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日本テレビ報道局のOB会

ボクは同窓会と名の付くものには余り興味はなくて、大昔に一度小学校の同窓会に出たことがあるだけで、それ以来、幾度となくお誘いはいただくが、いつも欠席の返信を出していた。

今回、日本テレビの報道局OBの集まりがあるからと二人の親しかった元同僚からの誘いもあり、OB会とはどんなものなのかと出席することにした。

現役テレビ局やプロダクションのパーティーとは異なり、今では全く利害関係が無い、ほとんど全員が顔見知りの集まりは、気楽だった。

ボクは途中退社しているので、それこそ25~6年振りに再会する方々も多く楽しかったが、久方振りに海野修太郎さんにお会いできた。

海野さんは報道局・スポーツ局次長を務められ、後にプロダクションを立ち上げられた。
制作もされているが、技術系の仕事を主とした経営をされている。

直接に仕事をご一緒したことはないが、報道局時代にも、ボクのことを「昭ちゃん」と呼び、気に掛けていただいた。

競馬については玄人はだしで、馬主でもいらっしゃる。
これまでも、局のパーティーなどで、しばしばお目に掛っていた。

「ところで、何歳になられるんですか」と聞くと「81歳になったよ」とおっしゃる。
「会長ですか」と突っ込むと「俺はまだ社長だよ。昭ちゃんもまだまだこれからだよ」と励まされた。

ボクも、間もなく70歳。もう少しがんばることにするか。


   「古希なんぞ 鼻垂れ小僧と 云われても」




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20数年ぶりの来客

一昨日、来栖琴子さんが会社を訪ねてみえた。

遥か20数年ぶりにお目にかかったことになる。
以前はちょくちょくお酒でご一緒した。

来栖さんはNHKのアナウンサーからTBSに移られ「ポーラ婦人ニュース」のキャスターを8年半務められた。
満州生まれで、来年で90歳になられる。

「こんな面白い方がおられるんですよ」と森田みどりさんと云う方の「水切り絵」をご紹介いただいた。

色つき新聞紙を水で溶かし、切り絵にしたもので、第二次世界大戦で戦火の中を逃げまどう子供たちの姿を描いている。
いかにも社会派の来栖さんのお勧めである。
「番組にでもなればと思いまして」

来栖さんは20数年前と全く変わっておられなかった。
肌も艶々していてとても高齢のお方とは思えない。

「毎朝プールに行くんですよ」と事も無げにおっしゃる。
「今朝も万葉集の勉強会を終えて、皆さんとランチを済ませ、こちらに参りました。わたしは、もともと国文科でしたから」

ミャンマーのアウンサンスーチーさんの顔を印刷したTシャツを着ておられる。
「先日、ミャンマーに行って来ました。これ、おみやげ」と云って、可愛い楊枝入れを下さった。

軽妙洒脱な会話も健在で、ボクはただ感動しているだけだった。

「来年四月に九州の阿蘇山のふもとにある老人ホームに入るつもりなんですよ」

そう言って、小型のアイパッドを取り出し、さりげなくボクを撮影した。
2枚、3枚とは撮らず、ただ1枚だけ。
実に潔く小気味良い。

全く惚れ惚れとする生き方である。
歳はこういう風にとりたいものだ。


      「お別れの 挨拶回り さりげなく」


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子⑧~

一ヶ月の取材を終え、チャン少年一家に気持ちを残しながら、ボクたちはカオイダン難民収容所を後にした。
母親の衰弱は激しく回復の見込みはなさそうだった。

帰国後、ボクは実家の父親にチャン一家を難民として日本に受け入れたいが、その際、面倒を見てもらえるかと相談を持ちかけた。
父親は意外にもあっさりと、良いよ、と応えてくれた。

当時の報道局長からは、気持ちは分かるが、一時の感情に流されることのないように、との忠告を受けた。

再び、カオイダン難民収容所を訪ねた時には、母親はすでに亡くなっていた。

チャン少年と二人の姉に日本に移住する意志があるかどうかを確かめたが、なかなか決心がつかないようだった。よく考えておくようにと伝え、ボクたちは別れた。

三度目訪ねた時には、収容所にチャン一家の姿はなかった。

カオイダンの他にサケオやマイルートに難民収容所が出来ており、またサイト2、サイト8、サイトKと呼ばれる難民たちの国境避難村があり、どうやら、そのいずれかに移送されたようだった。

