性の問題であり、その恐れは十分にあることは確かだった。

しかし、一方で、正規の入社試験で採用したというボクたちの責任もある。
前途有為のひとりの青年の人生にかかわることでもあり、その対処に苦慮した。

二度の取締役会を開いた末に、ボクはHに彼の「本心」を書かせることに決めた。
Hが、二件の虚偽報告について総括し、潔く虚偽の報告をしたことを認め、自分のとった行為の不正確さ、あいまいさ、そして局の信頼を失うことになった嘘について正直に告白し、心を入れ替えてこの仕事を続けて行きたいとの赤裸々な「本心」を期待した。
その内容次第で、もう一度Hにチャンスを与えようと考えていた。

しかし、A4にまとめられた彼の「本心」は、辞職という言葉だった。
自分の未熟さを認め、会社に迷惑を掛けたことに対する反省は綴られてはいたが、ボクが期待した「本心」ではなかった。

辞職という言葉に、ある種の潔さは感じられたが、気持は大きくすれ違っていた。

物事がスムーズに進んでいる時には何の問題もない。
しかし、どんなに注意していても、失敗やトラブルは必ず起きる。

それはある意味仕方のないことで、ボクはこれまでスタッフの失敗に対してその責任を問うたことは一度も無い。
問われるのは、トラブルが起きた時の対処にある。

包み隠さず、上司に報告し、そのトラブルから逃げないことが大切である。
嘘は必ず次の嘘を生み、ますます事は大きくなることは必定である。

まずいことほど、出来る限り早く対処する。
そのまずいことが、いかに小さなことであっても、早く対処することが、問題を大きくしないで済ませる一番の鉄則であることを改めて胆に銘じておきたい。

      「恋心 親心ともに すれちがい」


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当たり前のこと

当たり前のことを、当たり前に言っていたのでは、メシのタネにはならないが、当たり前のことを言い続けることは実は大事なことだ。
しかし、その当たり前のことが、近頃、当たり前でなくなってきていると感じているのは、ボクだけではないだろう。

自民公明両党は、集団的自衛権の行使容認をはじめとする安全保障法制に関する与党協議で、関連法案の最終合意をした。
政府は14日にこれを閣議決定し、本日、国会に提出することになる。

これまで歴代内閣が禁じて来た集団的自衛権の行使を安倍政権は、去年7月に憲法解釈を変更することを閣議決定し、今回それを法制化するものだが、与党協議では、日本が戦闘に参加する基準があいまいなまま、集団的自衛権を行使する可能性を認めるものとなっている。

今さら改めて説明の必要もないが、集団的自衛権とは、同盟国が武力攻撃を受けた際に、それを自国への攻撃とみなし、反撃できる権利のことを云う。

日本の歴代内閣は「集団的自衛権は保有するが、憲法9条との関係で行使できない」としてきた。
しかし、安倍政権は、日本の存立が脅かされる明白な危険がある事態が起きた場合、また、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない場合、必要最小限度の実力行使であること、の三つの要件を満たせば、集団的自衛権による武力行使は憲法上可能であると決めようとしている。

この法案では、「明白な危険」という場合の明白とは、どういう事態を指すのかの具体性に欠けるし、そもそも日本の存立が脅かされるとはどういう場合かも、それこそ明白でない。

また、自衛隊の派遣については、国連決議を必要としておらず、国会の手続きも事後承認で良いとしている。
具体的な歯止めがないために、米軍への後方支援なども無制限となる危険性がある。

それに、「現に戦闘を行っている現場」でなければ、自衛隊を派遣できるとしており、これまで認められなかった弾薬の提供や発進準備中の戦闘機への給油も可能となり、自衛隊の活動範囲はほぼ無制限に広がることとなる。

このように、様々な案件に関して、国会の事前承認などの手続きがなくても、他国の軍隊を守ることができるようになり、歯止めがないまま自衛隊による武器使用が拡大する可能性がある。

