ホーム

株式会社オルタスジャパンの代表・小田昭太郎の日記です。テレビ業界を愛し、ドキュメンタリーを愛し、にんにくを偏愛する馬鹿社長のひとりごとにお付き合いください。

大きな声では言えないお話

少しばかりお恥ずかしい話をする。

ボクたちの会社は9月決算を行っている。
説明するまでも無いことだが、毎年、10月から翌年9月までがボクたちの1年で、この12ヶ月間の収支で決算を行う。

現在は8月の半ば過ぎなので、間もなく〆の期限である9月が来る。
売上高は、ほぼ前期同様で横ばい状態なので、それはそれでまずまずなのだが、利益が減る見通しである。
これは頭の痛い問題だ。

本来会社は増収増益を目指す。
収入は前期並みでも増益ならば良いのだが減益はいけない。
収支は赤字になることは無い見通しだが、ギリギリのところにあるので、お金の使い方については少しばかり引き締めて、気を使う状態が続いている。

会社設立以来、これまで30回ほどの決算をしてきているが、最近ではお蔭さまで黒字の決算が出来ている。
そして、得た利益はスタッフに分配することを原則とし、実行してきた。

先だって、大手銀行の営業担当者が株式上場の話を勧めに来た際に、会社が赤字決算をした場合の銀行の厳しい対応についての話を聞いた。

赤字額が1千万円であろうと1円であろうと、赤字は赤字であること、同様に、1円であろうと黒字は黒字であるとの判断を銀行はする。
そして、それまで黒字を出していた会社が一度赤字決算を行うと、途端にその対応は変わり、例えば、銀行からの借り入れ等についても基準は厳しくなり、同時にその利息も高利になるという。
その後黒字を出しても、一度赤字を出した会社が銀行の信用を取り戻すのに最低5年はかかるとの話も聞いた。

それまで、少しくらいの赤字ならば良いだろう、位に決算について軽く考えていたのだったが、世の中はそんなに甘くはないことを改めて知ったのだった。
銀行マンの友人にその話をすると、お前は相変わらず呑気な奴だなあ、と笑われた。

そう云えば、会社を立ち上げてからしばらくの間は帝国データバンクや東京商工リサーチなどの企業信用調査会社からの調査がしばしば入ったことを思い出す。
調査を依頼した会社の名前は明かしてくれなかったが、テレビ局だったのかどこかの企業だったのか、調査会社はわざわざ会社まで訪ねて調べに来たものだった。
今では、毎年一度、決算期の電話での確認だけで済んでいる。

それでも、テレビ局によっては、大型のレギュラー番組企画を提出した際には、現在でも決算書の添付を別途要求されることがある。
本当に年間通じて制作を続けるだけの会社としての体力があるかを確かめられる訳だ。

税務署に提出する厚さ1センチに満たない決算書類を見れば、その会社の財務内容のすべてが分かる。
今更ではないが、決算内容とは会社にとっては、良くも悪くも、とても重要な意味を持つ。

その意味では数字がすべての判断基準となり、いくら評判の良い番組を制作したのだから、などと言ってみたところで銀行などの金融筋にとっては評価の対象とはならず、何の役にも立たない。
プロデューサーやディレクターの制作者としての誇りなどは数字の前では一蹴される厳しい現実がある。

今期は売上高に関しては前年並みだったにも拘らず、収入が伸び悩んだのには大きくは二つの原因がある。
そのひとつは、価格破壊とも言えるテレビ局による制作費の削減に因むものである。
特に、民放のBS番組などは信じられない低予算の番組が多い。

直接的な原因としては、わが社の制作陣がそれに見合った制作対応が出来なかったということである。
例え低予算であってもテレビ局のプロデューサーは番組のクオリティーを求めてくるので、番組の質は落とせない。

例えて言うならば、特上の天丼を並みの天丼にすると、明らかに質は落ちるので苦情が来る。
しかし、特上の天丼を作るだけのお金はない。
この矛盾をどう解決するかの知恵が求められる。

つまり、簡単に言うと、質を落とすのではなくて質を変える知恵と工夫が求められる。
これまでの特上の天丼を例えば、特上のサラダにすることによって、制作費に見合った特上の料理を提供できる訳である。
質の変化への頭の切り替えが求められる時代になった。
この対応が出来ていないことが一つ目の理由である。

また、民放BS局に限らず、いくら工夫しても赤字が出てしまう番組制作上の構造的な理由による赤字番組もある。
それを解決するためにはテレビ局側の金銭的、人的協力を必要とするが、それが叶えられないケースもある。

そういうレギュラー番組については、泣く泣く降板させてもらった。
レギュラー番組を自ら捨て去ることは、安定収入を捨てることに等しいので本来ならば有り得ないのだが、制作すればするほど赤字が増えるのでは致し方ない。
今年の4月から、そんな番組をひとつ整理した。
4年以上続けて来ていたわが社にとって思い入れのある番組だったのだが血を吐く思いで決断した。

もうひとつは、プロデューサーの予算管理能力の欠如である。
これは資質と責任感の問題である。
少ない予算でも、立派に仕事をし終えるプロデューサーもいる。

適応能力の欠如した人材の整理もやむを得ない厳しい状況も生じている。
情だけでは対処しきれない時代の流れがある。
これらの諸問題を踏まえて、それなりの大ナタを振るわざるを得ない局面もあった。
意識や人事を含めて改革も進んでいるので来期を期したいと考えている。

