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作家・西村眞さんとの会食

路地が金木犀の甘い香りで溢れる季節になった。
この香りが漂うと、いかにも秋の訪れを実感する。

先日、作家の西村眞さんから久々の電話をいただいた。
「しばらく、本の仕上げで籠っていたもので、ご無沙汰してしまいました。一冊目をやっと出版にこぎつけました。二冊目は来年の初頭に出す予定です。そんなことで、一段落しましたので、よろしかったら食事にお誘いしようと思いましてね」

西村さんは、一年に二度か三度、ボクたち夫婦を招待してご馳走して下さる。
ボクがご馳走にあずかるこの世で唯一無二の方なのである。

数日前、放送作家の羽柴秀彦さんがフラリとお見えになり、昼飯に蕎麦をご一緒したが、その際、「勧められて今読んでいるこの本が面白くてね」と見せてくれた本があった。

桐山桂一という方が書かれた「呉家の百年 呉清源とその兄弟」というタイトルの本で、囲碁の大家として著名な呉清源氏の伝記である。
中国と日本の政治の裏面史が描かれていて、博識、博学の羽柴さんを唸らせるほどの本であるらしい。

それを思い出して会社の近くの本屋に行った。
在庫が無くて注文したのだったが、その際、平積みになっている「ボスの遺言」という本が偶然眼に入った。
著者に西村眞とある。
ああ、これが西村さんの新作だと早速買い求めたのだった。

「ボスの遺言」は 昭和57年(1982年)2月8日の火災で33人の死者を出した東京・赤坂のホテルニュージャパンが、まだ健在だった昭和48年頃のホテルニュージャパン775号室で繰り広げられた、無頼の出版社社長を中心とした、川内康範やロッキード事件の小佐野賢治を思わせる怪人物たちや、右翼、政治家の大物たち、当時世間を騒がせた興行師たちが入り乱れて登場する痛快無比の物語である。

バブルからその崩壊の時代をいっきに駆け抜けた男の生と死のドラマである。
それは西村さんの実際の体験を綴ったもので、当人によれば80%が事実に基づいているとのことである。

背表紙の作者紹介には、西村眞、1939年生まれ。大学在学中に取材記者として雑誌の世界に足を踏み入れ、パリで発行されていた「LUI」日本版編集長を皮切りに、半世紀にわたり十誌を超える媒体の編集長として活躍。短期間で記録的な部数に育て上げた「BIG tomorrow」や「SAY」、「百楽」などは、いまや伝説的メディアとなっている。2009年「東京哀歌」で作家デビュー、とある。

「ボスの遺言」が二作目ということになる。
先週、その西村眞さんにご馳走になったのは、銀座並木通りのフランス料理店「エスキース」だった。

日本人女性と結婚したというフランス人シェフが挨拶にもみえたが、日本で云うところの懐石料理のようなフランス料理で、とても優しく繊細な味を楽しませていただいた。
フランス料理と云えばソースがこってりしたイメージがあったが、そんな既成概念を覆すような新鮮さがあった。
だしなども凝っていて、鴨を半年かけて乾燥させ、鰹節のようにしてからとったものだ、などの説明があった。

日本料理などもそうだけれど、フランス料理は特に能書きが多い。
確かに、説明されなければ分からないのだけれど、正直、自由に味わわせてくれ、という気にもなる。
しかし、一人数万円もする高級料理であるから、それくらいの説明は必要なのかもしれない。

プルミエ・メートル・ド・テルという難しい肩書の名刺のお店の人によれば、日本のフランス料理の歴史はまだまだ浅く、昭和39年の東京オリンピックの時に、日本人が本格的にフランス料理に目覚め、フランスに料理の勉強に出かけ始めたという。
「まだまだ、その一世の人たちが頑張っていますが、二世、三世と次の世代にならないと日本のフランス料理も一流にはなれません」ということだった。

西村さんはワインにも詳しいが、いかにも食通で、和食も含めて銀座界隈だけでなく、色んな一流のお店の情報にも精通している。

西村さんによれば、フランス料理で有名なマキシムは、松坂屋や大丸、TBSが株を持ち合っていたが、経営が思わしくなくてお店を売ることに決めた。
マキシムはフランスの有名店だが、日本では、高級料理店マキシムを利用するような客は、80歳代後半か90歳代と高齢な人たちばかりで、誕生日や家族会で利用しても、次の利用はいつになるか分からない。
預かっているお酒の量だけでも膨大であるらしい。

