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平穏な時代に生きるボクたちの役割

相も変らぬ与太話で。

ボクの知る限り今の若い人たちは、政治の話をしない。
いつの頃からかは分からないが、若者たちの間では政治に関する話題がタブーになっていることだけは間違いのないことである。
その理由を聞くと、余計な議論を避けるため、との答えが圧倒的である。

政治が人びとの関心から遠いということは、世の中が平和で平穏である、ということのひとつの証でもある。
しかし、政治への無関心は政権与党のみならず野党も含めて政治家の質の劣化を許し、政権の怠慢と傲慢と独善を招くことになる。

衆院選の投票率を見ても、前回、前々回は戦後最低だし、特に20歳代の投票率が30%台と他の世代に比べて最も低い。
当然、これからの日本がどこに向かって舵を切っているのかにも関心は薄い。
それでもボクたちは平和ボケの真っただ中にいるので、平和ボケの意味すら分からないでいる。

かつて日本はアメリカに無謀な戦争を仕掛けた。
そして屈辱的な敗戦から今日に至るまでの70数余年、幾多の困難を乗り越えて日本人は経済的繁栄を体験した。
その意味では、戦後日本に生きるボクたちは、とても平和な時代を生きることが出来た稀有な国民である。

こんなにも長期間に渡って戦争を避けて来られたことは奇跡に近い有難いことである。
そして、平和であることが当然の事で、この状況がずっと続いていくのだとの錯覚の中で現在を生きている。

それもその筈で、敗戦から74年を経た今では、悲惨な戦争を体験した者はごくわずかとなり、ほとんどの日本人は言葉としての戦争しか知らない。
戦争で体験した苦しみや悲しみは、とても残念なことに、次の世代に伝承することが絶対にできないことをボクたちは歴史から学んで知っている。

日本維新の会の35歳の議員の北方領土を巡る戦争肯定発言なども平気で飛び出す時代になった。
武力を行使して相手から勝ち取るというのはいかにも単純で分かり易い論理である。
一部の好戦的な勢力にとっては、いかにも潔く、闘争本能を刺激されることだろうし、恐らく、この戦争肯定論発言は氷山の一角だろう。
そして、敢えて言えば、これまで戦争がその役割を果たして来たことは歴史上の事実である。

繁栄は衰退の始まりであり、平和は戦争への入り口であることもまた歴史の真実だ。
必ず、その時々に応じて都合の良い「正義」が唱えられ、その正義の下で「聖戦」が意図的に画策され実行される。
そんな歴史の流れの中に現在と近未来の日本の姿が幻影のように、見える。

遠く翻って見れば、暗黒時代の代名詞ともなった中世のヨーロッパではキリスト教が支配し、ローマ法王のお墨付き一枚あれば、異教徒を殺害し、その財産を略奪することが正義とされた。
どれほど多くの血が流され、人びとが苦しんだことだろう。
イスラム圏に攻め入った十字軍の遠征はその極め付けで、キリスト教とイスラム教との戦いは姿を変えて現在もまだ続いている。

やがて、侵略や略奪の大義名分はキリスト教による「異教徒征伐」から国家間の「野蛮征伐」に変わる。
相手に対し野蛮だとの言いがかりをつけることが出来れば、殺戮は勿論、領土や金品の略奪の名分となった。
スペインがインカ帝国を滅ぼしたのも、アメリカ大陸で他国からの移住民である白人が原住民であるインディアンを殺してその土地を奪うのも、大義名分は相手の野蛮性である。
そして、それらの残虐的な行為のすべてが正義による行為と国際的に正当化されて、現在の栄える国々が存在している。

開国後の明治維新政府が最も恐れたのもそれで、文明開化を急いだ。
慌てて士族への帯刀禁止令を出したのも、「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と流行り歌でも詠われたチョンマゲ禁止令も、西洋建築物を建て、和服から洋装に変えたのも、西欧列強に野蛮との大義名分を与えて侵略されないようにするためであった。

中世キリスト教世界の異教徒への残虐行為も、野蛮な存在だから滅ぼすことは正義だ、などが大義名分として認められること自体が呆れるばかりで、どう考えてもバカバカしいとしか思えないのだが、それが人間の現実の世である。
同じことは、歴史には数え切れないほど存在しているし、現在でも飽きることなく同じことが繰り返されている。

