株式会社オルタスジャパンの代表・小田昭太郎の日記です。テレビ業界を愛し、ドキュメンタリーを愛し、にんにくを偏愛する馬鹿社長のひとりごとにお付き合いください。
毎年、年明け早々には会社の近く、赤坂山王下にある日枝神社で数人のスタッフと共にお祓いをして貰うのだが、今年は少しばかり時期をずらしての初詣となった。
境内は人も少なめで、緊急事態宣言下でもあり、コロナ感染予防の宣伝がよく行き届いている様子だ。
それでもお祓いに来る人たちは後を絶たず、20数人が一緒に祈祷を受ける。
ソーシャルディスタンスとやらで透明のビニールで仕切られた中で聞く巫女の神楽の鈴の音も弱々しく、いまひとつ冴えない。
神様の力を以ってしてもコロナには歯が立たぬようだが、そんなことは皆も百も承知の上で、一同揃って神妙に頭を垂れている。
神主の唱える祝詞を聞いていると、都内は勿論、千葉、神奈川、茨城など遠くからわざわざ出向いている人たちの多いことにも、いつもながら驚く。
これが信仰なのか、はたまた慣例に従った、ただの行事なのか、ボク自身も良くは分かっていない。
大阪府堺市のボクの実家は代々浄土真宗で、法事の際には親戚一同が集まり、真宗のお坊さんを家に呼んで経を唱えて貰い、説教を聞く。
近所付き合いだからと宗派の異なる日蓮宗の寺にも祖父が形だけのお墓を作るのを子ども心に不思議に思ったこともあった。
小学生の頃まで台所にカマドがあり荒神さんを祀っていた。
現在、ボクたちの会社には神棚があり、榊を欠かすことはないが、この神棚は実は32年前に会社を設立した際に、知り合いの天台宗の尼さんにお願いして祀って頂いたもので、正確には密教の仏壇である。
そこに日枝神社のお札を祀っている。
その仏壇を祀ってくれた天台宗の庵主さんによれば、日枝神社の日枝(ヒエ)は比叡山天台宗の比叡(ヒエ)とつながるので、神でも仏でもまったく問題はありませんと笑顔だった。
どこをとっても、神仏混交で、実に大らかだ。
さて、ここからはボクの妄想の与太話となるので真面目に受け取らないで頂きたい。
毎日、神棚の榊の水を代えては手を合わせるのだが、信仰心があるか、と問われたら「ありません」と答える。
それでは信仰心は無いのか、と言われれば「あるかのかもしれません」と、これも曖昧である。
それではボクは何に向かって手を合わせているのか。
仏壇の神棚に向かってはいるが、お釈迦様でも、ましてや天照大御神でないことだけは確かだ。
実はボクは無宗教なのだ。
ところで、現在も大差はないとは言え、特に大昔の世界は食料も乏しい上に自然災害も多く飢えや疫病に苦しみ、常に戦争の絶えることのない世情不安定な時代が延々と続き、人びとは貧困や恐怖や不安に満ち溢れる中で日々を送っていたであろうことは想像に難くない。
灯りも乏しく、一日の半分以上の時間は真っ暗闇の中での暮らしだった。
迷信やお化けや妖怪も簡単に受け入れられただろう。
そして苦しく絶望的な日常の中で人びとは救いを求めていたに違いない。
何か安心できるもの、せめて心だけでも平安を約束してくれるものを渇望していただろう。
仏教やキリスト教やイスラム教など現在も存続する宗教はそんな人びとの救いの受け皿として信仰の的となったと思われる。
世の中の実相や真理を探究し人の生き方を追い求める哲学にプラスして神や仏などの絶対的権威を加えたのが宗教だとボクは理解しているのだが、神や仏は人間が創り上げた概念である。
とても優れているが、いわばフィクションであり方便だから誰も神に会うことは出来ないし、ましてやその存在を証明することもできない。
信じる人びとの心の中にだけ存在している。
それでもそれで救われるのだとすれば、その価値を否定するものではない。
何を信じようと、救いを求めようと、それはそれぞれの自由だ。
哲学の真理だけでは人は救われないのだ。
しかし宗教は人を救う役割を果たす一方で、ずいぶん大きな悪さもして来た。
教祖と呼ばれる人たちが説いた真理や教理が弟子と称する人たちや後世の多数の人びとによって新たな考えが加えられ、また多様な解釈がなされ、ある意味では改ざんされて来た。
それらの宗教は体系化されて組織化され、いくつかの宗派に分かれ、それぞれが巨大な教団となる。