そんな訳で、なかなか買い手がつかなかったところ、いくつかのマンションを持っている不動産屋がこれを買うことになり、無事に契約も終えた。

ところが、マキシムの名前を使用する権利はピエールカルダンが有していて、ピエールカルダンは大手デパートやテレビ局ならば問題ないが、一介の不動産屋になどやらせることは許さん、ということになり、ねじれにねじれているということだった。

エスキースのお店の人も「良くそんな業界の裏事情までご存知ですね」と驚いている。

さすがはフランス料理界の伝統は、客のその服装や食べ方だけではなく、経営する方も簡単ではなさそうである。

      「仏料理 そこのけ味のけ マナーが通る」


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遺言状を書く決心

先日の日曜日、日本橋の三越デパートで友人の誕生日のお祝いにマフラーを選び、デパ地下のパン屋さんでフランスパンを買い込み、地下鉄銀座線に通じる地下通路に出た。

「あ、あそこにもパン屋さんがあるわ」という妻の声がした。
見ると正面の向こうの明るい照明の中にパンの売り場が見えた。

そこはとても眩しいほどに輝いていた。
「あ、本当だ」ボクは、その透明にも近い感じで光る明かりに向けて引きこまれるように歩を進めた。

何度となく見て来た風景だが、そこにパン屋があることにこれまで気が付かなかった。
恐らく、新しく出来たお店に違いなかった。

と、一瞬、目の前の映像が中断した。
視界からすべての景色が消えた。
それはまるで空白の時間で、すぐには何が起きているのかが分からなかった。

次の瞬間、ボクは両の手のひらで地面を支えていた。
次に左足の膝に痛みを感じ、続いて右膝に念を押すような鈍い痛みを感じたのだった。
シャリーンという、頭にのっけていたサングラスが地面に落ちる鮮明な音が聞こえた。

ボクは両手両膝をついた四つん這いになっている自分に気付いた。
その時も、何が起きたのかはまだ分からなかった。

妻が驚いた声で「大丈夫?」と云っている。
パン屋の店員さんと思しき娘さんが「良かったらお店でお休み下さい」とか気遣ってくれている。

やっとのことで、尻をつき地面に両足を伸ばした格好で座り直すと、すぐ目の前に3段ほどの階段が目に入った。
ボクは、その階段があるのに気が付かずそのまま歩いて、階段を踏み外し、転んだのだとやっと分かった。

若い頃ならば、取りあえずサッと立ち上がってその場を去った所だが、そうはいかなかった。
両手、両足に骨折など大きな異常のないことを確かめたものの、息を整えて、立ち上がるまでにそれなりの時間を要した。

それにしても、あれだけの高い階段があることに気付かなかった自分に驚いていた。
どう考えてもあり得ないことに思えた。
誘蛾灯に誘われて灯りに向かう虫のように、パン屋の煌めきに一直線に突進したこと自体が不思議な出来ごとにも思えた。

家に帰って改めて見ると、両膝にそれなりの傷を負っていた。
転んだ時に力を入れたのか、肋骨をはじめ身体のあちこちが痛んだ。

間違いなく、老化現象のなせる結果に違いなかった。
「本当に気をつけて下さいね」という妻の声を聞きながら、これまで延ばし延ばしにしてきた遺書を、いよいよ書いておこうと決心したのだった。

   「人生は 何処にあるやら 落とし穴」


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朝日新聞社の社長謝罪問題

朝日新聞社が相次ぐ誤報報道で大揺れに揺れた。
9月11日には、木村伊量社長が謝罪会見を行うという異例の事態も起きた。

今さらながらだが、その中味とはこうである。
東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が作成した「吉田調書」について朝日新聞が掲載した5月20日付の記事を取り消し、東京電力と読者に謝罪したというものである。
この「吉田調書」は政府が非公開としていたもので、朝日新聞社が政府に全文公開せよと迫るための記事だったようである。