そんな事情で、今期は減収の見込みにあり、例年7月末に支給している夏季一時金の支給を見合わせた。
今の所、9月末の様子を見て、決算賞与という形で10月初旬に時期をずらせて支給するつもりでいるが、果たしてどうなるか。

この間の事情はすでにスタッフ全員に伝えた。
経営の責任者として忸怩たるものがあり、頑張っているスタッフに対して申し訳ない思いと悔しさで一杯である。

そんな気持ちでいる時に、人づてにあるスタッフの言葉が耳に入った。
「一時金が支給されないことは残念だが、それは自分たちの責任だ。自分たちの働きが悪いからだ。赤字を出さないように工夫してがんばりたいと思う」

そう語ったのは40代前半の中堅のプロデューサーだったことを、ボクにその話を伝えてくれた別のスタッフから聞いた。
こういう言葉を聞くことが出来るとは実は想像もしていなかった。

夏季一時金を予定通りには出せないことを、申し訳ない思いでスタッフたちに伝えた時も、スタッフの間に特別の動揺も感じられなかったし、それについての不満の声も直接、間接にボクの耳には届いてはいない。

しかし、その中堅スタッフの言葉は、頼もしく、月並みな表現になるがとても嬉しかった。
これ以上の励ましはなかった。
これまで、それなりの苦労をして会社をやってきて良かった、と心の底から思った。
まるでボクへの臨時ボーナスだった。

夏季一時金の支給の遅延を会社全体の問題として捉え、さらにそれを自らの責任として考えることの出来るスタッフは決して多くはないだろう。
しかし、こういう人材が一人でもいてくれる限り、ボクたちの会社の将来は安泰である。

       「がんばるぜ まだがんばれる あと少し」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。




蟻とサラダ

毎度ながらの与太話で申し訳ないとは思いつつ。

会社の女性スタッフたち数人と赤坂サカスの食堂にランチを食べに入り、それぞれ思い思いの定食を注文した。
早速、いまでは当たり前になった定番のグリーンサラダが運ばれてくる。

「あ、何、コレ!」とテーブルのはす向かいに座っていた経理を担当しているボクの娘の声がした。
見ると、娘に配られたサラダの野菜の上を少し大きめの蟻が元気よく歩いている。

ボクは無意識のうちに手を伸ばしてその蟻を捕まえようとした。
「駄目よ、お父さん」と娘は言って、ボクの動きを制した。
すかさず、他の女性たちが店員を呼び、新しいサラダを持ってこさせた。
大騒ぎをするでもなく、一瞬の出来事だった。

「何をしようと思ったの?」と娘はボクに聞いた。
「蟻くらい払いのければ良いんじゃないかと思ってさ。別にわざわざ新しいものと取り替えてもらわなくても」と言うボクに「駄目だよ。汚いよ」と虫嫌いの娘は言い、他の女性スタッフたちも「そうですよ」と口をそろえて娘に同調している。
「へえー。そんなもんかね」とボクはサラダを頬張った。

ボクはこれまで蟻を汚いと思ったことが一度も無かった事に改めて気づいた。
マンションで暮らす近頃でこそ、蟻などを含めて、虫を見ることが少なくなったが、子どもの頃から、ずっと一軒家で住んでいた10年ほど前までは、周囲には蟻はいつもいたし、ハエや蚊や他の色々な虫たちを毎日目にしていた。
ドングリの木もあったし、家の裏には土手の草むらも広がっていた。

近頃トンとお目にかからなくなったが、ハエには多少は汚い感はなくもない。
しかし、それとて取り立ててどうと言うほどの観念はない。
食べ物にたかってくれば追い払う程度だ。
衛生上どうかは考えたこともない。
特に蟻とは大人になってからも良く遊んだので親しみさえ持っている。

「昔は米にはコクゾウムシがいてね。米を炊く前に選り分けるのだけど、しばしば一緒に炊きこまれていたもんだよ」とボクはいかにも年寄りじみた話をした。
「嫌ねえ」とみんな眉をひそめている。

子どもの頃は米穀通帳があって米がまだ配給制度だった。
1960年代まで配給制度は続いたが、その頃にはいわゆるヤミ米が実際に流通していたように思う。
有名無実になってからも、米穀通帳は1981年(昭和56年)の食糧管理法が改正されるまで残っていたようだ。

貧しかったからなのか、配給米だけでは足りなかったのか、幼稚園に通っていた戦後間もない昭和22~3年頃は、麦の入ったご飯やサツマイモの入ったご飯を食べた記憶がある。
麦ご飯はパサパサして好きではなかった。

夕食で炊いたご飯はおひつに入れて、食べきれなかった残りを翌朝に食べたりするのだが、そこに大量の蟻が入り込んでいたりする。
そんな蟻ごはんも食べた記憶がある。
今の時代なら大騒ぎのあげく惜しげもなく捨てるのだろうが、その時代はそんな勿体ないことは出来なかったのだろう。

そんな話を交えてすると、女性スタッフたちは、ますますオェーという顔をしている。
だから、年寄の話は嫌なのよ、と思っている。

少し小洒落た和食屋のランチなどに行くと「白いご飯が良いですか、五穀米が良いですか」などとお店の人が注文を聞く。
ボク以外の女性たちはその全員が決まって「五穀米!」と声を揃える。
何が入っているのかは正確には知らないが、米・麦・粟・豆・きび・ひえなどを炊き込んだものなのだろう。

