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テレビ屋の宿命

日本でテレビ放送が始まったのはボクが小学生上学年の頃だった。
当初はテレビ受像機を持っている家も少なくて、ボクの家にテレビが来たのは中学生になってからだったと思う。

テレビ放送局はNHKと日本テレビと東京放送だけで、放送時間も短かいものだった。
テレビ受像機もとても小さく、白黒放送だった。
当時は劇場映画が盛んな頃で映画人からは電気紙芝居などと揶揄されていた。

その頃は将来、自分がテレビ局で働くことになろうとは夢想だにしなかったが、テレビ屋になってすでに50数年、今もテレビに明け暮れる毎日だ。

しかし、この間にテレビもそれを取り巻く環境も大きく変化した。
家庭の娯楽の中心だったテレビは核家族と少子化、さらに経済成長と相まっての家族団らんの消失と共にその王座を追われた。
インターネットとスマホの出現でテレビ受像機を持たない若年層が圧倒的に急増し、テレビ視聴者層の高齢化が進む一方だ。

今や既成のテレビ局とは別にインターネットテレビが若者たちを捉えている。
俗にGAMFAと称されているグローバル巨大IT企業群が動画配信業界を牛耳り始めている。
GAMFAとはGoogle・Apple・Microsoft・Facebook・Amazonの頭文字を取ったものだ。
遅ればせながらソフトバンクとLineが経営統合し、その仲間入りを目指そうとしている。

公共放送NHKは国民から視聴料を得て成り立っている日本最大の有料テレビ局で、一方民放各局は企業からのスポンサー料で成立しているが、これまで日本のテレビ業界を中心とする映像業界は国内の顧客だけを対象に展開して来た。
日本の人口は現在1億2614万人で毎年30万人ほど減少し続けており、市場としては決して大きいとは言えない。。
しかし、一方、世界数十億人の視聴者や利用者を相手に事業を展開するGAMFAを初めとするグローバル巨大IT企業群の業界参入で映像配信業界の様相は一変しつつある。

もっとも、テレビとネットとは別のメディアだが、重なる部分も大きくあり、既存のテレヒ業界への影響は大きい。
NHKは国民の視聴料が命綱なので、視聴者人口の減少が経営の大きな問題となるが、公共放送の位置づけにあり、ここ数年内の急激で極端な衰退は予想し難い。

一方、民放テレビ局はスポンサーが頼りだが、そのスポンサーがネットの方に移行しており、ついに、スポンサーのネットに流す総額がテレビ業界を超えた。
その結果として、東京には民放キー局が5局あるが、そこで動く絶対額では2~3局しか生き残れないと言われている。
近い将来に民放テレビ局の整理が行われる可能性は高い。

こういった映像業界の激変の中で、ボクたち、主としてテレビ番組を制作しているテレビ屋がどのような道筋を歩むべきかが大きな課題となっている。

ただ、幸いにもボクたち制作会社はテレビ局ではなくて,ソフトを制作するモノ作り集団である。
メディアがどう変化しようと、ソフトが求められる限りは、ボクたち制作者の仕事に終わりはないとの気楽さはある。

わが社でもネットや企業関連の制作部門を設けて新しい時代の動きに対応しており、売上の10%ほどまでになってきた。
恐らく今後、この部門の成長を図るのが必須であるとの認識は持っている。

とは云え、ボクたちの会社は、設立以来30年余テレビ番組の制作で生きて来たテレビ屋だ。
それもドキュメンタリーに特化して制作してきた。

今後も、この座標軸を変えるつもりはない。
制作する番組のジャンルの幅を広げることはあっても、ドキュメンタリー制作を基軸に据えることはわが社の基本方針であり、また経営戦略でもある。
ネットに押され、テレビ業界がすぐにでも消滅するかのような見方をする論者もいるが、民放はともかくとしてNHKがそう簡単に無くなることはない。

テレビに生き、テレビと共に死んでいくのはテレビ屋のひとつの生き方とは云え、時の流れに取り残されるのは必ずしも本望ではない。
しかし同時に、まだまだ大きな可能性を秘めているテレビでの番組制作を追求して行くことを止めるつもりもない。