近くでは、穢れた血を持つユダヤ人の抹殺を大義としたナチスドイツの大量虐殺も、西欧列強からのアジア支配解放を大義としたわれら日本の朝鮮半島から中国、アジアへの侵略戦争も、自由主義社会を守るとの名分でアメリカが仕掛けたベトナム戦争も、ありもしない大量破壊兵器を理由にアメリカ主導で国連軍を編成しイラクに攻め入ったのも、理屈にならない大義名分を無理やり作り上げて正当化した業である。

それらのすべてに共通するのは正義の戦争である。
かくして、人間の歴史は戦争の歴史であったと言っても過言ではない。
そして、その度に、多くの命が失われるばかりではなく、国の政治経済体制を初めとして人びとの暮らしも文化、価値観や常識が根底から覆ることになる。

知る限りでは、有史以来、地球上で戦争状態でない一瞬すら無かったのではないかと思えるのだが、そうだとすれば、戦争反対などの願いなど、ほとんど絶望的に虚しいことかもしれないとも思う。
普段の生活で普通に善良に生きている人たちが、一旦兵隊として駆りだされるや敵を殺すことが使命となる。
そんなことは嫌だと考えている人たちが圧倒的に多い筈なのに、戦争が無くなることは無い。

あらゆる生物間での生存競争の中で、人類をここまで生き延びさせたのが闘争本能であり、それが戦争を起こさせるのだろうか。
そして改めてボク自身を見つめ直したとき、自分の中に善良さと邪悪さのあることに気付く。
この善良さが邪悪な欲望に負けた時に戦争が起きるのだろうか。

少なくとも、綺麗ごとや理想論では解決できそうもない問題であることは間違いない。
それでも、戦争を単なる言葉の概念ではなく、戦争がもたらして来た悲惨さや苦悩や悲しみの実態から眼を反らさずに歴史を見つめ学び、戦争とはどういうものかを知り、実感することで、戦争を否定する信念を培う努力は必要だと考える。

そんなことをしても、戦争は人間の宿命だから無駄なことだとの意見もあるだろう。
しかしである。
人の命には限りがあり、永遠の命の無いことを誰もが知っている。
これは宿命であり、別の言い方をすれば永遠の命の絶望である。

誰もが死に向かって生きている。
そして、どうせ死ぬのになぜ人は生きるのか、との問いが常に存在する。
だからこそ、命の時間を少しでも先に延ばす努力をして、その限りある命の時間をどのように、生きるのかが大切なのだ。

それと同様に、戦争が仮に人間の宿命だとしても、出来る限り戦争を起こさないように願い、平和な時代を一瞬でも永く続けようとの努力こそが求められてしかるべきである。
その意味では、死と戦争は同義語である。

いま日本の目前に戦争の危機が迫っていると思っている訳では無い。
しかし、軍事同盟の下で日本が他国との戦争に加担しているのも現実の姿である。
国家がその生存のために戦争も已む無しの空気が当たり前になって行く道筋を日本が辿っていることも事実である。
かつての敗戦によって得た不戦の決意の揺らぎが広く蔓延していくことを懸念している。
現在の日本をリードしている為政者の目指す国の形に対して大きな不安を感じるからである。

ボクたちはどう生きたいのか、どのような国や社会で生きたいのかを改めて考えて、自由に議論する必要があるのではないか。
議論を闘わせることを避けて、政治をタブー化する若者たちを創り出したのはボクたち世代の責任ではないのか。

情報の溢れる中で、何か大切な言論の封殺が行われているのではないか、などとあらぬ疑いまで持つのはボクだけだろうか。
 
  「人よりも 一箸遅れ 飯を食い」

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ただ今、新入社員採用面接中

いま、来年4月からの新入社員採用の面接に追われている。

昨年は5人の新卒者を採用し、この春から全員が元気に活躍してくれている。
今年も出来れば昨年と同じくらいの人数を採用したいと考えている。

昨今は、若い人たちがテレビに興味を失い、テレビ受像機そのものを持たない若者が増え、テレビ局は勿論のこと、テレビ番組制作会社への就職希望者数も一時に比べればずいぶんその数は減っている。
中でも、ボクたちのようなドキュメンタリーを中心に制作している会社への応募者は限られていて、バラエティーや情報系の番組制作会社へほどの人気はない。

しかし、そんな時代でも、ドキュメンタリーを志す将来有望な若者たちは絶えることはなく、それなりの人数の学生たちがわが社の門を叩いてくれる。
そして、そのほとんど全員が、テレビ番組制作会社に絞って就職活動している。
テレビ離れのこの時代に有難いことである。

