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鮨職人の勢いとトキメキ

久し振りで鮨を食べに行った。
馴染みの鮨店は2、3軒。
いずれの店も、5~6人の板前が居る規模のお店である。

とは云っても、ボクなどは食通ではないし、とても高級鮨店などには出入りできる身分ではない。
普通の大衆鮨店に行くのが関の山である。

高級鮨といえば、オバマ大統領が訪れた銀座すきやばし次郎などのように、ミシュランガイドの最高評価である「3つ星」を7年連続で獲得したような店もある。
一人前3万円というのはどんな鮨なのだろう。

そういえば、四谷荒木町に寿司金という店がある。
ボクは荒木町を30年以上も、根城にしていたので、この町のことはよく知っているが、その寿司店には、一度も入ったことはない。

何でも、貴乃花がしばしば通っていたというが、店構えはいかにも普通というか、あえて言えば普通以下で、余りにも見映えしない佇まいである。
しかし、その店の値段は飛び上るほど高いとの評判だった。

ある時、知り合いのディレクターが、その寿司金の主人の技を取材し、その番組を見たことがある。
二握りの寿司を握ってもらい、その握りのご飯粒の数を一粒づつ数えたところ、そのふたつの握りの米粒の数が何と同じだった。

また、ご飯粒が、見事に横に並ぶように握られていた。
普通の職人では、米粒が縦になったり、横になったりバラバラだが、寿司金の主の場合は、全部横になっているので、歯触りが良いのだそうだ。

これなどは、寿司職人の奥義を極めたお話で、実際にそんな職人さんが居ることに驚いたものだが、食文化の一端とは云え、そんな名人が何でもない街角にひっそりと、知る人ぞ知る存在でいることが面白い。

高級鮨店には、それだけの職人芸が備わっているということなのだろう。
しかし、ボクなどは、下世話なだけだから、ただただ、ネタが新鮮で大きければ、それだけで喜んでいるのだから世話はない。

ただそんな大衆的なお店でも、その時々によって、鮨が旨かったり、不味かったりする。
その理由が分からず、いつも不思議だったのだが、先日、その謎が解けた。

馴染みのお店では、ボクのカウンターに座る場所はだいたい決まってくる。
板前さんの守備範囲が決まっていて、いつもの職人さんの前に案内されるからである。

先日、久し振りに行くと、奥の席しか空いて無くて、そこに座った。
以前にしばしば握って貰ったことのある職人さんだった。

「大将に握ってもらうのは久し振りだね」と云うと「そうですね。一年近くなりますかね」とその職人は笑顔で答えた。
おや、大将、この一年でずいぶん歳をとって衰えたな、とボクは思った。
声や態度に張り艶が無かった。

早速握ってもらったが、これが旨く無いのだ。
隣の妻も同じ気持ちでいるのが伝わって来た。

ボクたちは空腹でお店に入ったし、ネタはいつもと変わらないし、ご飯の炊き方がまずいのかな、などと思いを巡らせていた。
そして、思い当たったことがあった。

それは鮨に勢いが無いのだった。
職人さんの勢いが足りないことに気付いたのだった。
どうやら、気合いが不足している。
ただ、握って、それを出しているだけだった。

新鮮な寿司ネタ、職人の技、それに客を楽しませ、喜ばせようとする意欲、それらの総合であるサービス精神。
そして何よりも、職人の勢いが、旨い鮨を生み出すのではないか。
これらのどれひとつが足りなくても、鮨は不味くなるのだろう。

これは決して他人事ではなくて、ボク自身にも当てはまるかもしれない。
最近、とみにトキメキのようなものが希薄になって来たかも知れないと感じている。
トキメキが無くなれば、生きていることの意味は無い。

そろそろ、目玉が飛び出るほどの高級鮨店のカウンターにでも座って、刺激をうけなければならないようである。

   「トキメキを 甦らせて 春の風」


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馬渕一家との別れ

今日、これから、中村典子さんの通夜に出掛けなければならない。

出掛けなければならない、と云うのも誤解を生みかねない、妙な云い方になるが、通夜が、面倒だとか、嫌だとかという意味ではなく、残念でならないからである。

中村典子さんは、故・馬渕直城の妹に当たる。
馬渕直城はボクの生涯の友で、これまでに何度となく、このブログに書いたので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれない。