そして権力化した組織は、永く続けば続くほど腐敗する。
腐敗した宗教は人びとをひとつの考えに縛り付け、人びとの自由を奪い、しばしば誤った方向にも導く。
人間はエゴを捨て去れない生物だから、それぞれが自分の都合の良い形で宗教を利用することになり、その宗教が求めていた教理とはまったく別の方向に向かって暴走することにもなる。
その時代、時代に沿った形で政治権力に利用された宗教は、原理主義に背中を押され、元来の教理を忘れ去り無法化もする。
その宗教の存在が巨大であればあるほど悪への暴走はさらに巨大化し誰にも止めることができないものとなる。
本来が善良なる人びとも内なるエゴを抑制できずに暴力にも頼る暴走に巻き込まれていくことになる。
そんな無数の事例をボクたちは歴史に学んだし、そして今も、同じ現象を日常の世でも十分に見聞きし体験している。
科学が進歩して、宇宙や地球の誕生から始まり、生物がどのように進化して人類が現在に至ったのかのあらましも徐々に明らかになり、さらに人類の滅亡から地球や宇宙の消滅までの時間も予測できるようになった。
まだ科学で解明されない事象は圧倒的に多いが、理屈に合わない不思議はなくなった。
それでも多くの人が神という名のフィクションに縛られ続ける不思議な世界が存在している。
人はそれほどに宗教を必要としていることは確かなのである。
そして絶対的権威を戴く宗教を嫌い無宗教者だと称し、哲学に価値を認めながら、会社の一隅に神棚を祀り、毎日手を合わせている自分がいる。
人間は祈らないではいられない弱い動物だからなのか、依頼心が強いのか、あるいは全宇宙の法則を支配するまだ解明されていない偉大な力に対してなのか。
いやはや、どれもがそうであるようで、そうではないようだ。
ボクの場合、その正体はしばしば訪れる「苦しいときの神頼み」であることがどうやら一番本音に近い答のようである。
「神仏よ これが最後よ お願いよ」

境内は人も少なめで、緊急事態宣言下でもあり、コロナ感染予防の宣伝がよく行き届いている様子だ。
それでもお祓いに来る人たちは後を絶たず、20数人が一緒に祈祷を受ける。
ソーシャルディスタンスとやらで透明のビニールで仕切られた中で聞く巫女の神楽の鈴の音も弱々しく、いまひとつ冴えない。
神様の力を以ってしてもコロナには歯が立たぬようだが、そんなことは皆も百も承知の上で、一同揃って神妙に頭を垂れている。
神主の唱える祝詞を聞いていると、都内は勿論、千葉、神奈川、茨城など遠くからわざわざ出向いている人たちの多いことにも、いつもながら驚く。
これが信仰なのか、はたまた慣例に従った、ただの行事なのか、ボク自身も良くは分かっていない。
大阪府堺市のボクの実家は代々浄土真宗で、法事の際には親戚一同が集まり、真宗のお坊さんを家に呼んで経を唱えて貰い、説教を聞く。
近所付き合いだからと宗派の異なる日蓮宗の寺にも祖父が形だけのお墓を作るのを子ども心に不思議に思ったこともあった。
小学生の頃まで台所にカマドがあり荒神さんを祀っていた。
現在、ボクたちの会社には神棚があり、榊を欠かすことはないが、この神棚は実は32年前に会社を設立した際に、知り合いの天台宗の尼さんにお願いして祀って頂いたもので、正確には密教の仏壇である。
そこに日枝神社のお札を祀っている。
その仏壇を祀ってくれた天台宗の庵主さんによれば、日枝神社の日枝(ヒエ)は比叡山天台宗の比叡(ヒエ)とつながるので、神でも仏でもまったく問題はありませんと笑顔だった。
どこをとっても、神仏混交で、実に大らかだ。
さて、ここからはボクの妄想の与太話となるので真面目に受け取らないで頂きたい。
毎日、神棚の榊の水を代えては手を合わせるのだが、信仰心があるか、と問われたら「ありません」と答える。
それでは信仰心は無いのか、と言われれば「あるかのかもしれません」と、これも曖昧である。
それではボクは何に向かって手を合わせているのか。
仏壇の神棚に向かってはいるが、お釈迦様でも、ましてや天照大御神でないことだけは確かだ。
実はボクは無宗教なのだ。
ところで、現在も大差はないとは言え、特に大昔の世界は食料も乏しい上に自然災害も多く飢えや疫病に苦しみ、常に戦争の絶えることのない世情不安定な時代が延々と続き、人びとは貧困や恐怖や不安に満ち溢れる中で日々を送っていたであろうことは想像に難くない。