今さら言うまでも無いことだが、ボクたちのような制作会社にも100人単位での応募があった頃は、応募者の採用に関して会社が優位に選択できたが、求人難のこの時代では、就職希望者が会社を選ぶ時代にもなった。

その意味では求人側と応募側は五分五分の立場になったと言える。
会社も応募者もお互いに選び合う訳である。
採用する側のボクたちも改めて襟を正し直さなければならない訳で、ある意味健全なことであるとも言える。
これまで以上の緊張感もあり、大変とは云え、それはそれで面白い関係にある。

ところで、就職志望者から「番組を制作する上で大切なことは何ですか」との質問を受けることが多い。
大切なことは山ほどあるが、好奇心と継続力だとボクは思っている。

敢えて言えば、特に継続する力が最も必要だろうと思う。
他のどんな仕事にも共通する要件だろうが、ボクたちの業界で言えば、ディレクターらしくなるには10年は必要だ。
一人前になるには少なくとも20年掛かる。
そして、20年続けることが出来れば、たいていの人は一人前のディレクターに仕上がる、と断言できる。
とにかく、ひとつの道を継続することが何事においても一番大切なことだとボクは信じている。

そして、案外、この継続力は難しい業である。
その道が好きでないと続けることが出来ないからである。
そして、好きとか、嫌いとかは、努力だけではどうしようも御せない性質の分野だ。
いくら理屈を並べられても、説得されても、好きや嫌いは自由に操作できない。
だから、ボクは「この仕事は好きでないと出来ませんよ」といつも言っている。

しかし、考えてみると、世の中の色々な職業に就いている人たちの中に、本当に好きでその仕事をしている者は何パーセント存在するだろう。
意外と少ないのではないかとも思う。
もしかすると、好きな仕事ができている人は幸せ者かもしれない。

1日の三分の一は眠って過ごす。
通勤時間を入れると少なくとも12時間にはなるから1日の半分は働いている。
残りの4~5時間で食事をしたり飲んだり、顔を洗ったり風呂に入ったりの余暇に使う。

休日はともかくとして、1日の半分を仕事に費やす、その時間量は膨大で、その時間を如何に楽しく、面白く、意義ある形で過ごすことが出来るかは、人生をどのように過ごすかに匹敵する量的、質的価値がある。
だから、好きな仕事を選ぶことが、人生にとって最も適切な選択だと思っている。

生き方は人それぞれだし、人生観も百様だ。
各人の生まれや育ちや境遇も様々だから、人生の価値観も多様である。
それを承知で、ボク自身は仕事に生きがいを見つける生き方が、もっとも自然で理にかなっていると信じている。

そんな訳で、採用については、その才はともかく、将来的に番組作りが好きで、一生情熱を持ち続けることの出来る、継続力のある人材を求めている。
 
      「子曰く 好きこそものの 上手なれ」




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写真家・大石芳野さんのジャーナリズム

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不夜城からの転身

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新入社員への期待

今年も4月1日から男子2名、女子3名の総勢5名の新入社員たちがボクたちの会社の新しい仲間として加わった。
例年通りに入社式を行い、10日間ほどの研修期間を設けた。
入社式は単なる儀式に過ぎないとの見方もあるが、ボクは意味のある大切な儀式だと考えて毎年これに臨んでいる。

最近では新入社員については、入社後半日で辞めた者がいるとか、研修に耐えられず辞めた、などのニュースを初めとして、働く若者たちの理解し難い行動の数々が何かと世間の話題になっているが、それはそれとして、入社式は、わが社の扉を叩いてくれた若者たちに真剣に向き合うための貴重な儀式だ。

まず、数ある会社の中からボクたちの会社を選択してくれたことへの謝意を伝え、そして同時に、彼らを受け入れる側のボクたちの、彼ら若者たちへの責任を改めて自覚する場でもある。

各人それぞれの個性や適性、能力を見極めて、それをどう伸ばしていくのか、そして一人前の制作者にどのように育てていくのか導いて行くのがボクたちの役目だ。
それが、制作者を目指す本人はもとより、会社のためになる。
お互いにとって良い関係が保てなければ、物事は続かず、その関係は必ず破綻する。
その努力をして駄目ならば、つまりは、それまでの縁である。