調べたが、ついに一家の行方は分からなかった。

あれから、32年が経つ。
カンボジアは姿を変えながらも、表面的には平和な形を保っている。

チャン一家は今どのような暮らしをしているのだろうか。


   「生きるのは 祖国に在るが 自然なり」 


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子⑦~

難民収容所の人たちは一様に食料不足に直面していた。

ボクたちは、国境の町アランヤプラテートで米や食料を仕入れ、毎日収容所に運んだが、これを配るのも結構大変な仕事で、僅かな量の食料を一万人を越す収容所の全員に配ることなど到底不可能な上に、不公平を生み出すし、人々の間に混乱を起こしかねなかった。
こっそりと配ったりもしたが、それも、いかにもコソコソした感じで悩んだものである。

それと、飢えた人たちの取材をしているボクたち取材者が、毎日、アランヤプラテートに戻り、十分な食事をしていることに罪悪感を感じない訳にもいかず、どうすれば良いのかをスタッフで話し合った。

ボクの出した結論はこうだった。

ボクたちは取材者であり、その使命はカンボジア難民の人たちが置かれている窮状を記録し、それを広く世に知ってもらうことである。
思いっきり食べ、元気をつけて、思いっきり取材しよう。
それが、ボクたちの役目だ。

詭弁とも言えるこんなへ理屈を弄し、取材を続けたのだった。


   「へ理屈で 心の重荷 軽くして」


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子⑥~

病床に伏す母親やチャン少年たち姉弟をはじめ、カオイダン難民収容所にいた人々はボクたちの取材を受け入れてくれていた。
しかし、今から思い返してみれば、彼等は一体、ボクたちが何のために彼等に話を聞いたり、撮影したりしているのかは全く理解出来ていなかったことに気付く。

ボクたちは、テレビのドキュメンタリー番組の制作のためだと説明していたのだが、カンボジアの人たちにとってはテレビそのものが、何であったのかが分からなかった筈なのだ。

カンボジアのテレビ放送は1966年に開始されてはいたが、まだまだ全国に普及はしておらず、1975年のポルポト政権時代には、テレビ局は破壊されるなどして中断されていた。
その後、1985年に改めてカンボジア国営放送局(TVK)が開設されることになるのだが、ボクたちがカオイダン難民収容所を取材した1980年5月は、カンボジアにはテレビ放送はなかったのだった。
特に、農村の貧しい人たちにとっては、それまでも、とてもテレビなどとは無縁な存在だったに違いない。

そんなことにも気づかず、生死の境を彷徨っている人たちの集まる、他人の庭にずかずかと入って行ったことが、今さらながらだが、少しばかり気が引ける。

ただ、言論の自由を認めない国家は、たとえどんな理想を掲げようとボクは絶対に信用もしないし、認めることは出来ない。

     

     「言論の 自由なければ 未来無し」


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子⑤~

カオイダン難民収容所では、1週間に一度程度、米などの食料と水が支給され、収容所の広場には、配給を受ける人々の長い列ができた。

当然のこととは云え、食料や水は、生きて行くのに必要な最低限度の量で、栄養状態も悪く、人々は一様に腹を空かせ、痩せこけていた。

正確に調査した訳ではないが、収容されている人々の多くが女性と子供たちで、男たちの姿は少なかった。
そして、男たちには片足を失うなど負傷している者が多くいた。
それは地雷の被害によるものとのことだった。

やがて、チャン少年は、ボクたちを自分の住まいに案内してくれた。

住まいと言ってもその辺りから集めた灌木を自分たちで組み立て、草や木で屋根を葺いた粗末な、小屋とも云えぬものだった。
高さが1メートル少しで、2~3人がやっと横になれる狭さだった。
時折襲う激しいスコールを到底防げるとは思えない。

チャン少年は2人の姉を紹介してくれた。
父親は亡くなっていた。
病のためか、戦乱の犠牲になったのか、ポルポト兵として戦死したのか、また殺されたのか、チャン少年一家から聞き出すことは出来なかった。

彼等はポルポト時代のことについては決して語ろうとはしなかった。
収容所にいても、特に政治的な事柄については、その口は重く堅かった。
それは彼等のこれまでのカンボジアでの日常の断面を物語っているように思われた。
人々の心の傷の深さがうかがえた。

   「語らぬが 語るに優る 情報も」

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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子④~

カオイダン難民収容所の南方20キロメートルに国境の町アランヤプラテートがあり、ボクたちはここを拠点として取材を続けた。

アランヤプラテートとはタイ語で僻地の町という意味である。
その名の通り、町のはずれに、乾季の、水量の少ない季節には歩いて渡れるほどの小さな川があり、これがカンボジアとの国境線となっている。

まさに国境線上に存在する小さな町だったが、タイへのカンボジア難民の流入のせいで、この町に拠点を置く、各国の外国人ジャーナリストたちも多く、結構賑わっていたものだ。