馬渕は、ベトナム戦争時、1975年のカンボジアのプノンペン陥落の模様を記録した唯一の日本人カメラマンであった。
その後、タイ・カンボジア国境に留まり、ポルポト政権の終焉までを見守り、記録し続けた。
わがオルタスジャパンの設立メンバーの一人でもあった。

その馬渕直城は、2年半前に亡くなったが、今週その後を追うように亡くなられた妹の典子さんは、兄の直城を心から慕い、ずっと長い間、その面倒を見続けた人だった。
その関係は、山田洋次監督のヒット映画、「男はつらいよ」の寅さんと妹のさくらそのままだった。

馬渕直城は、気の良い男で、皆から愛された。
根っからの自由人で、勝手気ままに生きたので、周囲の者は大変だった。

二度結婚し、それぞれに、子供たちをもうけている。
最初は中国系カンボジア人と、二度目はカンボジア系タイ人と結婚した。
最初の妻のサイホンは、離婚後も、陰に日向に元夫の面倒を見ていた。
今日の通夜のため、わざわざ在住のオーストラリアか、あるいはタイから急きょ駆けつけて来ているらしい。

妹の典子さんの、兄・直城への献身ぶりは涙ぐましいほどだった。
そういえば、再審が決定した、袴田事件の姉弟もそうだし、かつてボクが取材させてもらった丸正事件の姉弟も仲の良い兄弟姉妹だったが、馬渕兄妹も本当に仲が良かった。

そういえば、もう何十年前になるだろうか。
馬渕直城のすぐ下の妹が、ガンで亡くなり、葬儀に参列したことがあった。
そして、10年以上経つだろうか、母上の葬儀にも立ち会い、お骨を拾わせていただいた。
それから、馬渕本人に続いて、今度は妹の典子さんの葬儀である。
これで、馬渕一家4人を見送ることになる。

典子さんは63歳。
やはりガンだった。
昨年暮れに開かれた、馬渕直城の偲ぶ会に出席したいと熱望されていたのだったが、体調が悪く断念されたのだった。

それなりに健康で長生きさせていただいていることは、とても有り難いことだが、その分、悲しい別れを繰り返すという試練にも耐えなければならないようである。

通夜の式場は千葉県の柏市。
それでは、そろそろ、筆を置き、現地に向かうことにしよう。

   「待ち人の ますます増える あの世かな」


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「報道ステーション」10周年記念感謝の会

昨日、六本木ヒルズにあるホテルグランドハイアット東京で、「報道ステーション」10周年記念感謝の会があり、出席した。
報道ステーションは今さら云うまでもないが、テレビ朝日の看板報道番組である。

表向きには、一番組の10周年記念との名目だが、実際にはテレビ朝日の局を挙げての大掛かりなパーティーだった。
ホテルの大ホールは、詰めかけた関係者で溢れる大盛況ぶりであった。

テレビ朝日は昨年、ゴールデンとプライムタイムでの年間視聴率で、開局以来初の二冠を達成するなど、いま、テレビ局の中で最も勢いのある局となっている。
それには、理由があるとボクは思っている。

各テレビ局は、ここ10年ほど前から、番組制作を出来る限り、それぞれの局が資本を投下した関連会社に発注し、制作費等のお金が外部に流れ出ることを防ぐ方針を打ち出し、徹底して実行して来た。

関連会社だけでは制作し切れないケースも当然多く、そんな場合は、一旦関連会社に発注し一定額をピンハネし、そこから孫請けの形で町場のプロダクションに下ろす形が常態化した。
また、それまでプロダクションに全面委託していた番組を、人材だけをプロダクションから借り上げて、局や関連会社で制作するケースなども増加した。

その結果、町場のプロダクションは疲弊し、ますますその経営が苦しくなったことは事実である。
しかし、そんなテレビ局の経営方針にも、実は落とし穴があることに、真っ先に気付いたのがテレビ朝日だった。

町場のプロダクションをある意味で切り捨てたことのつけが、やがて、テレビ局に回って来始めた。
優れた企画が局に集まらなくなり、同時に、その制作力が落ちたのだった。

このことに気付いたテレビ朝日は、プロダクションとの連携を強める努力を始め、それまでしばらく途絶えていたプロダクションとの交流を深めるためのパーティーなども積極的に開き始めた。
3~4年前からのことである。