灯りも乏しく、一日の半分以上の時間は真っ暗闇の中での暮らしだった。
迷信やお化けや妖怪も簡単に受け入れられただろう。
そして苦しく絶望的な日常の中で人びとは救いを求めていたに違いない。
何か安心できるもの、せめて心だけでも平安を約束してくれるものを渇望していただろう。
仏教やキリスト教やイスラム教など現在も存続する宗教はそんな人びとの救いの受け皿として信仰の的となったと思われる。
世の中の実相や真理を探究し人の生き方を追い求める哲学にプラスして神や仏などの絶対的権威を加えたのが宗教だとボクは理解しているのだが、神や仏は人間が創り上げた概念である。
とても優れているが、いわばフィクションであり方便だから誰も神に会うことは出来ないし、ましてやその存在を証明することもできない。
信じる人びとの心の中にだけ存在している。
それでもそれで救われるのだとすれば、その価値を否定するものではない。
何を信じようと、救いを求めようと、それはそれぞれの自由だ。
哲学の真理だけでは人は救われないのだ。
しかし宗教は人を救う役割を果たす一方で、ずいぶん大きな悪さもして来た。
教祖と呼ばれる人たちが説いた真理や教理が弟子と称する人たちや後世の多数の人びとによって新たな考えが加えられ、また多様な解釈がなされ、ある意味では改ざんされて来た。
それらの宗教は体系化されて組織化され、いくつかの宗派に分かれ、それぞれが巨大な教団となる。
そして権力化した組織は、永く続けば続くほど腐敗する。
腐敗した宗教は人びとをひとつの考えに縛り付け、人びとの自由を奪い、しばしば誤った方向にも導く。
人間はエゴを捨て去れない生物だから、それぞれが自分の都合の良い形で宗教を利用することになり、その宗教が求めていた教理とはまったく別の方向に向かって暴走することにもなる。
その時代、時代に沿った形で政治権力に利用された宗教は、原理主義に背中を押され、元来の教理を忘れ去り無法化もする。
その宗教の存在が巨大であればあるほど悪への暴走はさらに巨大化し誰にも止めることができないものとなる。
本来が善良なる人びとも内なるエゴを抑制できずに暴力にも頼る暴走に巻き込まれていくことになる。
そんな無数の事例をボクたちは歴史に学んだし、そして今も、同じ現象を日常の世でも十分に見聞きし体験している。
科学が進歩して、宇宙や地球の誕生から始まり、生物がどのように進化して人類が現在に至ったのかのあらましも徐々に明らかになり、さらに人類の滅亡から地球や宇宙の消滅までの時間も予測できるようになった。
まだ科学で解明されない事象は圧倒的に多いが、理屈に合わない不思議はなくなった。
それでも多くの人が神という名のフィクションに縛られ続ける不思議な世界が存在している。
人はそれほどに宗教を必要としていることは確かなのである。
そして絶対的権威を戴く宗教を嫌い無宗教者だと称し、哲学に価値を認めながら、会社の一隅に神棚を祀り、毎日手を合わせている自分がいる。
人間は祈らないではいられない弱い動物だからなのか、依頼心が強いのか、あるいは全宇宙の法則を支配するまだ解明されていない偉大な力に対してなのか。
いやはや、どれもがそうであるようで、そうではないようだ。
ボクの場合、その正体はしばしば訪れる「苦しいときの神頼み」であることがどうやら一番本音に近い答のようである。
「神仏よ これが最後よ お願いよ」



未だに青臭いことばかり言っては嗤われているのだが、今よりもずっと青い頃から、エイリアンの総攻撃でもない限り、人類は争いを止めたり、各国一致団結して協調することなど出来ないのだろうな、などと思っていた。
しかし、人間同士の抗争は、そんなに生易しいものではないことが、今回の新型コロナウイルスの登場で証明された感がある。
新型コロナウイルスの世界の感染者数は9700万人を遥か越え、死者は200万人以上を数える。
100年に一度とも言われているそんな脅威にさらされながらも、人間は国家エゴをむき出しにして、いがみ合い、共通の敵に対して力を合わせることが出来ないでいる。