木村社長によれば、その掲載記事の内容は「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東京電力社員の9割にあたる、およそ650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」というものだった。
しかし実際には、「命令違反で撤退した」とは必ずしも言えないことから「命令違反で撤退」の記事を取り消したものである。

もうひとつの謝罪は、従軍慰安婦の検証記事で、韓国・済州等で慰安婦を強制連行したと証言した吉田清治氏の証言を虚偽として記事を取り消したが、「訂正が遅きに失した」として謝罪したのである。

ところで、先週、12日、金曜日のテレビ朝日の報道ステーションを何気なく見ていたら、古舘伊知郎キャスターが「大きな間違いを犯した」と真剣な顔をして謝罪していた。

鹿児島県の川内原発の、安全審査の審査書決定に関する9月10日の報道で、原子力規制委員会の田中委員長の記者会見のやりとりに関し、誤解を招くような意図的な編集があったことを認め、謝罪していたのだった。

テレビ朝日は朝日新聞系列であるが、11日には、報道ステーションで、朝日新聞社長の謝罪会見を受け、特集を組んでいた。その点は潔い。
こういう事件や事故は、注意していても連鎖的に起きるものらしい。

その他にも、実際に取材を行わず、ホームページに掲載されていた文章を転用して、さもインタビューしたかのように装うなどの事例も発覚している。

これら一連の、朝日新聞の不祥事については、構造的な体質と見る向きもある。
新聞社の奢りと云う人たちの話も聞く。
誤報ではなく、意図的なものであるとの論調も耳にする。
さて、ボクたちはどう考えるべきか。

どこからどうみても、今回の朝日新聞社の報道の在り方は弁護できるものではない。
なぜなら、事実の検証が十分になされていないばかりか、場合によっては、意図的に歪曲している可能性もあるからである。

この件では朝日新聞は世間と闘うことはできない。
正直、弁解の余地はないだろう。
しかも、いかにも幼く稚拙と云える。

事実はあくまでも事実として正確に報道する義務を報道する者は持たなければならない。
これは当然のことである。
これはすべての報道に関する曲げてはならない原則論である。

新聞社を含めて、マスコミの最大の役割は、権力のチェック機関としての機能である。
場合によっては、反権力の立場をとることにもなる。
別の表現をすれば、時の政権を含めた、公権力に立ち向かい、ケンカを売ることもある訳だから、自らに弱みを持つことは避けなければならない。

今回のように、事実の検証が曖昧な記事はそれこそ命取りになる。
特に原子力政策は国家がどんなことがあっても推進したい事業案件であり、慰安婦問題は現政権が歴史から抹殺したいと切望している出来ごとである。
いずれも国策に絡む重要な案件である。

慎重に臨むべきこれらの案件に関する報道で朝日新聞が返り討ちにあったことは、単純に、朝日新聞社の痛手に留まらず、地道に運動を続けたり、訴え続けたりしている多くの団体や人々にとっても大きなマイナスを与えた。

朝日新聞社が国民に伝えようと考えた内容や方向性は理解できる。
権力のチェック機関としての自負や責任の意識も分かる。
しかし、その基本となる記事が揺らぐようではお話にならない。

しかし、一方で、そんな朝日新聞を盛んに叩いている他の新聞社やテレビは、本当にその資格があるのかは疑わしい。
時の権力に擦り寄り、へつらうことで現在の立場を維持しようとすることは、権力のチェックというマスコミのもっとも大切な使命を放棄しているばかりか、大きく堕落の道を歩んでいるとしか思えないからである。

ボクたちも小なりと言えども、いやしくもマスコミの端っこで生きている身である。
同じジャーナリズムの世界で働く者として、朝日新聞社の今回の報道の過ちは決して他人ごとではない。

余りにも稚拙で幼い報道の仕方で自滅した朝日新聞社のすべてのスタッフに初心に返っての再起を望むが、ボクたちも日常の取材や制作に当たって、改めて自らに、自らを律する強い自覚を持たなければならないとの意を強くしている。

ボクたちは常になぜ自分たちがこの仕事をしているのかという原点を忘れてはならないし、いつもそこに立ち返らなければならないのである。

      「入社した あの日も同じ テレビかな」


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東京と異常気象

テレビでは連日、集中豪雨だ、ゲリラ豪雨だともっぱら雨の話に関心が集まっている。
雨がこれほどニュースの中心になったり、人々の注目を集めているのは、ボクの知る限りは初めてのことである。