「五穀米は身体にも良いのよ。値段は高いけどね」と妻も圧倒的に五穀米派である。
貧しかった頃には、誰もが銀色にピカピカ光る白い米を食べることを熱望しつつも、仕方なく麦やひえなどの雑穀で我慢していたに違いないのだが、飽食の時代にあっては、わざわざ高いお金を払って雑穀入りのご飯を喜んで食べている。
時代の変化とは云いながら、人とは不思議な生き物である。

時代の変化は、歳の所為なのか、多くの面で感じることは多いが、暮らしで見るとその環境は圧倒的にきれいになったし、衛生的にもなった。
疫痢や赤痢、腸チフス、寄生虫など不衛生が原因の病気は余り耳にしなくなった。
生活環境が整備され、衛生的で健康的になることはとても良いことだ。

しかし、これはボクの独善と偏見に満ちた独断だが、良いことと悪いことは表裏の関係で、それぞれのその総量は一定なのではないかと勝手に思っている。
だから風船のように、どこか凹めば、その分どこかが膨らむように、良い面が増えれば同量の悪い面が現れる。
平和が続くと平和を壊そうとする勢力が力を伸ばす、といった具合である。

それと、人間の欲望にはキリは無いので、一旦ひとつの方向に向かうと、どこまでも突き進んでいく。
美容や健康志向などはそのもっとも分かり易い例だが、ダイエットに夢中になって、栄養失調で亡くなったり、健康を害する女性たちは後を絶たない。
健康に気を配る余り、サプリメントにハマり過ぎたりする。
過度な健康志向が健康を損なう原因となるのは皮肉なことだ。

時節柄、思わず声を潜め少しばかり小声になるが、タバコに対する攻撃などは度が過ぎているとも思っている。
タバコの箱を見ただけでビクつく様子を、先日偶然目にしたのだが、その過敏な反応には逆に驚かされた。
ここまでくればまるで信仰の世界で理屈を越えていて、すでに立派な病気のようにも見える。

ことほど左様に、すべての事象は表裏の関係にあり、エネルギー凹凸の原則に支配されている。
環境が整備されればされる程に、それに反比例して人は免疫を失うのかどんどんひ弱になって行く。
寄生虫を駆除したお蔭てアトピーなどが増えたとの研究結果もあるし、大気汚染が原因なのかどうかは知らないが、昔は多くなかった花粉症などで悩む人たちが急増し、花粉の飛び交う季節になると、マスクをした怪しげな人の群れで街は賑わう。

そして、社会の管理化と共に精神を病む人間も増加する。
ひと昔前、アメリカ社会では都市部の多くの市民が掛かり付けの精神科医がいるとの話を聞き、アメリカは病んでいると思ったことがあったが、その状況は今の日本にそのまま当てはまる。

イギリスやアメリカ、ドイツなどと比べるとまだまだ少ないと言われているが、それでも日本人の10人に一人の割合でうつ病患者がいるようだ。
現実に、ボクの身の回りにもうつ病で苦しむ人たちが沢山いるのだが、このデーターを見てナルホドと納得がいく。

自殺者については平成28年度の警察庁の統計では、2万1897人で、男性は1万5121人、女性は6776人にのぼり、世界で6番目に多い。
女性は3位ということだ。
これらうつ病や自殺者の数と環境の整備やそれに伴う管理社会との因果関係については分らないが、無関係では無いと思われる。

一方、国連が発表した2017年度の世界幸福度ランキングでは155ヶ国の中で日本は51位だった。
幸せは経済の繁栄だけでは得られないということかもしれない。
もっとも、数字はあくまでも数字に過ぎないが、それでも何かを推測するための参考にはなる。

ボクは日本の風土は好きだし、今の自分の暮らしに特別の不満がある訳では無い。
ある程度、好きなようには生きさせて頂いている。
しかし、日本の社会がより住みやすい所であることを願うし、同時に、今進みつつある世の在り方に不安を感じることは確かである。

社会が整備され、社会の管理化が進めば進むほど世の中は窮屈になり、息苦しくなるとの矛盾を生む。
神経過敏な現代人を増加させ、当初の目的には無かった裏腹の不健康を初めとする様々な不都合を生み出す。
どこかで折り合いをつけなければならないのだが、人の持つ欲望は限度を知らないから、妥協は無く、行き着くところまでどこまでも突き進む。

そういう社会では、汚いものや変わったものは異物として排除されるだろうし、物事の規格化が進む。
規則の増加に伴い、やってはならない禁止事項が増える。
ますます人をがんじがらめの環境に追いやる。

形や制度への規制はその土台となる思想の規制に及んでくる。
それが怖い。
想像を逞しくすれば、やがて人工知能が人間社会を管理し、人間は人工知能の支配下に入ることになることは充分に予測できる。

「美しい国」を提唱する団体が現在大きな力を持って存在している。
美しいとの概念はとても抽象的で必ずしも定型がある訳では無い。
美しさは人によって異なる筈なのだが、これが美しい国だとの押し付けが行われることになることは必定でそれが怖い。