その努力と方針転換の成果が、今見事に実っているのだと、ボクは思っている。
そして、今回の盛大なパーティーも、その方針の一環だと思える。

ボクたちの会社は、それほど貢献できている訳ではないが、報道ステーションには、この番組がスタートした時から10年間、常時2名の優秀なスタッフを派遣させてもらっている。

勢いのある日本を代表する報道番組にスタッフが参加できていることは、有り難く、嬉しいことである。

      「一寸の 我らも五分の 魂が」


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忘れ去っていた写真

ボクの青春時代の舞台となった四谷荒木町のスナック「千恵」のママをしていた榊千恵さんが亡くなったことは、このブログでも書かせてもらった。

家族と知人だけの密葬の後、お千恵さんの妹の玲子さんと、玲子さんの娘の理沙さんが、遺品の整理等々の後始末に当たられていた。
その玲子さんから、渡したいものがあるのだが、取りに来てほしいとの連絡があった。

新宿駅南口からほど近いお千恵さんのマンションを訪ねた。
母娘が迎えてくれたお千恵さんのマンションは、きれいに片づけられていて、間もなくであろう引っ越しの準備が進んでいた。

そんな部屋の一隅に急ごしらえの小さな祭壇が作られていて、そこに遺骨と、20歳代後半の頃のお千恵さんの華やかな時代の和服姿の小さなモノクロ写真が飾られていた。
お線香をたて、改めて両手を合わせた。

さまざまな過去が去来した。
それらひとつひとつの出来ごとに思いを馳せているうちに果てしなく時間は過ぎて行った。

「スナック千恵の開店案内のハガキがありました」と玲子さんは一葉のハガキを見せてくれた。
そこには、お店をオープンする店主の大いなる意気ごみが記されており、昭和43年開店の日付が印刷されていた。
ボクが日本テレビに入社したのが昭和42年だから、スナック千恵のオープンはその翌年だったのだと知った。

「それに、こんな案内も出していたようです」
見ると、もう一枚の、別のハガキは、閉店のお知らせだった。
お店への階段の上り下りが苦痛になり、これ以上の営業は諦めざるを得ないとの内容が、切々と書かれていた。

夢と希望に満ち溢れた開店のお知らせの案内と閉店の知らせの二種類のハガキが、時の流れを刻み、今は寂しく遺骨の前に並べ置かれていた。

「姉は、小田さんには、本当に感謝していました。ただ、迷惑を掛けないようにと、亡くなる間際になっても、病状の悪化していることを小田さんには伏せておくようにと、きつく云われていました」と玲子さんと理沙さんは涙を拭った。
痛みとの闘いだったようだ。
ボクは最晩年の不義理を詫びた。

「お渡ししたいのは、これなんですよ」と玲子さんが取りだしたのは、大きく平らな箱だった。
開けると中から立派な額に入った写真が現れた。

縦90センチ、横60センチほどの額に納まった写真は、なんとボクの写真だった。
それは、ボクの著書「麻薬王クンサー」の出版記念パーティーの際に撮られたもので、着流し姿で右手にマイクを握っている。
これを機に、日本テレビを辞したのだった。
27~8年前のことで、この数カ月後にオルタスジャパンを設立した。

実は、こういう写真があったことをボクは覚えていなかった。

思いがけなくも、突然出現した、若い頃の自分を抱え、母娘に送られてマンションを後にした。
思いの他、その写真はズッシリと重かった。

ボクが亡くなった時、少し気恥ずかしいが、この写真を遺影にしてもらおうかな、そんなことを思いながら駅までの道を歩いていた。

   「若き日は 一瞬に消ゆ 幻か」


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母親からの贈り物

一週間ほどブログを休ませていただいた。
実は、郷里の弟から、母親が心筋梗塞で倒れたとの電話連絡を受け、急ぎ、母親のもとに駆けつけていたのだった。

ボクが訪ねた前日に、母は救急車で堺市の市民病院に運び込まれ、そこの集中治療室で治療を受けていた。
この同じ病院で、かつて父が、心筋梗塞で亡くなっている。
ボクにとっては二度目の来院だった。

患者でいっぱいの集中治療室の一角に母の姿があった。
意識は正常で、その声は、やや弱々しくなっていたが、受け答えはしっかりとしていた。
突然のボクの来訪に驚いている様子だった。

「嫁さんの京香や」とボクは連れて行った妻を紹介した。
結婚して5年以上経つが、挨拶を交わすのは、お互いにこれが初めてのことだった。
母は「そうか」と無感動に頷いた。