これまでは、大雨と云えば、台風とセット、とのイメージがあったが、近頃では、雨が単独で大暴れしているようだ。

古い話になるが、子供の頃は本当に台風が恐かった。
大阪府の堺市で生まれ育ったが、そこは台風の通り道のひとつだった。

最近では、台風は何号と号数で呼ばれるが、以前は台風には名前がついていた。
ボクが最も記憶に残っているのはジェーン台風である。

小学1年生か2年生の頃で、日曜日だった。
たまたま、その日から絵画を習いに行くことになっていて、今の親であれば、大きな台風が来るから、絵画教室など行くのは中止にしよう、ということになるのだが、父親は風が強く吹き始めた中にボクを送り出した。

2時間ほどの授業を終えて帰路につく頃は、ますます風は強くなっていて、途中、色んな物が飛んできて恐ろしかったが、夢中で家に向かって歩いたことを覚えている。
屋根瓦なども舞っていた。

今考えてみても、よく無事で家に辿り着けたものだと、改めて汗が出る。
やっとの思いで家に着いたボクを父親も母親も「お帰り。大変だったね」とごく当たり前に迎え、平然としていたものだ。
絵画の先生にしても、両親にしても、昔の人たちはずいぶん度胸が据わっていた。

長い間、風で家は大きく揺れ続けた。
台風が去った後は、家の屋根瓦は全部吹き飛ばされ、黄土色の屋根板がむき出しになっていた。
その後も何度か大きな台風に見舞われ、風の恐ろしさは身体に刻み込まれている。

東京に出て来た当初の一番の感想は、台風が来ないことと、地震の多いことだった。
所帯を持って一軒家に住むようになってから、大型台風が東京に上陸する模様、との台風情報を聞く度に、窓ガラスが破れないようにテープを張るなど対策を講じたものだが、いつもたいした風も吹かず、その苦労が空振りに終わった。
それでも、台風の恐さが身に染みついているものだから、台風と聞くと思わず身構えてしまうのである。

台風の恐さは知っていたが、これまで、雨の恐さには鈍感だった。
伊勢湾台風の時などは、水害の被害は大きかったが、雨は台風のオマケ位の感覚だった。

しかし、この異常気象で雨の恐ろしさを改めて知ったのだった。
その被害も沖縄から北海道まで、全国規模にまたがり、毎回のニュースで、「観測史上初めて」との見出しが続く。

つい先日の東京都内、宮城県の石巻、それに北海道の札幌市などを襲った集中豪雨も、一時間で100ミリ以上という常識では考えられない量の雨だったようである。
浸水のため車に閉じ込められた人たちもいて「初めは凄い雨だと笑っていたが、次の瞬間には恐怖で凍りついた」と話していた。

それほど瞬く間に変化を来すほどのスピードでの被害のようである。
繁華街や近代的な駅などが水浸しになると、ニュースの声もより大きくなり、被害のリアリティーが増す。

時には自然は理不尽で横暴に見える。
災害の形で現れると、その狂暴さは尋常ではない。

大自然の前ではいかに人間がその存在を誇示しようと無力である。
自然をコントロールしようとの考えなどもともと無理な話である。

被害は困るけれども、時にはボクたちが、自然に畏敬の念を持つ機会は必要なのかもしれない。
ボクたちの生き方の根本の話である。

   「八百万 周りのすべてに 神宿り」


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人と食事のアナログな関係

「同じ釜の飯を食った仲間」という古くからの云い方があるけれど、これは実に言い得て妙な表現で、これに優る関係はないと思っている。

「同じ釜の飯を食う」には、単に一緒に食事をするといっただけの意味ではなくて、もっと奥行きがありそうだけれども、単に一緒に食事をするだけでも、その関係は深くなる。

嫌いな人や気の合わない人とはできるだけ一緒に居たくはないし、ましてや食事となると同席したいとは思わないのが普通である。
特に鍋物や韓国料理のように大勢で、それぞれが箸で同じ料理をつつき合い、食べ合うことは、嫌な人とはできない。