「美しい国」と「神の国」は同義語であるとボクは思っているのだが、そんな思想が当たり前に大手を振ってまかり通るような社会だけは絶対に御免だ。

ボクたちの暮らす日本の社会が進もうとしている道を決めるのはボクたちである。
今、日本は将来の日本の国の形を決める分岐点にいることだけは間違いない。

        「夏来れば 厚着の準備 冷房病」

にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。



核兵器の無い世の中は来るか

去る7月7日、核兵器の開発や保有、使用などを法的に禁止する初めての国際条約が、ニューヨークの国連本部で開かれていた条約交渉会議で賛成多数で採択された。

この日の交渉会議には国連加盟193カ国中124カ国が出席、投票の結果122カ国が賛成した。
アメリカ、イギリス、フランスを初めとする核保有国は「現実の安全保障環境を考慮すべきだ」として強く反対。
アメリカの核の傘の下に入る日本は、核軍縮を前進させるためには、核保有国と非保有国の協力が不可欠との立場から条約に反対し、他の核保有国と歩調を合わせこの会議をボイコットしている。

条約案が採択された瞬間の様子をニュースの映像で視たが 各国の代表から大きな拍手と歓声が上がり、市民社会の代表として参加した広島の被爆者も立ち上がって拍手を送るなど、抱き合って喜び合う賛成参加国のスタッフたちの姿はとても印象的だった。

9月20日から各国の署名手続きが始まり、批准国数が50カ国に達した後、90日を経て発効することになっていて100ヶ国以上が加盟する見通しのようだ。

ただし、批准しない国には効力がない。
したがって、肝腎の核保有国やそれに同調する国家群が数多く反対している現実の世界では、国連での採択の喜びとは裏腹に、実効性という点ではその効力は無いに等しい。

日本政府は3月の交渉会議でも「北朝鮮の脅威といった現実の安全保障問題の解決に結びつくとは思えない」と表明し、5核保有国などと共にボイコットした経緯がある。

ボクには世界の安全保障についての知識は皆無なので、例えばこういった核兵器の扱いをどうすれば良いのか等の高度な軍事的、政治的判断に関して云々することは到底出来ないことは知っている。
しかし、核保有国を初めとしてそれらの国々に追従する日本の姿勢には違和感を持つ。

核は兵器に限らず原発も含めて20世紀以降の人類の最大の脅威であり続けていることは論をまたない。
不幸にして科学の力が産み出したこの脅威は、どうしても地球から消滅させなければならないことだけは確かである。

しかし、核保有国は自国の防衛と他の国家に対する威圧のために核兵器を手放そうとはしない。
これを核の抑止力と称しているが、この考えを持ち続けている限り、核兵器が地球から無くなる可能性は永遠にない。

本来ならば、ここで唯一の被爆国と言われている日本の出番がある筈である。
日本がアメリカの属国と云えば言い過ぎかもしれないが、日本の総選挙にも介入、アメリカの意向を汲まない総理大臣は決まって潰されることは周知だ。
しかも安全保障に関しては、日本は100%アメリカの支配下にある。

しかし、日本の自業自得とは云え、かつてアメリカにふたつの原爆を落とされ多くの市民が死傷し、甚大な被害を蒙ったという歴史的事実がある。
そして今なお被爆で苦しみ続けている人たちがいる。

安全保障とは別の視点から、核兵器の持つ意味については、日本独自の意見は言える筈だし、また言わなければならない。
日本が選択すべき道は、核兵器保有国とは別にあると考える。

しかし、もっと現実的な見方をすれば、日本が国連の核兵器禁止の国際条約に反対する本当の理由は、アメリカへの配慮だけではなく、実際に日本も核保有国となることを望んでいる可能性も高い。
そうだとすれば話は別で、とんでもないことだ。

いずれにしても、今回の国連への日本の対応と選択についての異議が野党から出ない日本は相当に病んでいる。
本来はこういった、国の在り方に関する議論が必要だと思えるのだが、今の日本の政治状況はとてもお粗末で、まともな政策論議が行われない形になっている。

それも当然と云えば当然で、現在の日本に本気で国民のために闘おうとする野党は存在しないし、政治の世界は政争に明け暮れているのが実情だ。

圧倒的多数の国会議員を擁している自民党は、その数に溺れ傲慢不遜な、国民を愚弄した政治姿勢で自ら墓穴を掘り、盤石に見えていた安倍政権も怪しくなっている。
驚くばかりの数々の自民党議員の低レベルの不祥事に続き、PKO日報問題で稲田防衛大臣が辞任に追い込まれ、森友学園の国有地払い下げ売却問題、加計学園問題等々で内閣支持率が危険水域まで急落している。

今回の加計学園疑惑についてもその仕掛け人は総理の座を狙う農水族の石破茂だとの一部報道があったが、その真偽は別として自民党内部もガタつき始めている。

これら一連の動きは、一種の権力の腐敗の結果でもあり、自民党内部の安倍下ろしとも相まってもいるのだろうが、長い腐敗の時間を経て、一度失った信頼は簡単には元には戻らないことは必定だろう。
内閣の改造人事位では信頼は回復できない。
実際、自民党の新三役の言を聞いても、これまでの自民党政治に対する反省の色はまったく見られない。
逆に開き直りともとれる言動に終始している。