これら一連の容認は、事実上、日本が戦争に参加できるということであり、当然敵対国から、本来ならば受けなくてもよい武力攻撃を日本そのものが受ける危険を冒すことにもなるということだ。

日本は戦争に向かって一歩また一歩とその歩を進めている。

イスラム国に拉致され殺害された日本人ジャーナリストの事件も、つい先日の出来ごとにもかかわらず、すでに忘れ去られた感があるが、その際にとった安倍政権の姿勢や態度も、わざと新たなテロの危険を日本に引き寄せようとしているのではないかと思える愚行に映る。

安倍政権がどんな説明をしたとしても、とても危険な道を選択していることは明らかである。
今回の安全保障法制など、ほんの序章に過ぎず、すぐ後には憲法改正が待ち構えている。

日本にとってもっとも危険な国家は、中国やましてや北朝鮮でもなく実はアメリカである。
これまで、自民党の歴代内閣でさえ、手を変え品を変えて、また詭弁を弄してまで、アメリカから日本の平和を何とか守り続けて来た。

いま、先人たちの知恵を捨て去り、安倍内閣は、日本を戦争の出来る国に変えようとしている。
ボクたちは、これを何としてでも止めさせたいと願っている。
しかし、その願いの前に横たわる現実は厳しい。

新聞の論調もさまざまだが、読売や産経それに日経新聞などは安倍政権を平和を守る政権だとして、全面的に支持している。

テレビ界も、NHKをはじめとして、ほとんどの局がその言論を封殺された。
これまで、少しはがんばっていたテレビ朝日も、先日このブログでも少し触れた自民党の情報通信戦略調査会からの呼び出し事件以来、著しいトーンダウンを見せている。

政権の言論界への介入は決して珍しいことではないが、ここまで露骨な言論封殺を行った政権は、恐らく安倍政権をおいて他には無かった。

余りにも無力な野党に代わり、少しは歯止めの役割を果たして欲しいとの儚い望みを託していた連立与党の公明党も、予想通り権力欲の前に馬脚を現し、その正体を明らかにした。

そして、何よりも残念なことは、多くの国民が、こういった一連の政策を続ける安倍政権を支持しているという現在の日本の姿である。
単に、安倍政権の暴走ではなく、これを支える日本国民の共通の責任問題となっている。
このことが一番恐ろしい。

ボクは歳を重ねすでに老人となり、もはや戦場に狩り出されることもない。
仮に頭上に爆弾が投下されても、すでに楽しい人生を十分に堪能させていただいたから、思い残すこともなくあの世に行ける。

ボク自身は、それはそれで良い。
しかし、地球上で戦争のない時間が皆無であったことを考えれば、やや、無責任な言い方にはなるが、少なくとも、日本は戦後70年間、自国が戦場になることからは免れて来た。

そして、その平和な時代をボクは生きさせていただいた。
とても幸運なことであったと思う。
だから、愛する人たちは勿論だが、次の世代、そしてまた次の世代の人たちにも、やっぱりボクが享受できた平和な世で生きてもらいたいと願うのは当然である。

全く次元の異なる話だが、ルポライターの鎌田慧さんが書かれたルポに「屠場」がある。

品川にある通称芝浦屠場では、毎日、数百頭の牛と千頭を越す豚が屠殺処理され枝肉になる。
気絶させた牛のノドにナイフを入れ血抜きし、頭を切り落とし、皮を剥ぎ、手足を切断し、それぞれの部位に分けて枝肉にする。

これらの作業はスピードの要求されるベルトコンベアの流れ作業で行われるが、それぞれの過程での専門の熟練の職人の手作業となる。
この作業の手際の良し悪しで食肉の等級が決まるという。

この熟練の職人たちが一様に心掛けていることは、まず自分の仕事を上手に処理し、同時に、自分の仕事の結果が、次に処理する職人にとっていかに仕事し易い形で引き渡すことができるか、ということであり、それがまた熟練職人たちの誇りとなっている、と鎌田さんは書いておられる。