もっとも、新型コロナウイルスが人類を滅亡に追いやるほどの脅威であると考えている者はいないだろうし、やがては必ず何らかの形で収束するであろうから、エイリアンの攻撃とは比べものにはならないかもしれない。
それでもそれに匹敵するほどに世界中を揺るがす未曾有の大事件となっているにも関わらず協力し合えないでいる。。
ワクチンの開発でも、その分配においても各国は協調できず争奪戦を演じている。
アメリカのトランプ元大統領に象徴されるような、自国第一主義のナショナリズムは世界に広まり、国内だけではなく、国際間での分断をも深めることになっている。
そして、それは同時に世界的な民主主義の危機を招くこととなる。
新型コロナウイルスによる世界同時感染がそんな事実を露わにさせると共に、その動きを更に推し進めている。
コロナ対策の下で、独裁や強権政治の台頭を人びとは許容し賛美し始める。
そして人びとはますます強いリーダーシップや強権政治を自ら強く求めることになる。
いまボクが一番恐れるのは世界に広がるこの思考の流れだ。
アメリカのバイデン新大統領は就任直後に、パリ協定への復帰やWHO脱退の取り消しなど、これまでのトランプ元大統領の政策を大幅に是正して国際協調路線に舵を切り直しているが、果たして世界の潮流を変えることはできるのだろうか。
日本国内に目をやれば、特措法が国会で議論され、通過される運びとなっている。
これまで罰則規定がなかったコロナ対策に罰金や刑事罰を課そうとの内容である。
例えば、営業時間の短縮や休業などの要請に応じない業者が法律により罰せられることになる。
国民が感染拡大防止に向けて最大限の努力をして、そのためにある程度の痛みを我慢すべきことは当然のことである。
しかし、それぞれにとっては痛みの限界があり、保障がセットになってもそれでは生き残れないケースも多々あろう。
国民に対して政府が求めるのは自粛要請までにすべきだとボクは思っている。
なぜなら、直近の東京都の調査によれば都内各所盛り場での飲食店の9割以上が政府の要請をうけて時間短縮要請を順守している現実がまずある。
いま問題になっているのは感染者の拡大もあるが、最も危惧されているのは、それら感染者を受け入れる医療設備の不足にある。
昨年の春に端を発したコロナ感染から間もなく1年が経とうとしている。
昨年の4月には一度目の感染拡大があり、緊急事態宣言が発出された。
その時も医療崩壊の危機という言葉を何度か耳にした。
そして専門家たちからは、秋から冬にかけては更に大きな感染拡大が起きるとの警鐘が鳴らされ、医療体制の整備についての提言もあった。
しかし、この間、政府や各県の知事は医療設備へのどんな対策を進めていたのか。
現在の根本問題は唯一、医療のひっ迫なのである。
特に日本の場合は、医療崩壊さえ起きなければ、この程度の感染者や重症者の数で大騒ぎなどする必要は無いはずである。
これまでの政府の経済を優先する政策は十分に理解できるし積極的に支持するが、一方で危惧されていた医療崩壊への対応が全くおろそかにされていたことは批判されて良い。
日本の病院のベッド数が足りていない訳でもなく、医者や看護士の数が不足している訳でもない。
ただ仕組みへの取り組みが不足していただけの話である。
それに対応するだけの時間や資金が無かったとも言えない。
現政権の不支持率が支持率を大きく上回った今になって、政府自民党は民間の病院への対応を慌てて模索し始めている。
目前に迫っている解散総選挙への思惑や政権争いに精力を傾けるばかりで、医療対応にまで本気で取り組もうとしなかったのが本当の所だろう。
そのことを棚に上げて、野党も含めて政治家たちが国民に罰則を課すのは筋が通らないのではないか。
それに9割を大きく超す飲食店の自粛やここまでの国民の気の配り以上の何を求めるのか。
今さらなぜ罰則規定を法律に加えなければならないのかがボクには理解できない。
罰則への要望はずっと以前から維新の会の大阪府知事をはじめ各県の知事たちから出ていたことを今更ながら思い出す。
統治する側に立てば、号令一下の政治体制はいかにも便利だ。
しかし、統治される側に立てば、号令一下は恐ろしい出来事なのである。
今回の飲食店等々への罰則規定の法令化は、些細な出来事とも見えるが、こういう政治手法が当然のこととして行われ、国民が当然のこととして受け入れて行く過程に危惧を持つ。