「お母さんも92歳だよね?」とボクが言うと「93歳や」と母は強い口調で訂正した。
「お肌が艶々としてお若いですね」と妻がお上手を云うと「皆からもそう云われてる」と満更でもなさそうにボソッとつぶやいた。

「お母さんには一生会えないかと覚悟していたよ」とボクは感無量の思いで云った。
こんな形でも、思いも掛けず、母に会えたことが嬉しかった。
「そうか。気にしないで、家に行きなさい。」と母は云った。

実は、この不思議な会話には事情があった。

ボクが離婚して、新しい嫁さんを貰い、そのことを実家の家族や親戚に事後報告した。
しばらく経ってから、母や弟夫妻と妹夫妻に、郷里の堺で食事に招待したいとの連絡をしたところ、弟から「兄貴は、別の世界で生きている人やから」と実家の敷居を跨ぐことを拒絶された経緯があった。

弟の云う別の世界とは、ボクの新しい妻が中国国籍の朝鮮族である、ということであり、朝鮮民族との姻戚関係を結ぶことを認める訳にはいかないとの意味であることは明白だった。

ボクが言うのもおかしいが、母も、弟や妹夫婦は本当に善良な人たちなのだ。
しかし、差別と云えば適当なのか、民族意識というのか、ボクには理解しかねるのだが、とりわけ、被差別部落や朝鮮民族に対する差別意識はどうしてもぬぐえないものがあり、それは絶対的な意識のようだった。

母の見舞いを終えて、母の云う通りに弟夫婦が後を継いでいる実家を訪ねてみようと、病院を出ようとした時に、やはり母の見舞いに来た、弟夫妻と妹夫妻の4人に偶然出会ったのだった。

7~8年振りの再会だった。
ボクは妻をみんなに紹介した。
みんなも、初めて会う妻に、内心は驚きながらも笑顔で対応してくれた。

改めての見舞いの後、全員で実家に戻った。
病院は実家からゆっくり歩いても4~5分の近い場所にあった。

実家の応接間で、みんなで和やかに話した。
弟にも妹にも多くの孫たちが出来て、それぞれが幸せな家庭を営んでいた。

久しぶりに仏壇に線香をあげて親父や祖父母に挨拶することもできた。
弟や妹たち夫妻に妻を会わせることもできたし、あり難い一日だった。

心筋梗塞というそれこそ望ましいことではなかったが、母親の命懸けの贈り物だと、母親には悪いが、改めて感謝したのだった。

夕食でも、という弟の嫁さんの言葉を背にしてボクたちは家を後にした。

「きょうは一緒に来てくれてありがとうね」とボクは妻に云った。
「生きては会えないと覚悟していたお袋さんにも会うことが出来たし、京香を弟や妹に紹介することができた。辛かったと思うけれど、よく我慢してくれたね。でも本当は良い人たちなんだよ」
「それにしても不思議な方々ね」と妻は笑った。

弟や妹夫妻と談笑して過ごした間中、彼等は決して、妻に話しかけることは一度も無かった。
ボクに対しても、ボクに関すること、会社のことや、子供たちのこと、それに妻に関する一切に触れることは無かった。
妻のことはまるで透明人間のように扱っていた。

それは不思議な光景だった。
ボクたちを相手に話していることは間違いないのだが、ボクたち夫婦のことを話題には絶対にさせなかった。
「兄貴は別の世界に生きてる人やから」との弟の言葉が甦る。

それは気遣いの一種なのかもしれないし、独特の処世術であるのかもしれない。
あるいは、トラブル回避の絶妙な大人の方策だとも思えた。

東京への帰途の南海本線の堺駅のロータリーに、大きな碑が建てられていた。
そこには「人権擁護宣言都市」と大きな文字が刻まれていた。

堺市はボクがここで育った子供の頃から、差別問題に苦しむ町だった。
このような当たり前のことを宣言し、碑にその文字を記し、市民を啓蒙しなければならない町なのである。

70年経っても変わることなく、そんな差別の意識構造をそのまま残さざるを得ない原点の正体とは一体何なのだろうか。
その差別の象徴が朝鮮人が食べる臭い食べ物である「にんにく」だった。
このブログ「にんにく劇場」のタイトルの由来である。

お陰さまで、母が集中治療室から一般病棟に移ることができたとの知らせが、弟からあった。
母の病がきっかけで、しばらく、音信の途切れていた実家との交流の細い糸が、ささやかだが繋がり始めたようである。