かつて、日本テレビに、プロ野球の中継の基本の形を作り、さまざま斬新な番組を生み出した名物プロデューサーがおられたが、彼はその点、徹底した人で、嫌な人とは絶対食事をしなかった。
そういう性格が災いしたのかどうか、社内には政敵がいて、結局は途中退社された。

その敵対する人物とは絶対に食事しなかったと聞いた。
こういう例は、まさに言葉通り、同じ組織に居ても、同じ釜の飯を食べなかったと云うことになるのだろうか。

ボクは彼がテレビ局を退社されてから縁あって親しくお付き合いをさせていただいた。
そのことを聞きつけた彼のことを良く知る人から「彼に食事に誘われたか」と聞かれ「ちょくちょく食事をしていますよ」と答えたら「へえ」と驚き「キミのことがよほど気に入ったのだよ」と云われた。
優しくて良い方だったが、病で亡くなられた。
食事が人間関係の深さの尺度になることもあるようだ。

20数年前、会社を設立してからしばらくは、社内でスタッフがお酒を飲む会社は良い会社だと信じ、しばしば会社内で宴会を開いていたものである。
時代の流れと人の変化で、そういう習慣は次第に姿を消して行ったが、確かに、食事や酒を共にすることでお互いの親しみは増すし、信頼関係を生む土台になる。

ここに、嫌なのに無理やり付き合わされる、という事態が起きたりするので、一概に、一緒に食べたり、飲んだりすれば良いというものでもなかろうが、出来る限り仲良く食べることのできる形を作ることは大切である。

わが社のスタッフ同士が、全員、同じ釜の飯を食っている仲間である、との認識をもつことができるように、ボクはこれからも、大いにみんなと食事をし、お酒を飲みたいと願っている。
結局、人間の信頼関係の基本はアナログにつきる。

   「飲んで待ち 食わば海路の 日和あり」


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ボクが金持ちになれないワケ

昼食で、久し振りにトンカツを食べに行った。
もう2~3ヶ月前から、トンカツを食べたい、食べたいと思い続けて、やっとその思いを果たせたのだった。
そして、そのトンカツ屋で、ボクがどうして金持ちになれないのか、そのワケにハッと気がついたのである。

赤坂にあるそのトンカツ屋さんは、ボクが知る限りは老舗で、商売の形も、いかにも昔ながらのやり方で、トンカツを食べるなら、そのお店と決めている。
トンカツならばロースかつに限ると、これもまた決めているが、そのお店のロースかつは、適当についている脂身が旨いのである。

余談ながら、脂身たっぷりのトンカツを一晩冷蔵庫で冷やしたのを翌朝お茶漬けで食べると本当においしいのだが、こんな簡単なことも、なかなか実現できないでいる。

それはともかく、このトンカツ屋さんのメニューで、一番高い料理でも2500円程度である。
ロースかつ定食は特上が1700円、上が1400円、並が1000円である。

ちなみに普段の毎日の昼食代は平均すると1000円位である。
赤坂は食べ物代が比較的高い土地柄である。

ところで、ボクはロースかつ定食はいつも1400円の上定食を食べることにしている。
これまで、1700円の特上定食を一度も食べたことが無い。
さぞかし旨いのだろうとは思う。

値段は上定食よりもたった300円高いだけである。
たいした額ではない。
しかし、ボクはどうしても1700円の特上の定食を食べられないのである。

うなぎ屋でも、特上、松、竹、梅と4段階あると、松を頼むし、松、竹、梅の場合は竹を注文する。
二番目に高い料理にする。
どうしても、そのお店の一番高い料理が注文できないのである。

というよりも、一番高い料理を食べることに抵抗感がある。
なぜか、そのお店で一番高い食べ物を注文することに罪悪感を感じるのである。
贅沢を超えた罪悪感がある。

そう思って振り返ると、一流のブランド品を所有することについても同様の罪の匂いを感じてしまうし、一流だと云われているレストランや料理店で食事をすることについても同様である。

楽しめないばかりではなく、罪悪感の方が先に立つので、その場から早く逃げ出したくなってしまうのである。
どうやら、貧乏根性が身についているとしか思えないのだが、どうしても馴染めない。

大会社のきらびやかな大きなビルを見るにつけても、それが搾取の結果にボクの眼に映る。
富の在り方にいつも疑問を持っていて、そんな気持ちがいつもボクの行動に規制をかける。