針の先ほどの小さなほころびから大きな土手が崩れて行くとの事実をボクたちは知っている。
ボクが気になるのは、統治する側とはそういうものであることを知っているにも関らず、国民自らが、増幅する不安や恐怖それに利便性に負けて無批判に自らが統治する側の立場に立ってしまうことである。
「そのマスク 役に立たぬは そりゃないぜ」

しかし、人間同士の抗争は、そんなに生易しいものではないことが、今回の新型コロナウイルスの登場で証明された感がある。
新型コロナウイルスの世界の感染者数は9700万人を遥か越え、死者は200万人以上を数える。
100年に一度とも言われているそんな脅威にさらされながらも、人間は国家エゴをむき出しにして、いがみ合い、共通の敵に対して力を合わせることが出来ないでいる。
もっとも、新型コロナウイルスが人類を滅亡に追いやるほどの脅威であると考えている者はいないだろうし、やがては必ず何らかの形で収束するであろうから、エイリアンの攻撃とは比べものにはならないかもしれない。
それでもそれに匹敵するほどに世界中を揺るがす未曾有の大事件となっているにも関わらず協力し合えないでいる。。
ワクチンの開発でも、その分配においても各国は協調できず争奪戦を演じている。
アメリカのトランプ元大統領に象徴されるような、自国第一主義のナショナリズムは世界に広まり、国内だけではなく、国際間での分断をも深めることになっている。
そして、それは同時に世界的な民主主義の危機を招くこととなる。
新型コロナウイルスによる世界同時感染がそんな事実を露わにさせると共に、その動きを更に推し進めている。
コロナ対策の下で、独裁や強権政治の台頭を人びとは許容し賛美し始める。
そして人びとはますます強いリーダーシップや強権政治を自ら強く求めることになる。
いまボクが一番恐れるのは世界に広がるこの思考の流れだ。
アメリカのバイデン新大統領は就任直後に、パリ協定への復帰やWHO脱退の取り消しなど、これまでのトランプ元大統領の政策を大幅に是正して国際協調路線に舵を切り直しているが、果たして世界の潮流を変えることはできるのだろうか。
日本国内に目をやれば、特措法が国会で議論され、通過される運びとなっている。
これまで罰則規定がなかったコロナ対策に罰金や刑事罰を課そうとの内容である。
例えば、営業時間の短縮や休業などの要請に応じない業者が法律により罰せられることになる。
国民が感染拡大防止に向けて最大限の努力をして、そのためにある程度の痛みを我慢すべきことは当然のことである。
しかし、それぞれにとっては痛みの限界があり、保障がセットになってもそれでは生き残れないケースも多々あろう。
国民に対して政府が求めるのは自粛要請までにすべきだとボクは思っている。
なぜなら、直近の東京都の調査によれば都内各所盛り場での飲食店の9割以上が政府の要請をうけて時間短縮要請を順守している現実がまずある。
いま問題になっているのは感染者の拡大もあるが、最も危惧されているのは、それら感染者を受け入れる医療設備の不足にある。
昨年の春に端を発したコロナ感染から間もなく1年が経とうとしている。
昨年の4月には一度目の感染拡大があり、緊急事態宣言が発出された。
その時も医療崩壊の危機という言葉を何度か耳にした。
そして専門家たちからは、秋から冬にかけては更に大きな感染拡大が起きるとの警鐘が鳴らされ、医療体制の整備についての提言もあった。
しかし、この間、政府や各県の知事は医療設備へのどんな対策を進めていたのか。
現在の根本問題は唯一、医療のひっ迫なのである。
特に日本の場合は、医療崩壊さえ起きなければ、この程度の感染者や重症者の数で大騒ぎなどする必要は無いはずである。
これまでの政府の経済を優先する政策は十分に理解できるし積極的に支持するが、一方で危惧されていた医療崩壊への対応が全くおろそかにされていたことは批判されて良い。
日本の病院のベッド数が足りていない訳でもなく、医者や看護士の数が不足している訳でもない。
ただ仕組みへの取り組みが不足していただけの話である。
それに対応するだけの時間や資金が無かったとも言えない。