官邸主導の政治力学に反発する官僚の力も大きく作用しているのだろう。
従来ならば、ここまでの多数の不祥事があり、様々な疑惑に対して明確な説明が出来ず、政治の混乱を招けば政権が交代しても不思議ではない筈だ。

しかし、一方、民進党はと云えば、蓮舫代表が辞任するなど、本来受け皿となるべき野党第一党が下手をすれば解党の危機さえ迎え兼ねないなど、現在日本の政界は混乱の極にある。

余談ながらトランプ大統領が率いるアメリカも日本と同様に政権内部は崩壊状況にあるようだが、アメリカも日本も株価が安定しているためなのか、何とか持ちこたえている格好で、その様子が両国共によく似ている。

早くも政界に解散風が吹き始めている。
たとえここで解散しても国民は選ぶ政党が見つからず、史上最低の投票率の結果、結局は自民党が多数を占めることになり、自民党は「みそぎ」が終わったと、再び現在と同様の政治を行うことになる可能性は高い。

安倍首相の求心力は既に失われていると思われるが、次の首相が誰になっても、240名を越える日本会議のメンバーを抱える自民党にあっては、似たり寄ったりの王政復古を目指す民族主義の極右政治家がリーダーシップを握る図式は変わらない。
今後中央政界に乗り出して来ることになっている都民ファーストの小池新党も同様で、小池知事も日本会議のメンバーだ。

日本会議は周知の通り、天皇を元首とする政治体制を目指す民族主義の団体である。
当然ながら、王政の復活であり、民主主義は否定される。

今回の組閣を見ても、公明党の石井啓一国交相以外全員が「日本会議国会議員懇談会」「神道政治連盟国会議員懇談会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のどれかの議員連盟に所属歴がある「靖国」派の政治家だ。
この人事を見て分かることは、安倍政権を中心に、自民党執行部は、かつての太平洋戦争を反省するどころか「自存自衛」「アジア解放」のための「正義の戦争」であったと、どうしてもあの戦争を正当化したいと云う強い意志が存在することである。

こう考えると、やや絶望的で、日本の将来に灯りは見えないように思われる。
しかし……である。

絶望的と云えば、核兵器の未来も同様だ。
それでも、今回の国連の決議のその効力に疑問があるとは云え、国連に加盟している100ヶ国以上の国々の非核化への意志表示は尊くその持つ意味は重い。

このことは、日本の憲法第9条を連想させる。
戦争の絶えることのない地球上に在って、戦争を放棄するとの宣言は一見無防備で無謀にも見える。

しかし、この宣言は世界一の権力を行使する国家であるアメリカがかつて日本に与えた、皮肉な言い方をすれば、貴重な無形文化遺産である。
この憲法のお蔭で日本は平和国家として戦後の奇跡とも言える経済復興を遂げることができた。

核兵器の廃絶宣言も日本の憲法第9条の戦争の放棄も、共に国家の理念の宣言であり、不可能への挑戦でもある。
そして、その根底には平和を希求する強い思いと信念が共通して存在する。

残念ながら、現在、現実の世界は平和とは反対の方向に向かってエネルギーのベクトルが存在するかに見える。
しかし、そういう時代だからこそ、平和を求める理念こそが必要なのではないかと考える。
その理念に基づいた発言を繰り返し、行動を推し進めることの意味があるのではないか。

幸いにも、日本は地理的にも、極東というある種、地の果てに位置している小さな島国である。
ヨーロッパなどのように他国と地続きで国境を接することなく、周囲は海に取り囲まれている。
小さくは中国との小競り合いや北朝鮮との関係は存在するが、日本が平和の理念を本気で発信し、それに向けての邪心の無い行動を内外に示し、本気で解決する気になればそれほど難しい問題である筈はない。

対中国、北朝鮮に関しても、マスコミを使って大騒ぎして見せ、必要以上の危機感や緊張感を煽ることを止め、大人の知恵と胆力の外交こそが大切で、そこが本来の政治家の腕の見せ所ではないのか。

日本独自の外交のための、ひとつの試金石であり踏絵が、核兵器への対応であり、憲法第9条の堅持であると考えるのだが、青臭すぎるであろうか。
ここで敢えて軍事力を誇示し、わざわざ軍隊の存在をアピールする必要はないと思うし、軍事大国への道筋をわざわざ憲法に明文化することは、とりも直さず日本を戦争の危険により一層近づけることになるのは自明の理である。
愚かなことだとボクには思える。

日本の現在の政権は間違いなくその方向に照準を合わせて一直線で突き進んでいる。
ここで、その過ちを正せるのは民の力だ。

そのためにも、日本は常に民に主権が在り、民が政治を決定する、民を中心とする国家であり続けなければならない。
国民に主権の無い、天皇を国民の上に存在させるような王政の国家にしてはならないと考える。

自由も責任も含めてその全てを国民が負う国家で暮らしたいと願うからである。

       「第9条 原理主義者と 言うなかれ」





にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。





強欲で罪深い人間

何を今さら分かり切ったことを言うのだとのお叱りを受けるかもしれないが、それにしても、人間はなんと強欲で貪欲で罪深い存在なのかとつくづくと思う。

ボクたちの会社には、鉢植えの観葉植物が幾鉢かある。
その中で、幸せの木と呼ばれているドラセナが4鉢、パギラ、ベンジャミン各1鉢は会社の設立記念のお祝いに頂いたもので30年近くずっと一緒に過ごして来た。