      「善き人も 差別意識に 出口なく」


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原発推進が閣議で決定された

政府は11日の閣議で、「エネルギー基本計画」を決定した。
これは、今後のわが国のエネルギー政策の指針となる重要な計画である。

この基本計画の中で、原発を重要と位置づけ、新型の原子炉「高温ガス炉」の研究開発を推進し、原発の新増設を目指すほか、海外諸国への輸出を推進するなど、原発を更に推し進めて行く路線を明らかにしている。

「原発事故は100パーセント起こらないと住民に保証できるのか」との原発立地自治体の議員らの質問主意書に対し、政府は「安全性の追及に終わりはなく、継続的な安全性の向上が重要である」と、回答にもならない回答で言を濁し、福島の事故が起きる前と同様の言い方に終始している。

あれだけ大きな事故を起こし、未だに事故収拾の見込みもついていないままで、原発をこれまでと同様に、いや、これまで以上に推し進めようとする姿勢は、国民を愚弄しているとしか思えないものである。

というのも、今度の基本計画には、原発の輸出の推進が、こともあろうに、声高に盛り込まれているからである。
今後世界の原発市場が100兆円規模の巨大市場となるとの見込みから、経済成長戦略の柱に据えようとしている。

まだ、福島の事故の収拾はおろか、事故原因の究明さえもされていない現在、どうして、その究明よりも経済成長を優先させようとするのか、その考えの基が理解できない。

本当に、日本国民は、恥じるとの心を失ってしまったのだろうか。
世界の趨勢が、原発推進の方向に進もうとも、少なくとも、日本は、それを阻止する立場に立たなければならないのではないか。

これまで、原子力発電のために費やしてきた、日本のエネルギーや金銭の量は計り知れないものであろうことは理解できる。

用地の買収から建設の費用ばかりではなく、国民に原発を認めさせるために国家が払ってきたエネルギーは膨大という表現ではとても足りないであろうことは理解できる。
そのために働いてきたお役人たちの人数はいかほどになるのだろう。

一時、北海道から九州まで、日本国中の民放のテレビの夕方のニュース番組は、何年間もの長きに渡り、各地方のそれぞれの電力会社に買い取られていたことがあった。
また、民間放送局の経営陣には、電力会社から、社長をはじめ取締役が送り込まれてくるケースも多かった。

それらは、すべて、原子力発電の事故に対する報道規制のための危機管理のためであり、すべては、原発を日本国民に容認させるための戦略戦術の一環である。

これらの施策を含め、原発関係で、各地方にばらまかれた金額は、とうてい勘定することはできない額であることは間違いない。
そのために費やされた税金は莫大などという生易しい額ではなかった筈である。

これほど、露骨に、多くの犠牲を払って、また長きに渡り行われてきた原子力政策が、たかだか、福島事故ごときで潰されてなるものかとの、そんな行政を含めた電力関係者たちの怨嗟の声も聞こえるようである。
そのことは、ある程度は、分かる。

しかし、ボクたちは本当に考えなければならないのではないか。
福島の原発事故が、まだあの程度で済んだことは幸運なことだったかも知れないのだ。

こんなに危険極まりの無い、恐ろしい怪物を、日本国内はおろか、世界各国に広める努力をしようとしているのである。
しかも、商売のために。

人間の力では制御し得ない危険物をどうしてお金のために広める気持ちになれるのだろう。
武器商人にも劣る行為なのではないか。

なぜ、そんなに卑しい国民に日本は成り下がったのだろうか。
あるいは、もともと日本人はそういう国民だったのだろうか。
ボクたちは、こういう、リーダーを本当に抱いていても良いのだろうか。

      「原発にゃ ベニスの商人も 仰天だ」

ところで、事情があり、2~3日東京を離れますので、その間だけブログを休ませていただきます。





ベテラン・中堅・新人ディレクター三つ巴の対決の巻

わが社としては、会社設立以来初めての、ちょっとばかり珍しい出来ごとが起きることになった。

4月19日(土)の夜10時から11時の時間帯で、オルタス制作の3つの番組が重なって同時に放送される。
これは全くの偶然で、企画および制作段階では、放送日が決まっていなかったのだが、最終的に放送日が重なることになり、あらまあ、ということになったのだった。