現政権の不支持率が支持率を大きく上回った今になって、政府自民党は民間の病院への対応を慌てて模索し始めている。
目前に迫っている解散総選挙への思惑や政権争いに精力を傾けるばかりで、医療対応にまで本気で取り組もうとしなかったのが本当の所だろう。
そのことを棚に上げて、野党も含めて政治家たちが国民に罰則を課すのは筋が通らないのではないか。
それに9割を大きく超す飲食店の自粛やここまでの国民の気の配り以上の何を求めるのか。
今さらなぜ罰則規定を法律に加えなければならないのかがボクには理解できない。
罰則への要望はずっと以前から維新の会の大阪府知事をはじめ各県の知事たちから出ていたことを今更ながら思い出す。
統治する側に立てば、号令一下の政治体制はいかにも便利だ。
しかし、統治される側に立てば、号令一下は恐ろしい出来事なのである。
今回の飲食店等々への罰則規定の法令化は、些細な出来事とも見えるが、こういう政治手法が当然のこととして行われ、国民が当然のこととして受け入れて行く過程に危惧を持つ。
針の先ほどの小さなほころびから大きな土手が崩れて行くとの事実をボクたちは知っている。
ボクが気になるのは、統治する側とはそういうものであることを知っているにも関らず、国民自らが、増幅する不安や恐怖それに利便性に負けて無批判に自らが統治する側の立場に立ってしまうことである。
「そのマスク 役に立たぬは そりゃないぜ」



やっぱりな、欲望の前には、人は同じ過ちをくり返すものなのだな……。
これが安倍首相辞任の報を聞いた時の率直な感想だった。
第一次安倍政権時代に病気のために首相を辞任したことがあった。
タイミングはともあれ、それはそれとして仕方のないことだったとは思う。
病魔に襲われたことは不幸で気の毒なことだった。
しかし今回は、自民党の党則を変えてまで総裁の任期を無理やり延長し、しかも同じ病気での職務半ばの辞任だっただけに、申し開きは立たない。
首相本人は残念な思いだろうが、経緯から考えると本来は、深刻な持病の悪化は辞任の理由には出来ない筈である。
己を知らぬということであろうし、同時にそれを含めて、責任ある首相の器ではなかったという証明でもあるのだろう。
責任を果たさぬ、いかにも安倍首相らしい結末である。
職を辞した者を悪く言うのは潔ぎ良しとしないが、それにしても恥を知らぬ無責任政権だったと思う。
恐らくボクたちが知っていたかつての自民党ならば、多くの閣僚の不祥事や失言が驚くほど頻繁に続き、それに対して政権が責任を取らない時点で、自民党良識派の長老たちからの一喝があった筈で、森友・加計学園問題や桜を見る会騒動も起きることは無かったと思う。
公文書改ざんなどを含め、その後も党ぐるみの大きな選挙違反で河井前法相夫妻が逮捕されたり、総合型リゾート(IR)事業をめぐる贈収賄事件で秋元内閣府副大臣が逮捕されるなど、政権内部の腐敗ぶりは目に余るものがあった。
上層部の腐敗は、その組織そのものを下部に至るまで腐らせて行く図が絵に描いたように生じている。
告発の声を上げようとした地方の官僚を自殺にまで追い込みながら、調査を拒否し、闇に葬ろうとしている。
野党のやる気なさはもとより言語道断だが、頼むべき自民党の自浄作用もまったくその機能を喪失してしまった。
忖度という流行語まで生み出した政治手法は日本の脆弱な民主主義を更に危うい存在に劣化させている。
ボク自身がそうであるように、元来、民とは常に口さがない存在で、それぞれが無責任に勝手なことを言うものだが、民の声の中には的を得ているものもそれなりに存在し、それが民意となる。
現政権が、図らずもこの民意から大きく乖離していることを世間に明らかにしたのが新型コロナウイルスへの諸々の対応だったことは周知である。
コロナの鋭い光の矢が安倍政権の本質を見事に射抜いた。
不祥事の度に陳謝し、改めることなく同じ不祥事を幾度となく平然と繰り返して来た政権も、コロナにはその手は通じなかった、というのが実相だろう。
アベノマスクの配布で従順な国民もさすがにあきれ果て、支持率は過去最低の数字となっていた。
マスコミでは、7年8か月に及ぶ安倍政権の功罪について論じられている。
立場によって、良くやった、との論調もあれば、批判的な見方をするものもある。