設立当時のメンバー6人のうち男性3人は亡くなり、女性2人はすでに引退して、今ではボクだけになってしまったので、これらの木々は設立から現在に至るまでの喜びや悲しみを含め、会社のすべてを目撃してきた証人で、ボクにとっては、かけがえのない戦友だと思っている。

とは言っても、別に手入れをする訳でもなく、二週間に一度ほどの割合で如雨露でザブザブと水道の水をやるだけで栄養剤を与えたこともない。

それでも、幸せの木は年に一度か二度、決まった頃に白い花を咲かせ、芳醇で甘い香りを部屋中に漂わせてくれる。
ベンジャミンは、初めはきれいに整形されていたのだが、今では枝は伸び放題で、何の木か分からないほどのただの雑木のような姿になっている。
それでも彼らは、特に苦情を言うでなく、それぞれが思い思いに生き続けている。

しかし、考えてみると実に不思議である。
ボクの手元に来るまで、どんな環境で何年生きていたのかは知らないが、少なくともボクとは30年間それなりに元気に生き続けている。
しかも、水だけで生きて来たのだ。
水道水の水だけで生きて来た。

7~8年前になるだろうか、幸せの木のふっくらした一枝がわが社のゴミ捨て場に捨てられていた。
4鉢あるどれかの枝が折れたものだったのか、事情は分からなかったが、青々とした一枝だった。
ボクはその傷ついた戦友をビールのジョッキーにさして会社の流し場の棚に置き、毎日水を変えていた。
やがて根を出し始めて今なお元気に生き続けている。
植物の生命力はどこまでも逞しく、実にけな気だ。

ボクは毎朝、出社すると神棚の榊の水を変えるのを日課としている。
榊は冬場だと二週間から長い場合は一ヶ月は持つが、夏場の命は短い。
下手をすると一週間で枯れてしまう。

しかし、これら枯れた一束の榊の中に、ひっそりと生きている一枝や二枝がある。
ボクは捨ててしまうのが何だか忍び難く、馬鹿みたいにそれらの枝をえり分けてビーカーに集め、神棚に置いている。
中には根を張ったり、新芽を出ずものもいて、長い場合は一年以上も生き続ける。

彼らの生きるための仕組みは分からないが、その生命力は神秘的だ。
ボクはこれらの木々の命を預っているので、ここまで長く付き合っていると妙な責任感のようなものを感じながら彼らと接している。

ひとつ残念なことがあった。
もう一鉢同じ戦友のシュロの木があった。
会社の玄関の入った所に置いてあったのだが、ある日気が付くと無くなっている。
ボクは周囲の者にどこにやったのか、と尋ねたが誰も分からないと言う。

ボクたちのいる多聞堂ビルは、4階がメインのフロアーで、3階に会議室、5階にもうワンフロフー、編集室と倉庫用として使用している。
ボクが5階に行くことは滅多に無かったのだが、ある日、用があって行ったところ、そこに探していたシュロがあり、すでに枯れかけていた。

急いで水を与えたが時すでに遅し、である。
その後も未練がましく何度か水を与えたが、二度と生き返ることはなかった。
罪悪感と言うか、可哀そうなことをしたとの思いを未だに引きずっている。

木は自分で移動できないし、声を出せないので、その運命は置かれた環境次第という悲しい宿命を持っている。
しかも光や炭酸ガス、それに水さえあれば生きて行けるという控えめな命だ。
中には食虫植物などの変り種もあるにはあるが、ほとんどの植物は他の生命を殺して自らの生命を保持することはない。

それに引き替え、動物はどうか。
必ず他の生命を殺すことにより生きている。
草食動物もいれば肉食動物もいる。
そして雑食動物もいる。
そのどれもが、他の生命を糧にして生きている。

それでも、人間の感覚からすれば、獰猛で残酷そうに見える多くの野生動物も、その瞬間、瞬間に生きるための最小限の限られた範囲内の食糧を確保している訳で、必要以上の殺戮はしないし、ましてや楽しみとして捕食している訳ではない。

しかし、人間の場合はどうか。
その悪食ときたら驚くべきである。
眼に入るモノは何でも食べる。
食べないモノを捜す方が大変な位の貪欲さだ。
動物、植物、菌類に至るすべてを食べる。

食べるということは、改めて言うまでもないが、他の生物の命を食べることである。
学校の給食で、子どもたちが「いただきます」と言って食べ始めることに対して「お金を払っていて、別に頂いている訳ではないから、わが子にいただきます、と言わせないでくれ」とクレームをつける親は未だに後を絶たないという。

「いただきます」との言葉の解釈は多様だとも思うが、その根底には「命をいただきます」との意味も大きな要素としてある筈である。
この考えは常識と言っても良い。

しかし、この「いただきます」にクレームをつける親たちを無教養な人たちと切って捨てるのは簡単だが、彼らのことを笑えるほどボクたちは立派なのかと云えば疑問は残る。

かく言うボクとて、特別の信念がある訳でもなく、信仰心がある訳でもない。
美味しいものを食べたいし、美味しいものを食べた時は幸せだと思うし、また次も食べたいと思う。
食事の度毎に、食事にありつけたことに感謝し、命を頂いていることに思いを馳せることなどもほとんどない。
日常の生活の営みとしてごく当たり前に意識することなく行き過ぎる。
食べることは生きて行くためにどうしても必要な条件だから、無意識で通過していく。