ひとつは、NHK BS1の「ドキュメンタリーWAVE」で放送される「韓国・漂流する名誉退職者たち~50代を襲う経済失速の波~」。

もうひとつはNHK -Eテレの「SWITCHインタビュー 達人たち」の「岡田武史・迫慶一郎」である。
この2番組は、両方共に1時間番組なので、まるまる全く同じ時間帯での放送となる。

あとのひとつはテレビ東京の「Crossroad(クロスロード)」の「元サッカー日本代表・藤田俊哉」でこの番組は10時30分から11時までの30分番組である。
それほど、多くの番組を制作している訳でもないのに、偶然とは不思議なものである。

もうひとつボクが面白いと思うのは、この3つの番組のディレクターが、見事に3世代に分かれているという点である。

「ドキュメンタリーWAVE」は、わが社の専務取締役で最年長のベテランディレクター吉岡攻が演出している。
彼は報道ドキュメンタリーの分野では日本を代表する押しも押されもせぬディレクターである。

「SWITCHインタビュー 達人たち」は30代後半の中堅ディレクターで、映画の世界からドキュメンタリーに転身した小川典が担当している。
独特の作家的視点を持つディレクターである。

そして「Crossroad(クロスロード)」は昨年の4月に入社したばかりの1年生社員・深田聖介がディレクターを務めている。
まだ、右も左も分からないままに、先輩ディレクターの指導のもと、汗と涙を流した。
企画を提案した者を優先するとの考えに基づき、局のプロデューサーの理解も仰ぎ、深田聖介は自分が提案した企画でチャンスを手にすることができた。

ちなみに「ドキュメンタリーWAVE」では、韓国の経済事情を取材している。
これまで韓国の経済成長を支えてきた40~50代のサラリーマンたちが、韓国経済の低迷の中で、いま、「名誉退職」、つまりリストラに追い込まれている。
その数は年間40万人、平均年齢は53.6歳。
通信事業で韓国最大手の韓国テレコムは、今年1月3000人のリストラに着手した。
番組ではグローバル経済の激しい競争にさらされる韓国テレコムの最前線を取材し、その中で「名誉退職」に追い込まれ、第二の人生を模索する50代の闘いの日々を描いている。

「SWITCHインタビュー 達人たち」は元サッカー日本代表監督であった岡田武史と新進の若手建築家迫慶一郎の対談番組である。
中国のサッカーチームに飛び込んだ岡田監督と、中国に拠点を置き活躍する建築家迫慶一郎氏が、お互いそれぞれの活躍場所を訪ね合い対談するという趣向が凝らされている。
中国と格闘してきた2人の達人ならではの体験的中国論が展開されている。

「Crossroad(クロスロード)」の番組コンセプトは、チャレンジし続ける人物を応援する”応援ドキュメンタリー”である。
今回、番組で取り上げたのは、元サッカー日本代表として活躍した藤田俊哉氏である。
彼は、今年1月から単身オランダへ渡り、名門チームで、日本人としては初めての指導者としての人生を歩み始めた。
番組では、昨年末の日本滞在から指導者としての就任後までの活躍や苦悩を密着し描いた。

さて、それぞれの番組がどんな仕上がりになるのか。
ベテラン、中堅、それに新人と、この三つ巴の対決は如何なる結果と相なるのか。
まことにもって、贅沢な楽しみである。

   「新人も 同じ土俵で ライバルで」


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STAP細胞小保方晴子さんの記者会見

STAP細胞の論文に関して、改ざんやねつ造などの疑惑を受けている理化学研究所の小保方晴子ユニットリーダーが、昨日4月9日、およそ70日ぶりでその姿を見せ、記者会見を行った。

この模様は、午後1時からNHKをはじめ、各テレビ局が中継で伝えた。
ボクも小保方氏が登場してくる様子から、記者会見の始終を見た。

小保方氏に関しては、それこそ様々な情報が飛び交い、科学的な研究そのものに関する内容から離れ、その情報が、どんどんゴシップの方向に流れて行くことに違和感と共に、とても残念な思いを持っていた。

これまでも、ボクの知り合いの人たちから、STAP細胞の発見に期待を寄せる思いが届いてもいた。
アラブ関係に詳しいジャーナリストの平田伊都子さんからは、STAP細胞は脊椎損傷患者にとっては暗黒の中の小さな光で、まだスタート段階なのにスキャンダルで万能細胞の研究が後退するのはおかしいと思わないか、とのメールをいただいてもいた。
ボクも同感で、マスコミの焦点が、科学的研究の方向に早く軌道修正されることを願っていたのだった。