自分自身のことだけでなく、次に引きうける人のことを思いやる熟練職人の話にボクは胸を打たれたことを思い出す。

人生は永いようで短く、短いようで永い。
若いうちはともかく、50歳を過ぎれば、自らのことばかりでなく、次の世代のことを考えることが必要だろう。

ましてや、政治家という国家の運命を左右する人間は、己の権力欲や野心のために行動してはならないだろう。
多くの人々の平和と安全を守る義務があると思う。
少なくとも、もっとも恐ろしい、命を晒さなければならない戦争への道に国民を導くことは許されないはずである。

例え、多少の苦難を覚悟しても、国家や国民が生きて行くための別の道は必ずある筈である。
その道を説くのが政治家の役割であり、健全な政治家を育てるのはボクたち国民の義務であると思う。

      「平成は 洒落にもならぬ 浮世かな」


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就職戦線に異状アリ

ボクたちの会社がある多聞堂ビルの一階の一角がカフェドクリエという喫茶店になっている。
この喫茶チェーン店は今どきとしては珍しく、全席が喫煙席となっているので、この店は愛煙家たちで込み合っている。

ボクも打ち合わせなどで、しばしばここを利用しているが、いつも部屋中がタバコの煙でもうもうと白く煙っている。

先日、行ったところ、いつもは2人いる筈の店員がひとりで忙しく働いていた。
「ひとりで大変だね」とボクは声を掛けた。
「経費削減かな?」と云うと「いえ、人手不足なんだそうです」と若い女性店員は笑いながら答えた。

そう云えば、中国人の手を借りたりもしている様子だが、店員たちは長続きせずにコロコロと変わっている。
タバコ嫌いの若者たちにとっては、最悪の労働環境だが、人手不足はタバコだけが原因ではないのだろう。
喫茶店をはじめ、コンビニや外食産業、それに建設現場などでも労働力の不足は深刻であるようだ。

そうかと思うと、都内の大手タクシー会社には、語弊のある言い方になるかもしれないが、あまり有名ではない私立大学を卒業した人たちが、100人規模で就職し、タクシーの運転手をしている現状もあるそうだ。

大学を卒業してタクシーの運転手をすることがいけないことでは決してないが、一昔前までは考えられなかった現象であることだけは間違いない。

就職の形が急激に変化しているようである。
ボクたち庶民の実感とは別に、一部大企業を中心とした市況は好調らしく、就職戦線にも大きな影響を与えているようである。

それは、ボクたちの業界でも例外ではない。
わが社の来年度新規採用の募集を先月末で締め切ったが、応募者の数は例年になく少なかった。

この現象は、10数年前から、その兆候が始まり、年々、減少傾向にはあった。
これは、わが社ばかりではなく、他の各プロダクションも同様である。

ある民放テレビ局の取締役の話では、テレビ局でも、応募者の人数の減少ばかりではなく、受験生の中でも、番組制作を含め現場志望の志願者が激減しているとのことである。

特に、報道などの仕事に就きたいと考えている志望者はほとんど皆無に近いので、報道局への新入社員の補充に苦労しているとのことだった。
仕方なく、中途採用者に頼らざるを得ないとのことである。

テレビ番組の制作に対する興味を、現在の若者たちが失っていることは明らかである。
若者たちのテレビ離れが言われてから久しいが、実際にテレビの受像機を持っていない若い人たちが圧倒的に多いことも残念ながらの実情である。

しかし、その反面、応募してくる学生たちの粒が揃っていて、本当に、制作の仕事をしたいと真剣に望んでいる人たちだけが、集まって来るようになった。
その意味では、結果的には特別に心配することではないのかもしれない。

それにしても、時代の変化とは申せ、価値観や人生観の大きな変わりようには、驚くばかりである。
来週から、面接を行う予定だが、さてどのような新しい才能との出会いに恵まれるのか、とても楽しみである。

   「量よりも 質が勝負と 言うものの」


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馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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