激変の時代には、機を見て敏なることも必要だが、急いては事を仕損じるということもある。
また急がば廻れの教訓もある。

今さら動じるものでもないが、知恵は要る。
これも時代の大きな変化の中で葛藤を続けるテレビ屋の宿命である。

      「たかがテレビ されどテレビの 余韻かな」


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人生は演出だ

ボクはいつもスタッフに、「楽しいこと」や「面白いこと」は世の中に満ち溢れているけれど、他人から与えられるモノじゃなく、自分で作り出さないと決して出会えないよ、と言っている。

ボクは大学受験に失敗し、一浪して予備校に通った経験がある。
その予備校で出会った友人にフランス文学者の奥本大三郎がいる。
出会って以来現在まで彼のことを大ちゃんと呼んでいる。

大ちゃんは東大に進み、後に大学教授として教鞭を執ったが、数十冊に及ぶ数多くのエッセイを執筆するかたわら、昆虫好きが高じて、30年の歳月をかけて「ファーブル昆虫記」全10巻20冊を完訳するという偉業を成し遂げている。
現在はファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長を務めている。

NHKで放送した「課外授業ようこそ先輩」に出演を依頼したこともあるし、わが社の設立30周年記念パーティーでも挨拶を頼んだ。
人生を楽しんでいるひとりだ。

以前、大ちゃんは「若い頃は、どうでも良いような些細なことで一喜一憂したものだが、その無意味さが、ようやく少しは分かって来たよ」とさりげなく語ったことがある。
ボクもその言葉の意味を実感する。

予備校にもうひとり親しくしていた友人Nがいた。
当時、浪人生活は楽しいものでは無かったのだろうか、ボクはNに「何か面白いことはないかなあ」と聞くでなく聞いたことがある。
Nは呆れたようにボクの顔をマジマジと見つめ「お前は本当に馬鹿な奴だなあ。世の中に面白いことなど存在する筈はないだろう」
その時期の明確な記憶は薄れているが、それでも、その時のNの表情と返答だけは60年近く経った今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

Nは京都大学に合格し、哲学の道に進んだ。
ボクは東京に出て、以来Nとは会っていない。
そのうち音信も途絶え、その後のNの消息は知らない。
しかし、その一言でNはボクの哲学の師匠となった。

その時はNの言っている意味が分からなかったが、今はおぼろげに分かる。
少し理屈っぽい話で申し訳ないが「面白いこと」と言っても誰にとって面白いのか、ということがある。
ボクが面白いことでも、他の人には面白くないかもしれない。
絶対的な普遍性を持つ「面白いこと」など存在しないのである。

あるものに対してボクが勝手に面白いと感じているだけで、そこに「面白いこと」そのものが実際に在る訳ではない。
単なるボクの認識でしかない。
認識はあるが「面白いこと」そのものは存在しない。

したがって「世の中に面白いことなど存在しない」とのNの言葉は正しい。
「楽しいこと」「嬉しいこと」「幸せなこと」「悲しいこと」「苦しいこと」「辛いこと」「不幸なこと」も同様に概念に過ぎず、それらは普遍的な実態を伴わない。
善と悪も、美と醜も同様で、それぞれの感じ方や考え方や捉え方で異なるただの概念で実態はない。

例えば、ある人物の死は、ある人にとっては悲しく辛いことであるかもしれないが、ある人にとっては嬉しく幸せであるのかも知れない。
ある人物の死そのものは、単なる死という事象であり、悲しみや喜びそのものではないと言える。
世の中はそういう実態の無い、捉えどころないものの上に成り立っている訳だ。

ボクたちの日常で起きる事件やさまざまな出来事のすべてにその原則は当てはまる。
つまり、すべての物体も、出来事も、認識して初めて存在する。
色即是空、空即是色とはそういうことを言うのだろうか。

ということは、すべての事象へのボクたちの対応は、ボクたちの意思で自由自在に操れるということでもある。
「悲しいこと」や「苦しいこと」「辛いこと」をボクたちの受け止め方次第で「嬉しいこと」「楽しいこと」に変えることが出来るということである。

ボクたちの周囲にも、世の中がつまらない、仕事が面白くない、とか人生そのものを投げている人たちがいる。
また、目先のちっぽけなことに捉われて苦しんでいる人たちもいる。