それなら、一番安いものを食べればよいじゃないか、というのが理屈だが、一番安い物も食べたくない。
そのあたりが、中途半端なところで、理屈にならない。

トンカツ屋さんで、一番高い1700円の特上ロースカツ定食を注文することができず、上ロースカツ定食を美味しく食べながら、だからボクは一生金持ちにはなれないのだな、と改めて気が付いたのだった。

   「死ぬまでに 特上カツを 食べたいな」


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空気のような存在

赤坂には東西に赤坂通りが走り、南北に一つ木通り、みすじ通り、田町通りと三本の通りがある。
田町通りは何年か前からエスプラナード赤坂と呼び名が変わっているようだ。

みすじ通りの南の端にあたる5~60メートルほどの通りには、特に韓国料理店が密集しており、別名「ヤッカン通り」の異名がある。
この一角はかつてリトルソウルと呼ばれた地域で、今でも夜になると周囲から聞こえてくるのはほとんどが韓国語である。

近頃では「ヤッカン通り」を口にする人たちも、古くからの人を除いて少なくなった。
ちなみに「ヤッカン通り」とは、ヤクザと韓国の多い通りという意味である。
当然ながら、この地域を差別した蔑称であることは云うまでもない。

ボクたちの会社はまさにこの「ヤッカン通り」のど真ん中にある。
この通りに越して来る前は、10年ほど、ここから300メートルほど離れた、赤坂5丁目に会社があったのだが、みすじ通りに越すと聞いて、5丁目の地元の古い人たちは、どうして「ヤッカン通り」のような所に行くのか、と反対したものである。

ここに引っ越してすでに15年以上が経つ。
そして、ボクはこの通りをとても気に入って毎日を過ごしている。

ボクたちが居るビルは、絵画の額縁を作る多聞堂さんの持ちビルである。
現在は三代目が継いでいるが、多聞堂さんは宮内庁御用達の由緒ある老舗で、小津安二郎監督の古い映画などにも美術担当として最後の字幕に多聞堂の名が登場している。

このビルの一階が喫茶店になっている。
この喫茶店の人間模様がそれなりに面白い。

ここには、多くの若者たちに混じって、韓国人のおばさん達がたむろしていて、元気の良い韓国語が飛び交っている。
そして、注意深く観察していると、ヤクザ者の客も多い。
確かに、「ヤッカン通り」の名に恥じぬ地域である。

最近はあまり聞かれないが、一時は、この界隈での拳銃の発砲騒ぎなども、ちょくちょくあったものである。
ヤクザは風体からも何となく、それと分かるが、最近では、いわゆる経済ヤクザも多いので、昔ほど、ヤクザヤクザしていない。

ただ、彼等は組織の序列の上下関係かはっきりしているらしく、序列の上の人間にはやたらと礼儀正しい。
挨拶の交わし方で、ああ、この連中はヤクザだったんだな、と分かることも多い。
それほど、彼等の組織での上下関係は、整然としている様子である。

それと比べる訳でもないが、ボクたちの会社はそれと全く反対、対称的な存在である。
ボクたちの会社には、ほとんど上下関係が無い。
したがって、ボクの存在も含めて、上司という認識を持っているスタッフは少ない。

ボクが、スタッフを十数人引き連れて飲みに行き、ワイワイガヤガヤやっているその様子を見て、ボクの知る年配の常連さんが、「あなたの会社は本当に良い会社ですね」と云う。
どうしてかと云うと、社長にゴマをすったり、へつらったりする社員が全く見当たらないからだ、と云うのである。

改めて、そう指摘されると確かにボクのことを気にするような者が誰ひとりもいないことに気がついた。
みんな、遠慮なく、のびのび気まま放題に飲んで歌っている。

その年配の常連さんは、かつては大会社のお偉いさんだった人物である。
「こういう会社はめったにはありません。がんばって下さいよ」と励まされた。

それをボクは素直に誉め言葉として受け止め、喜んでいる。
これがボクの望む会社の形の、ひとつの側面である。

ボクは、スタッフにとって、常に空気のような存在でいたいと願っているからである。

   「遥かなり 色即是空 馬鹿社長」


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プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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