しかし、そんな日常で時に、待てよ、と立ち止まらせられることがある。
例えば大食い競争のバラエティー番組やマグロの解体ショーだったり、遠洋捕鯨が問題になったりする時などがそうだ。

何の学術調査かは分からないが、各国の反対を押し切ってクジラに執着する日本の姿は異常だ。
この飽食の時代、ボク自身もクジラなどもう何十年も食べていないし、食糧としての必要性も意味もほとんど無い。
近海捕鯨ならいざ知らず、わざわざ遠くまで出かけて捕鯨することの意味が分からない。
単なる殺戮に見える。

ボクたちは大きな自然のサイクルの営みの中で生まれ、滅びて行く。
都会で生きる多くの人たちは普段は自然を忘れて生きている。
そして、大地震や大津波や台風や集中豪雨などに見舞われた時に自然の恐ろしさを知る。
初めて自然に畏れを抱くがすぐにそれを忘れ去る。
ボクたちが自然の中の一部の存在にしか過ぎないことの自覚と自然への畏敬を忘れる。

自然をコントロールしようなどとの大それた考えさえ持つ。
科学の力を盲信し、自然に反した行為も人類の勇猛果敢なチャレンジだと勘違いする。
原発などもその最たる人類の愚行だとボクは思っている。

ところで、かつてNHKの科学ドキュメンタリーで放送していたが、科学者に言わせれば、やがて地球はおろか宇宙そのものが無になるらしいが、当然のことながら、そのずっとずっと前に人間は滅びる。
これは生物学上の必然であるらしい。

気が遠くなるほどの未来の話にしても、そんな絶望的な番組は視たくないですよ、とあるNHKの科学番組のプロデューサーに愚痴ったことがある。

それはともかく、人類の生物学的寿命は永くはないが、その後、他の動物たちが絶滅しても、植物は恐らく最後まで生き続けるのだろう。
因果応報ではないが、他の生き物の命を求めない植物の強みだと思う。

ボクたち人間ひとりひとりの命は、悠久の歴史からみれば、ほんの一瞬のうたかたである。
虚しいが、一瞬の命だけに、より大切に生きたいと願うのは当然だ。
遥か遠い将来、人類の絶滅が約束されてはいても、この宇宙にあって、恥ずかしくない生物としての生き方をしなければならないと思う。

自分たちが他の生物のエサになることは絶対に嫌だが、自分たちは他の生物の命を食べなければ生きて行けない、との矛盾を人間は背負っている。
これは宿命で、努力でどうすることも出来ない。

命の尊さをいくら説いてみたところで、どこか後ろめたさが残る。
そして、行き着くのは「無駄な殺生はしない」との先人の教えである。

経済的繁栄が絶対的な価値を持ち、すべての事象が経済優先の現在の消費奨励の世に逆行する考えかもしれないが、より質素な暮らしへの見直しが本当は大切なのではないかと思っている。
特に、食に関しては、謙虚に命と向き合うことが、限られた人類の余命にとってとても大事なことだと思う。

ボク自身、偉そうなことを言える立場にはないが、一粒の米に命を感じる心が、本当は現在もっとも必要としている時代ではないかと思える。
 
     「旨いもの 何でもあるぜ バイキング」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。




差別意識の魔性

アガサ・クリスティ原作の名探偵エルキュール・ポアロが活躍するデヴィッド・スーシェ主演のドラマシリーズは、そのほとんど全部を視ているが、絶妙の謎解きの推理もさることながら、イギリス人やフランス人の人種観が巧みに描かれていて面白い。

主人公の探偵ポアロは、ベルギー南部フランス語圏の出身で、第一次世界大戦でイギリスに亡命してきた身長163センチの小男という設定になっている。

フランス語訛りの英語を話すので、主な舞台であるイギリスではフランス人と間違われ、フランスでは風采の上がらないフランス人と誤解されるので、その度に自分はベルギー人だと本気で怒る。

イギリス人もフランス人も世界の中心は自分たちの国だとの、世界の宗主国としての誇りが強くあるので、ポアロ探偵が怒ってみたところで、なおさらに、小国ベルギー人の存在など、歯牙に掛ける価値もない単なる外国人に過ぎず、どこか差別の眼で見下しているのだが、半ば馬鹿にしている、その小男が難事件を次々に解決していく面白さがある。

アメリカ人を小馬鹿にするシーンもしばしば登場する。
第一次世界大戦の頃という時代設定だから、現在と国際情勢は大きく変化しているとは言え、ヨーロッパ、特にイギリスやフランスから見るアメリカ人への偏見に溢れた様子は今に通じるものがある。

ここで、アメリカ大統領のトランプ一家を連想する、などとうっかり口を滑らせれば、あれはアメリカ人の象徴じゃあない、と怒るアメリカ人がいるとは思うが、いかにも西部劇にでも出てきそうな一時代昔の典型的アメリカ人像と重なって見える。
成り上がりの教養の無いアメリカ人がポアロシリーズで時々登場するが、まさにトランプ大統領を思い起こす。
その意味では時代は変わっても、国家観というか国民観、あるいは人種観などはそれほど変わらないものだなあ、と思ったりもする。