小保方晴子氏は、この記者会見で、「STAP現象は何度も確認された真実です」と語り、「STAP現象が論文の体裁上の間違いで否定されるのではなく、科学的な実証・反証を経て、研究が進むことを何よりも望んでおります」と述べた。

公開でSTAP細胞の作製ができるかとの記者の質問には「これまで200回以上成功している。いままでの研究室での作業もわたし一人でやっていた訳ではなく、公開での研究と同様だったので、もし、そういう機会があればやりたい」と答えている。

理化学研究所の調査委員会は今月1日に、小保方氏の論文が不正であったとの最終報告書をまとめたが、彼女はこの会見で論文は撤回しないことを改めて表明した。
調査委員会の結論に対して「あまりの驚きとショックで、何も考えることも言うこともできなかった」と当時の心境を語った。

ただ、小保方氏は「わたしの不注意、不勉強、未熟さゆえに多くの疑念を生み、理化学研究所および共同執筆者の皆さまをはじめ、多くの皆さまにご迷惑をおかけしてしまったことを心よりお詫び申し上げます」と謝罪した。

300人の報道陣を前にして、たじろぐことなく、堂々と胸を張り、まっすぐに前を向き、一度もその眼を落したりそらしたりすることなく、誠意を持っての受け答えは立派だったと、ボクには思えた。
逆に、理化学研究所の調査委員会の調査の在り様や結論の杜撰さが強く浮かび上がったと思われる。

この記者会見での小保方氏の受け答えの内容の評価がどのような結果を導き出すのかを見守りたい。

大事なのはSTAP細胞研究の真実であり、小保方氏のバッシングではない。
そして、何よりも、理化学研究所を含め、広く日本の科学陣が、万能細胞研究の、真実か否かの究明を行い、人々の幸せのために、良い形で花開かせるための努力を惜しまないで欲しいと願う。

お役所のメンツや権威主義が先行することだけは無いように重ねて、祈るばかりである。

   「出る杭は 未熟打たれて 強くなり」


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大きいお金と小さいお金

まったくの与太話で申し訳ないが、お金の使い方も人それぞれであることに気が付いた。
と言っても、別に大げさなお話ではなくて、お金の使い方というよりも、日常の生活での、お金の払い方という方が正確である。

ボクは、お金を払う時、大きなお金から払うことにしている。
例えば、1200円の買い物をした場合、1000円札が二枚あっても、1万円札で支払う。
5千円札があったとしても、必ず1万円札を使う。

また、250円の品物を買う時は、100円玉が3つあっても、1000円札を使う。
500円玉があっても、1000円札で支払う。

だから、ボクのポケットはいつも1000円札と小銭でいっぱいになっている。
ここ数十年間、財布というものを持ったことがないので、小銭の重さでズボンに穴が空き、知らない間にポロポロ落としたりもしている。

日常生活で、1万円札を必要とするケースは、それほど多くは無いし、相手に迷惑を掛けることも多い。
タクシーなどで、1万円札しかないと、申し訳ない思いをする。

その点、1000円札は本当に便利で、使いやすいお札である。
だからボクはいつの間にか自然と1000円札を沢山持っているようにしておくクセがついた。

しばしば、何百何十何円という具合に、1円玉まで丁寧に数えて支払っている人たちを見るが、なんて親切で、こまめな人なんだろうと感心する。
そんな時は1000円札を出せば、相手がおつりをきっちりと計算して渡してくれて面倒なことをしなくても済むのに、と思ってしまう。

ただ、コンビニなどで、1000円以下の品物を買う時は、必ず1万円札か、5千円、1000円札を使うので、すぐに、小銭でいっぱいになる。
1000円札は多少多くても困らないが、小銭は重くなるので、会社に戻ると、その小銭は、ボクの机の下の空き缶に入れることにしている。
ことのほか、10円玉が多くて処理に困る。

2~3ヶ月もするとそれなりの金額になるが、経理や制作デスクの担当者の毎日の両替に結構役立っているようだ。
それらの小銭は、その両替で再びボクの机の下で自動的に1000円札に生まれ変わって行くので、これまた便利である。