ボクは良く分からないが、結局は大企業だけが栄え、圧倒的大多数の労働者が貧しい、格差社会を作ることとなっている、と思うし、これまでの不透明で言い逃れに終始する政治手法は民主主義にとって危険であるとも思う。
そして何より、官邸がマスコミの人事にまで干渉したことはとても危ないことだと感じている。
それはマスコミ側の忖度だったとの側面があったにせよ、である。
マスコミの側には権力からの介入をはねのけるだけの気概と矜持を求めたい。
安倍政権だけに限らす、権力とはもともとそういうものだからである。
古くから、新聞は「権力のチェック機構」であると言われて来た。
現在では新聞と並びテレビ報道も同様の立場にある。
権力は腐敗するし、暴走もする。
それをチェックするのが報道であると言って良いだろう。
司法、行政、立法の三権分立が民主主義社会の根本だが、「第4の権力」と称される報道機関がそのチェック機能を果たして健全な民主主義を守る、との考えである。
これは憲法で保障された言論、出版の自由に基づくものだ。
特に、安倍政権の7年8か月の間、マスコミの世界はその機能を真剣に果たして来たのか、との反省はある。
政権への忖度は無かったと言い切れるのかどうか。
そして、権力と同様に民意もしばしば暴走する。
マスコミは民意のチェックも果たさなければならない。
利害得失で動く世の中の事象を丹念に取材し、その資料に基づいて不偏不党の立場で広く伝えることが報道の役目だ。
マスコミが伝えるべきものは各事象の事実と真相である。
その意味で、「第4の権力」と称されるのだが、どこの機関からも独立して事実や真相の報道に対するいかなる圧力や干渉も許さない、とのマスコミ側の矜持が揺らぐことがあってはならないのだ。
いま、次の総理の座とその後の組閣人事等々をめぐりマスコミを賑わせているが、これとて前もってのシナリオ通りに進行している茶番劇に過ぎない。
安倍政権の権益構造をそのまま継続していく為のなれ合い政治の延長に映る。
これが果たして民意なのか、そうでないのかはボクには分からない。
審判を下すのは国民である。
時は否応なく流れ、事態は刻々と変化する。
その状況に応じて、考え方や価値観も変化する。
どの選択が正しく、何が間違っているのか、そんなことは誰にも分からない。
その中にあってニュース報道は、事実を見つめ、出来る限り正確にその事実を伝えて行く。
そして報道ドキュメンタリーはそれらの事象や現象の裏に潜む真相や実相をあぶり出し、その事実を踏まえ、社会の在り方や人の生き方を考えるための問い掛けを広く社会に伝えるために存在するのである。
「首すくめ 眼を閉じてれば 嵐去り」

これが安倍首相辞任の報を聞いた時の率直な感想だった。
第一次安倍政権時代に病気のために首相を辞任したことがあった。
タイミングはともあれ、それはそれとして仕方のないことだったとは思う。
病魔に襲われたことは不幸で気の毒なことだった。
しかし今回は、自民党の党則を変えてまで総裁の任期を無理やり延長し、しかも同じ病気での職務半ばの辞任だっただけに、申し開きは立たない。
首相本人は残念な思いだろうが、経緯から考えると本来は、深刻な持病の悪化は辞任の理由には出来ない筈である。
己を知らぬということであろうし、同時にそれを含めて、責任ある首相の器ではなかったという証明でもあるのだろう。
責任を果たさぬ、いかにも安倍首相らしい結末である。
職を辞した者を悪く言うのは潔ぎ良しとしないが、それにしても恥を知らぬ無責任政権だったと思う。
恐らくボクたちが知っていたかつての自民党ならば、多くの閣僚の不祥事や失言が驚くほど頻繁に続き、それに対して政権が責任を取らない時点で、自民党良識派の長老たちからの一喝があった筈で、森友・加計学園問題や桜を見る会騒動も起きることは無かったと思う。
公文書改ざんなどを含め、その後も党ぐるみの大きな選挙違反で河井前法相夫妻が逮捕されたり、総合型リゾート(IR)事業をめぐる贈収賄事件で秋元内閣府副大臣が逮捕されるなど、政権内部の腐敗ぶりは目に余るものがあった。
上層部の腐敗は、その組織そのものを下部に至るまで腐らせて行く図が絵に描いたように生じている。