ボクたちの社名であるオルタスとは、ラテン語で、「始まり」という意味である。
そしてもうひとつ併せて「東方の」という意味も持つ。
30年前に社名を決めるに当たって、ラテン語の辞書を買い求め、頭から最後まで調べてオルタスの語を発見し選んだ。

特に「東方の」というのがボクは気に入った。
世界から見れば、ユーラシア大陸の東端、まさに極東にへばりつくようにして存在する日本列島、この小さな島国から世界に情報を発信する情報基地を作ろう、それをオルタスの使命としよう。
オルタスジャパン。
身の程知らずにも、そんな大それた志でつけた社名である。
そして、その大志は今も変わることなくボクにはある。

とにかく、世界中の人たちをビックリさせ、驚かせるような番組を作りたい。
驚きを、感動、怒り、悲しみ、幸せに置き換えても良い。
人の心をその芯から揺さぶることのできる番組を発信したいと願っている。
それがボクの番組作りに対する基本姿勢である。

会社を立ち上げて以来初めて、新入社員の研修枠に時間を貰い、ひと言だけしゃべらせてもらった。
特に若者たちに伝えておきたいことがあったからである。
それはひと言で表現すれば「チマチマするな」という事である。

ネットの出現でテレビ産業は大きく揺さぶられ、映像産業は多様化し、多角化した。
これまで築いてきたテレビ王国はその全盛期を過ぎ、低迷と模索の時代となっている。
東京のキー局も生き残りを賭けての死闘の時代を生きていると言っても過言ではない。
そんな中にあって、そこで放送されるソフトの制作現場も過当競争の時代となっている。

制作費単価が抑え込まれ、良質の番組を作ることがとても困難な状況にある。
番組制作で利益を上げることが難しい時代ともなっている。
良質の番組を目指す一方で、経費の削減が叫ばれる。
質は量を規定し、量もまた質を規定する。
これは不変の法則だが、現在の制作現場ではそのバランスを保つことが難しくなり喘いでいる。

しかし、そんなことは今に始まったことでもなく、ボクたちはこれまで何度かの洗礼を受けているから、そういう困難な状況を乗り切る自信はある。
ただ心配なのは、企画の発想がチマチマと痩せ細って行くのではないかとの恐れである。
企画の衰退はテレビ界全体の衰退に直結する。

番組企画の発想段階で、制作費を前提で考えるから、出て来る企画は制作費に見合った規模の企画となる。
安い制作費の番組が多いと、企画も自然とチマチマしてくる。
それが続くと、次第にのびのびした大きな発想が出来なくなってくる。
発想がしぼんでいくことが恐ろしい。
どうせ実現は出来ないだろう、と発想を止めてしまうことが恐い。

「こんな企画は金が掛かり過ぎるからダメだ」とプロデューサーから突き返されるようなデッカイ企画を考えて欲しい、とボクは新入社員たちに頼んだ。
そして、突き返されたらボクの所に持って来てほしい、と。

そしてもうひとつ、新入社員たちに頼んだことがある。

ドキュメンタリーがこれまでテレビの主役だったことはない。
現在はバラエティーがテレビの主役だが、時代によって歌番組だったり、時代劇、あるいはトレンディードラマだったり、プロレスや野球、サッカーなどのスポーツだったり、ワイドショーであったりと時代によって主役は入れ替わって来た。
しかし、ドキュメンタリーは主役になったことはない。

だからと言って、それを実現したいとは思わない。
ただ、ドキュメンタリーならばオルタスジャパンだ、という存在になって欲しいと心から願う。
それがボクの夢である。
その夢を君たちの手で実現して欲しい、と頼んだ。

新入社員たちは、そろそろ、研修を終え、それぞれの制作現場に就き、実践に当たる。
これから色んな困難や辛いことなどを体験することになるだろうし、必ず大小様々な壁にぶち当たることになるだろう。
そこで嫌になったり、仕事を止めたくなることもあるだろう。
また、「そこよりも、もっと給料の良い仕事があるよ」などの悪魔の囁きが聞こえて来ることもあるに違いない。

そんな時に、入社式に臨んだ時の、不安と期待の入り混じった、そして、やる気に満ちていたフレッシュな自分を思い出して欲しいと願う。
一度、初心に立ち返って欲しいと思う。

ボクは自分が困難に直面した時に唱える呪文がある。
それは「オルタス」というラテン語だ。
全ての「始まり」がそこにある。

       「ネタよりも 企画求むの テレビかな」


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プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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