一方、妻は、ボクのそういうお金の支払い方が気になるようで、細かいお金から払うように、と常に云う。
本人も、いつも財布の底から十円玉や一円玉を探し出してきっちりと払っている。
そして、出来る限り1万円札は、そのままにして、使わないように努力をしているのだと云う。

理由を聞くと、大きなお金は一旦崩すとすぐに無くなってしまうかららしい。
そして、ボクに財布を持つように云う。
財布が無いとお金も貯まらないとのことである。

そう云われてみると、お札の使い方や財布の有無と、小金持ちや貧乏人との微妙な因果関係はあるのかもしれないと思えてくる。

   「どうせなら 紙幣の重さで 困りたい」


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ある若手スタッフの退職

新入社員たちと入れ替わるように、この3月で会社を自ら辞した若手男性スタッフがいる。

入社して丸2年での退社だった。
彼は新卒の新入社員として手続き通りに正規の面接を受けて入社した社員だった。
とても気持ちが美しく純粋で、感きわまると涙を流すような、優しい青年だった。

ボクのブログなども読んでくれていて、感じることがあると、それについて恥ずかしそうに話しかけて来たが、気が弱いのか、あまりにも遠慮がちで、自分の意思を十分、相手に伝えることが苦手な様子がうかがえた。

とにかく、何事にも、真面目で、真剣だった。
ところが、世の中、なかなか上手くは行かないものである。

入社後しばらくしてから、アシスタントディレクターを上手に指導するベテランのプロデューサーに彼を託した。
それから数ヶ月後、そのプロデューサーから、自分の手には負えないとの話が戻って来た。
トラブルが多く、注意をしても埒があかないのだと云う。

どういう事情かと、ボクが中に入って、彼とプロデューサーと3人で話し合ったことがある。
例えば、と、プロデューサーから、注意すべき具体例をあげて指摘されても、始めのうちは、一体自分のどこが悪くて問題になっているのかが、分からない様子だった。
彼は何事にも、一生懸命に取り組んでいることは間違いなく、その点では立派なのだった。

そして、噛み砕くように、説明するとようやく理解を示し、そうだったのかと納得し、今後は注意します、と実に謙虚だった。
その様子から類推して、ある意味、今後、彼が様々な局面に対応していくのは大変だろうし、困難を伴うだろと予測できた。
しかし、もう一度チャンスが欲しいとの彼の希望を聞き入れ、そのプロデューサーに再び託すことにした。
結果は変わらなかった。

その後も、何人かのプロデューサーの下で仕事についたが、どうしても周囲との歯車が噛み合わない。
彼はベストを尽くしている。
ボクも、どのように育てれば良いのかに苦慮していた。

今年の彼からの手書きの年賀状には「日々楽しく仕事させて頂いております。昨年は苦労しているように思われたとは存じますが、私は毎日成長できる有り難いものだと思って過ごさせて頂いております。今年こそ企画が通り、一本作れるように、まずは頑張りたいと思います。本年も何卒よろしくお願いいたします」とあった。

彼は努力してやる気でいるな、もう少しこのまま様子をみようと思っていた。
そして、最近になって、番組の企画をひとつ実現させた、との話を聞いていた。

そんな矢先に、彼の口から辞めたいとの話が出たのだった。
ゆっくりと彼の話を聞いた。

「年賀状で社長に約束したように、企画を通せて良かったです」と遠慮がちに、彼は云った。
今後の道はまだ決めてはいない、一旦故郷に戻ろうかと考えている、とも語った。

引きとめれば、もしかすると彼の気持ちは変わったかもしれない。
しかし、ボクは、あえて止めなかった。
その方が彼にとって良いとボクは判断したからである。

情に流されてここで引き留めても、結局、彼の苦悩は大きくなるだけだと思った。
2年後、3年後、あるいはもう少し後で、更なる大きな苦労が待ち構えていることは明らかだった。
「ボクが言うのも無責任だけど、キミは本当に良い奴だから、幸せになって欲しいと思う。」とボクは云った。

3月31日。
会社を去る日、彼は「本当にお世話になりました」と礼儀正しく挨拶に訪れ、洒落た菓子折りを置いて行った。
ここまで出来る若者は珍しい。
どこまでも、真面目で実直な青年だった。

彼を採用した責任とボクの力不足を同時に感じないではいられない。
しかし、ボクには、彼の幸せを祈ることしかできないでいる。

      「残るのも 去るのも地獄 浮世かな」


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【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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