ボクたちは、この町から毎日カオイダン難民収容所に通った。

初めのうちはなかなか打ち解けることのなかったチャン少年も、一週間ほど経った頃から笑顔を見せるようになった。

板張りのベッドに寝た切りの母親の容体は芳しくはなく、日々衰弱していく様子が見てとれた。
看病するチャン少年の差しだすスプーンのおかゆらしき食べ物もほとんど喉に通らないらしく、いらない、と力のない手で振り払う仕草を見せる回数が増えていく。
特別の治療をしている気配もなく、おそらく回復の見込みはなさそうだった。


   「明日への 希望の見えぬ 母子かな」


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子③~

戦火を避けて避難する難民と言えば、大きな荷車に家財道具を乗せて移動する光景を連想するかもしれないが、カンボジアから逃れて来た人たちは、それこそ着の身着のままの貧しい人たちで、鍋や釜を持っているのがやっと、という状況だった。
それも命からがら、タイの国境に無事に辿り着けたのが幸運とも云えた。
ポルポト政権下の人々の暮らしぶりが、いかに貧しく酷いものであったかが想像できる。

ポルポト政権下における恐怖政治の実態の詳細については避けるが、ロン・ノル政権時代の政敵に始まり、反ポルポト派に対する粛清は厳しく、多くのカンボジア人が命を落とした。飢餓や病気で亡くなった人が圧倒的に多く、1975年から1979年までのポルポト政権時代の死者数はアメリカ国務省は120万人、ポルポト自身は80万人と、推計している。
ホロコーストや南京虐殺などと同様、多数の虐殺があったのは疑う余地はないが、その実数については定かではないようだ。

なんとも無茶な政治を行ったものである。

ポルポトをはじめとする国家のリーダーの責任は大きいが、ベトナム戦争中、アメリカが空爆でカンボジアの国土を荒廃させたのも、飢饉の大きな原因のひとつであることも事実だ。
いつもの事ながらアメリカの罪は大きく重い。

カオイダン難民収容所に逃れて来た人々は、そんな過酷な状況下をかろうじて生き延びて来た人たちとも言えた。


   「大国は 人権説きつつ 人殺し」


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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子②~

カオイダン難民収容所には病院と名のつく施設はあった。
しかし、それは建物と呼べるようなものではなく、一応雨露を凌げる程度の屋根はあったが、囲いがある訳でもなく、10床ほどの板張りのベッドが並べられているごく粗末な所だった。

そこに一人の女性患者といつもそのそばに寄り添っている6~7歳の男の子がいた。

男の子は名前をチャンと云い、コンソンポムというカンボジアの田舎の村から、何日もかけて戦火を逃れ、この収容所に辿り着いた。

母親は肝臓と腎臓を患っており、かなりの重症だった。

ボクたちは、この母子を中心に、収容所と彼等難民を取り巻く状況を記録することにしたのだった。

カオイダン難民収容所は周囲が約1.5キロメートル四方の収容所で、第三国に定住を希望する人たちの一時滞在施設として開設されたものだった。
ボクたちが取材に入る1カ月ほど前にはおよそ16万人のカンボジア難民が収容されていた。

母親は口をきく気力も体力も既に無く、ただ黙って寝ているだけだった。
そして、看病をするチャン少年も虚ろな眼をして母親のそばに付き添っていた。


   「故郷の 戦火逃れて 鍋ひとつ」

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忘れられない風景 ~カオイダン難民収容所の母と子①~

タイの首都バンコクの遥か東方、カンボジアとの国境にカオイダン難民収容所があった。

1980年の4月から5月にかけ、ボクたちは一ヶ月間、その収容所に逃れて来たカンボジア難民たちの取材をしたことがある。

1975年4月にカンボジアの首都プノンペンを制圧したポルポトは政権を樹立し、中国毛沢東の農本主義による原始共産制を実現しようとしたが、破綻を来す。
1979年1月にベトナムの支援を受けたヘン・サムリンがプノンペンに侵攻、ポルポト軍はタイ国境に退き、以後ゲリラ戦を行うようになる。こうしてカンボジアは内戦状態となり、多くのカンボジア人が難民としてタイに流入し始めた。

カオイダン難民収容所は、そのカンボジアからの難民を受け入れるために開設された最初の収容所だった。

1979年11月に開設され、タイの内務省とUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によって運営されたが、開設から翌年1980年1月までの3カ月間に毎日平均1600人の難民が収容されたという。

ボクたちは、ここである母とその息子に出会ったのだった。


   「生と死と 日々目のあたり 収容所」

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プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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