その人たちは面白く楽しいことは誰かから与えて貰えるものだと勘違いしているのかもしれない。
世の中や仕事は只の現象に過ぎす、それを面白い、楽しいものとして認識するのは自分自身しかいないことに気が付かないだけかもしれない。

それらは自らが作り出す以外に手にすることができないものである。
そういう意味では人生は演出である。
自分自身への演出次第で面白くも楽しくも出来るのだと思う。

確かに、人が係わる限り、その世界はエゴと矛盾に満ちた混沌に支配されることは身に染みて知っている。
秩序も実は見せかけに過ぎないことも誰もが知っている。
そんな世を無事に生き続けることは至難の業でないことも知っている。

しかし、それは知恵を得てしまった人間の逃れることの出来ない宿命なのだろう。
それでも、奇跡の生を受けた以上、エゴと闘い、矛盾と闘い、人生に喜びを見つけて楽しく生きようとする生き方がボクの望む生き方なのだが。

      「だがしかし ハテナハテナの 浮世かな」


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働き方改革の波紋

先日、あるテレビ局の関連会社から、わが社の朝から夕刻までの様子を丸一日見学したいとの要請があり、うちのような会社で良ろしければ、いつでもどうぞ、ということになった。

要請のあった局の関連会社は200人以上のスタッフを抱える制作会社だが、働き方改革で残業が自由に出来なくなったために、大幅に人員を増やさざるを得なくなった。

これまでは、スタッフそれぞれのデスクを用意していたのだが、増員すればデスクが足りなくなる。
オフィスの広さには限りがあるので、どうすれば良いか、と思案していたら、どなたかが、オルタスがフリースペースでやっているらしいよ、ということを聞きつけて、同業の制作会社だから一度その様子を見学してみよう、ということになったらしい。

見学に先だって打ち合わせに来られた担当責任者は「自分のデスクが無くなっても、上手くいくものか、不平不満は出ないか」を心配した。
さらに「使ったパソコンや資料などの整理整頓は可能なのか、帰宅時に放置していくのではないか」を恐れていた。

しかし実際には、ボクたちが昨年の12月1日に現在の建物に移ってからおよそ10ヶ月、フリースペースを実践しているが、とてもスムーズで一切の問題は起きていない。

見学当日、朝早くから4人の担当者の面々が来られて時折メモをとるなどして、真剣に観察した。
午後には常務取締役のAさんも挨拶に見えた。

Aさんは親会社のテレビ局からその関連会社に出向しているが、かつてレギュラーの報道ドキュメンタリー番組のプロデューサーを務め、ボクたちもずいぶんお世話になった。
反骨精神に満ちたとても優秀なプロデューサーで、常務取締役をしているのは勿体ないと思えるほどの現場感覚の人物である。
常務取締役としても手腕を発揮されていることだろう。
しばしば麻雀も打った親しい間柄でもある。

「上手くいきますかねぇ」とAさんは言った。
話の様子から、Aさん自身はフリースペースに余り乗り気ではないことが窺えた。
「Aさんが率先して自分のデスクを無くしたら、スタッフは一斉に右に倣えするんじゃないですか」とボクは言った。

ボクたちの会社はスタッフ70人ほどの小さな規模の会社だから、フロアーも広くないので、誰がどこに居るか見渡せは分かるが、300人近い規模の大所帯となると、そうはいかない。
管理職の居場所が日替わりだと、所属長にハンコやサインを貰うのも手間がかかる。
だから、わが社のように、取締役やプロデューサーも全員をフリースペースにとはいかない事情もあるだろう。

「各々が自分のデスクを持てないことには、正直抵抗感はあるなあ」とAさんはチラッと本音を漏らした。
「でも、今回は実行するしか無いのでねぇ」

幸いにしてボクたちの場合は上手く運んだケースだが、聞くところによると、失敗例も多々あるようだ。
某テレビ局は他に先駆けてフリースペースにしたまでは良かったのだが、3ヶ月ほど経つ頃には、会社に現れる人たちの数が極端に減ってしまい、取りやめになったと聞いている。