告発の声を上げようとした地方の官僚を自殺にまで追い込みながら、調査を拒否し、闇に葬ろうとしている。
野党のやる気なさはもとより言語道断だが、頼むべき自民党の自浄作用もまったくその機能を喪失してしまった。
忖度という流行語まで生み出した政治手法は日本の脆弱な民主主義を更に危うい存在に劣化させている。
ボク自身がそうであるように、元来、民とは常に口さがない存在で、それぞれが無責任に勝手なことを言うものだが、民の声の中には的を得ているものもそれなりに存在し、それが民意となる。
現政権が、図らずもこの民意から大きく乖離していることを世間に明らかにしたのが新型コロナウイルスへの諸々の対応だったことは周知である。
コロナの鋭い光の矢が安倍政権の本質を見事に射抜いた。
不祥事の度に陳謝し、改めることなく同じ不祥事を幾度となく平然と繰り返して来た政権も、コロナにはその手は通じなかった、というのが実相だろう。
アベノマスクの配布で従順な国民もさすがにあきれ果て、支持率は過去最低の数字となっていた。
マスコミでは、7年8か月に及ぶ安倍政権の功罪について論じられている。
立場によって、良くやった、との論調もあれば、批判的な見方をするものもある。
ボクは良く分からないが、結局は大企業だけが栄え、圧倒的大多数の労働者が貧しい、格差社会を作ることとなっている、と思うし、これまでの不透明で言い逃れに終始する政治手法は民主主義にとって危険であるとも思う。
そして何より、官邸がマスコミの人事にまで干渉したことはとても危ないことだと感じている。
それはマスコミ側の忖度だったとの側面があったにせよ、である。
マスコミの側には権力からの介入をはねのけるだけの気概と矜持を求めたい。
安倍政権だけに限らす、権力とはもともとそういうものだからである。
古くから、新聞は「権力のチェック機構」であると言われて来た。
現在では新聞と並びテレビ報道も同様の立場にある。
権力は腐敗するし、暴走もする。
それをチェックするのが報道であると言って良いだろう。
司法、行政、立法の三権分立が民主主義社会の根本だが、「第4の権力」と称される報道機関がそのチェック機能を果たして健全な民主主義を守る、との考えである。
これは憲法で保障された言論、出版の自由に基づくものだ。
特に、安倍政権の7年8か月の間、マスコミの世界はその機能を真剣に果たして来たのか、との反省はある。
政権への忖度は無かったと言い切れるのかどうか。
そして、権力と同様に民意もしばしば暴走する。
マスコミは民意のチェックも果たさなければならない。
利害得失で動く世の中の事象を丹念に取材し、その資料に基づいて不偏不党の立場で広く伝えることが報道の役目だ。
マスコミが伝えるべきものは各事象の事実と真相である。
その意味で、「第4の権力」と称されるのだが、どこの機関からも独立して事実や真相の報道に対するいかなる圧力や干渉も許さない、とのマスコミ側の矜持が揺らぐことがあってはならないのだ。
いま、次の総理の座とその後の組閣人事等々をめぐりマスコミを賑わせているが、これとて前もってのシナリオ通りに進行している茶番劇に過ぎない。
安倍政権の権益構造をそのまま継続していく為のなれ合い政治の延長に映る。
これが果たして民意なのか、そうでないのかはボクには分からない。
審判を下すのは国民である。
時は否応なく流れ、事態は刻々と変化する。
その状況に応じて、考え方や価値観も変化する。
どの選択が正しく、何が間違っているのか、そんなことは誰にも分からない。
その中にあってニュース報道は、事実を見つめ、出来る限り正確にその事実を伝えて行く。
そして報道ドキュメンタリーはそれらの事象や現象の裏に潜む真相や実相をあぶり出し、その事実を踏まえ、社会の在り方や人の生き方を考えるための問い掛けを広く社会に伝えるために存在するのである。
「首すくめ 眼を閉じてれば 嵐去り」



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【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役
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