また、別の会社では、何人かのボス的存在の者が、それぞれ自分たちの島を作り、やがて資料や荷物の積み放題となり、収拾がつかくなり、フリースペースの見直しを検討しているとの話もある。

それまでの慣行を改めて、何か新しいことを始めようとすると、さまざまな抵抗があり挫折するというのは、よく起こりがちな話だとは云え、働き方改革の思わぬ余波のひとつでもある。

日本全国各地に多くの支社や支局を持つ公共放送局は、働き方改革を守るために各地方局での人材増を迫られているようだ。
即戦力に対応できる人材として同局で定年を終えた、65歳以上のOBにも呼びかけているが、人材の確保に苦労しているようである。

こうしてみると、働き方改革は、労働力不足の日本をさらに労働力不足に追い込んでいるようにも思えるが、ただ、それも、そうした資金力のある大きな会社は、人を増やすことも出来るし、場合によっては、それに見合った広いスペースも新たに準備することも出来る。
しかし、ボクたちのような大して体力の無い会社は、何とかしないと生き残れないので、現状の中で必死に工夫を凝らすしかない。

もともと、働き方改革は働く者の権利や生活の向上を目指すものでは勿論なくて、日本経済の国際競争力を強化するために、生産性を上げるためのものであることは遍く知られているところである。
そのためには、力のある組織を更に強化し、弱い体質の組織は消滅させようとの施策である。

優勝劣敗は世の習いとは申せ、弱者にとっては益々厳しい時代となったものだ。
しかし、変化の激しい乱世は、それはそれで面白い。

そこでどう対応するかを試行錯誤して、自らの道を新たに切り拓いて行こうとの意志を持ち続けることは、結果がどうあれ、刺激あるチャレンジで、また良し、と考えている。
そして、いかなる時でも忘れてならないものは、自由な職場の雰囲気を維持することと、そこから生み出される自由な発想である。

      「スペースも 働き方も フリーでGO!」




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家族の幸せと仕事

ここのところ、子供への虐待や育児放棄などのニュースが盛んに流れている。
単純に、ああ!又か、とも感じるが、そんな事件が昔と比べて増えているのか、減っているのかは定かではない。

いまから50年近く前も「子捨て、子殺し誰がした」などというタイトルのドキュメンタリーがあったのを覚えている。
ボク自身も「上野駅前交番日記」という番組を作った時に、上野駅のコインロッカーからビニール袋に入れられテープでグルグル巻きにされた赤ちゃんが見つかり、撮影した経験がある。
袋の所々から滲みだした血の映像がいまも網膜に焼き付いている。
当時は「コインロッカーベイビー」という言葉が定着するほどにしばしば起きていた事件だ。

産んだ子の処置に困って捨てるのと虐待とは同じに扱えないだろうが、調べてみれば、それぞれのケースの裏にはそれぞれの事情があり、そこから特異性と普遍性が見つかるだろうし、ひとくくりの事件として扱うことは出来ないだろうとも思える。

例えどんな事情があろうとも許されざる者とは云え、その者が犯した過ちの経緯と原因や背景について考察すれば現在ならではの社会の姿や問題点が見えてくるのだろうと思う。

先日、男性スタッフのひとりが、4歳になる娘を連れて出社した。
ボクたちの会社には幼い子供を持つ母親たちも何人かいて、しばしば子供たちが会社に顔を出す。

せっかく娘が来たのだから一緒に昼飯でも食べようということになり、スタッフ数人と連れ立ってレストランに行った。
初めのうちは温和しく猫を被っていても、やがて本性を現すのが子供というものだ。
次第に活発に動き出し、父親を困らせる。
とても表情の豊かな可愛い子でボクたちはそんな父娘を好ましい思いで眺めていた。

クルクル動き回って、なかなかままならない娘の面倒をみながら
「小田さんの若い頃と子供の育て方もずいぶん違ってきたのでしょうね」
と若い父親は言った。

統計やデータがどうなのかは分からず、ただの印象にしか過ぎないが、確かに当節、若い父親の意識が変化してきたと感じる。
特に子育てについて母親に協力する父親たちが多くなったとの印象がある。
3.11東日本大震災をきっかけにして結婚したカップルも多いと聞く。
「寄り添う」との言葉が流行り、社会の最小単位としての家族の絆が見直された観がある。

時代が作り出す風潮は、いかにも不思議で、ボクの若い頃の家族や仕事への感覚は、とても現在では通用しないものだった。
とにかく仕事を何よりも優先させ、二番目が遊び、家族は三番目と考えていた。
勿論、個人差はあっただろうが、周囲にそういう人たちが多かったことは確かだ。

仕事柄、多くの人たちと会って飲むことが日常だったので、どこからが仕事でどこからが遊びなのかその境も混沌としており、24時間が仕事であり、遊びだった。

そして、ボクたちは、この仕事をする限り、親の死に目には会えなのも当然のこととして受け止めていた。
妻の二度のお産には勿論立ち会わなかった。
家族旅行などもしたことはない。
そういう類のことは軟弱に思えた。
放蕩無頼そのものだった。

歳を重ねて少しは分別もついてきた今から振り返ると、別れた妻にも娘たちにも申し訳なかったとは思うが、今さら取り返しはつかず、従って謝ることもない。

無責任極まりないお話で、これを書きながら自分でも嫌になるが、家庭のことはすべて妻に任せた形の一種の家族放棄で、本質的には冒頭に記した虐待や育児放棄と何ら変わらない行為だったとも思う。
しかし、仮に、もう一度人生をやり直せるとして、まっとうな道を歩むことができるとの自信が無いのも正直なところである。

そんなことを考えながら、幸せそうな若い父親と可愛い娘の姿を飽きることなく見ていた。

      「時流れ ひと変われども 消せぬシミ」  


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あるヘッドハンティング会社からの電話

ひと昔前のテレビ時代劇で「必殺シリーズ」が流行ったことがあった。
恨みを晴らしたい、殺したいと願う依頼人からお金を受け取り、殺人を代行する請負人たちのドラマである。
いわば殺人代行屋のお話である。

考えてみれば、殺人などの物騒なことはやらないが、現実の今の世にも、色んな案件を本人に代わって代行する職業は多い。
司法書士や弁護士、会計士や税理士、旅行代理店や広告代理店などの代理店業務も代行の仕事である。
また、引っ越し業者とか運送業、便利屋、家政婦なども代行屋さんである。

近頃、話題になった新しい代行屋は、独り暮らしで孤独に耐えられなくなった人のために、疑似家族をセッティングするとか、好きな人がいるが自分では告白できない人に代わって告白を代行するとか、バーチャルな世界を演出したり、本来ならば当事者が自分で行わなくては意味の無いようなことも業者が請け負うケースも増えているようだ。

そんな代行屋を取材したというフリーのディレクターと直接話したことがあるが、片思いの告白を依頼した件は成就したのか?と聞くと、ダメだった、ということで、そりゃあ、そうだよね、と納得した。

ボクたちと同業の知り合いの場合は、入社して間もない新入社員が、作業を放り出して突然姿を消し、スタッフたちが捜していたら、代行屋から電話があり、本人が辞めたいと言っているので、今後は退社の手続きはその代行屋がやるということになったそうだ。
「昨今の状況が状況だけに、新入社員には特に気を配っていたのに、辞める理由がまるで分からない。ましてや代行屋に頼むなんてねぇ……」と知人は首をひねっていた。

これらの話を見聞きしていると、どうやら現在は直接のコミュニケーションを苦手とする人たちが増えているようにも思える。
それ位の始末は自分で付けろよな、と思うし、そんなことを他人にお金を払って済ませてしまうとの考えは少しばかり歪んで見える。
そして、そういう稼業が成り立っていること自体が、恐らく碌な世ではないことを物語っているのだろう。

つい先日、一本の電話を受けた。
スタッフが「おそらく営業の電話だと思うのですが、余りにも具体的なので………」と遠慮がちにボクに取り次いだ。
ボクたちの仕事には全く関係の無い営業の電話も多く、スタッフも心得ていて、普段はボクに取り次がれることはほとんどない。

「R社というスカウト会社の○○ですが……」と受話器から元気の良い女性の声が飛び込んできた。
そして、ボクなども良く知っている二社の制作会社の社名を挙げ、そこの企画制作担当者たちを紹介したいと言う。
「その人たちは転職を希望しているのか」を質すと「いや、そういうことではなくて、もし御社が希望されるならばお役に立ちたい」と答えた。

「そういう話には興味はありませんので」とボクは即座に応えると「何もご心配に及ぶことはありません。トラブルになることなどありませんし、人材確保のために……」と押してくる。
「申し訳ありませんが、他人様の会社の人材を引き抜く気は全くありません。それ位の矜持は持ち合わせておりますので」とさらに応えるとその女性営業担当者は「はあ……?」と訳が分からないという声を出した。

仲間内でもある同業者の人材に手を付けるなど泥棒と同じだ。
いくら競争社会であっても守るべき最低の仁義はあるだろう。
転職が当たり前となった今、そんな考えは時代遅れなのだろうか。

そう云えば、転職を斡旋してそれを商売にしている会社も確かに多い。
わが社でも看護師たちの労働現場を取材したことがあるが、転職斡旋業者の悪徳とも思える世界が存在していることも知った。
ヘッドハンティング会社が悪いという訳では無いし、今さらの新しい商売でもないが、ボクの性には合わない。

ここ10数年で日本の労働文化が大きく変わった。
それと共に働く形も変化している。
経営者も働く側も共に双方の考え方に変化が起きている。

今年の5月には、経団連会長や経済同友会代表幹事、それにトヨタ自動車社長らが口をそろえて次々と終身雇用制の放棄宣言をした。
すでに年功序列型の賃金体系が崩れ始め、それと補完関係にある終身雇用も若い労働者を中心に転職する者が多くなり、少しづつ変容してきているようだ。

経済成長が見込めない現状では、各企業は生産性の低い労働者を切り捨てるためにも、終身雇用制が邪魔になるし、新卒の一括採用から能力重視の通年採用への流れも同様で、役に立つ人材確保のための動きにも拍車がかかる。
生産性向上が最重要の下では有能で役に立つ人材の青田買いが認められ、大学生の就職活動の形も変化する。

経団連は採用や教育の在り方を大学と定期的に話し合う産学協議会を設置した。
大学が産業界の要請を受けて学生に教育していく体制も整いつつあるようだ。
大企業の要請に応じた人材を提供できる優秀な大学とそうでない大学との格差がますます広がり、統廃合の果てに優勝劣敗の図が展開されることになるのだろう。
資本主義社会の宿命とは云え、弱肉強食の過当な競争社会の行き着く先は、誰もが想像できる不安図だ。

古い話で恐縮だが、今を去る事56~7年前、ボクたちが大学生で、早稲田闘争の頃のスローガンに、アメリカ帝国主義反対と並んで産学協同反対が叫ばれた時代もあった。
ボクなどは正直言って、当時それが何を意味するものかはよく理解していなかったが、今ではそんな動きに疑問を呈する雰囲気はない。

ボクも産学協同のすべてに反対するつもりは無いが、ただ大学が大企業の生産性を高めるために必要な社員の養成機関になり、学問の府としての役割を見失っていくのではないかとの懸念を持つ。

今に始まったことでもないが、経済優先の、お金に一番の価値を求める社会ならではの商法や犯罪が横行している。
勝手に売り買いしてはならぬ個人情報を平気で売買したり、さまざまな手口を駆使しての詐欺は勿論のこと、詐欺まがいの商売も増え、先ほどのスカウト会社じゃないが、転職を促してお金にしたりと、倫理や道徳はおろか、義理も仁義をも欠いた行為が大手を振って世を席巻する様は見るに堪えない。
人や組織や、もっと大きくは国を含めて社会の信頼関係の崩壊を招くことになるのではないかと恐れる。

トランプ大統領は世界の経済に手を突っ込み、かき乱している。
政治を商売の道具としている。
平和よりも混乱の世を生み出し、それを商売に繋げ利益を得ようとしているかに見える。

そんな世界情勢の中で、日本がどのような道筋で生き続けて行くかは確かに難しい。
経済で遅れを取ることは避けなければならないのは理解できるが、そのことによって失われるモノの大きいことを忘れてはならないと思っている。
新たな価値観の発見が求められている。

      「金儲け 踊らにゃ損そん 泡踊り」




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Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

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