こういった種類の、人種や国の間での差別的な感覚を軽妙なジョークにする習慣はアメリカなどの酒場の寄席でしばしば演じられているようだ。
言い争っているアジア人らしき人たちを見たアメリカ人が「うるさいぞ、この中国人野郎たち!」と叫ぶと、それまで喧嘩していた連中が「俺は中国人じゃない、日本人だ」「俺は韓国人だ。中国人じゃない」と青筋を立てて、そのアメリカの白人に詰め寄る様を演じ、観客の白人たちが大笑いする、と言ったようなものである。

そういうネタをメキシコ人が演じたりする。
まあ、ボクたちも昔、白人を見れば、全部アメリカ人だと思っていた時代もあった。
人種に拘る滑稽さを小噺にしてみんなで笑い興じるのも多民族国家アメリカらしいが、根底にあるのは民族間の差別と誇りである。

ずいぶん昔のことになるが、ボクが取材でイギリスのロンドンを訪れ、通訳としてお願いした現地在住の日本人女性と共にレストランで食事をした時のことだった。
当時はまだ海外渡航に制限があって、特に日本に手持ちのドルが少なかったので、ドルにも持ち出し制限があった時代で、ロンドンとは言っても、それほど多くの日本人はいなかったし、旅行者も多くはなかった。

傍らのテーブルにイギリス人と思しき数人の老人たちがいたが、食事中ボクはその人たちの視線が妙に気になっていた。
食事が終わると通訳の女性はボクを急き立てるようにしてそのレストランを出るように促した。

後で分かったのだが、彼らは食事中、ボクたちを見ながら、ずっと日本人の悪口を言っていたらしい。
第二次世界大戦では日本が敵国だったこともあり、口汚く罵っていたという。
戦争が終わって24~5年しか経っていなかった頃だったので、まだ戦時中の思いを生々しく引きずっていた時代背景もあったのだろう。

それに加えて、黄色人種への差別もあり、とても彼らの会話の詳細をボクには伝えられないと、ロンドン在住の通訳の日本人女性は苦々しい顔をしながら言ったことを昨日のことのように覚えている。
奇しくも、初めてのヨーロッパ取材でいきなり人種差別という貴重な洗礼を受けたのだった。

差別については、それがどういうものであるかについてはある程度知ってはいた。
ボクの故郷である大阪府堺市には被差別部落や韓国朝鮮人部落などが多数散在しており、幼い頃から差別にまつわるそれこそ多くの情報の洪水の中で育った。

しかし、考えてみると、ボクはいつも差別する側にいて、差別される側の人たちを見ていたことに気付く。
英語を十分に理解できないボクにとっては知らぬが仏のような軽い体験だったに過ぎないのだが、ロンドンでのこの出来事は、自分が差別される側に立った初めての経験だった。
ボクが25歳頃のことである。

民族や人種間の差別などを初め、身分や職業や病気にまつわる差別など形は色々あるが、差別と呼ばれるそのどれも理不尽で正当な理由はない。
しかし、多くの人たちは差別する側に立つことの魔力からどうしても逃れることが出来ないようだ。
差別される辛さを知る者がまた別の者を差別するようなこともしばしば行われる。
こういった連鎖は人間の欲望と同様に、どうにも御しがたい行為であるのかもしれない。

常に差別を否定している筈のジャーナリズムの世界でも差別事件は起きる。
数年前に週刊朝日が当時大阪市市長だった橋本徹氏に関して被差別部落の出身だという情報を掲載し、問題になったことがある。

被差別部落民に対する偏見や差別構造が厳然と存在する現在の社会状況下では、仮にそれが事実だとしても、本人にとってはマイナスになるケースは往々にしてあるに違いない。
人々は何故か差別を好む習性があるからだ。

週刊朝日の意図の中にそういう悪意に近い差別意識が感じられるところに問題の本質がある。
やっぱりね、だからね、と不気味な笑みを浮かべて頷きあう表情をボクは子どもの頃から何度となく見てきた。
差別意識とはこのように、とても厄介な特別の意識で、理屈を越えて存在するので、余計に御し難い。

ところで、ボクたちの会社にも在日韓国人が1名、中国国籍の漢民族が2名、中国国籍の朝鮮族が1名在籍している。
このうちの2名が取締役として会社のリーダーとしての立場にある。
両名共に、今後会社を経営していく上で、更に重要な役割を担うことになる予定でいる。

現在、日本も国際時代の渦中にあり、人種や民族の垣根はかなり取り払われたとは言え、民族主義にこだわる人たちがその勢力を伸ばそうとしている時代でもある。
今後の日本社会が辿る道は計り知れないが、異民族が普通に平気に生きて行ける世であって欲しいものだ。

中国国籍の朝鮮族で常務取締役として財務を担当している妻は、当然、民族の誇りと同時に、いくばくかの不安も持っている。
わが社のスタッフに表向きには民族に偏見を持ったり差別するような者は見当たらない。
しかし、何かあった時、そういう意識が突然頭をもたげることが無いとは言えない。
それが差別意識の魔性というものだ。

妻はいま日本国籍を取得すべきかどうかについて本気で悩んでいる。

      「学んでも 消すに消せない 差別かな」


にほんブログ村 テレビブログ ドキュメンタリー番組へ にほんブログ村 テレビブログ プロデューサー・ディレクターへ 人気ブログランキングへ

ブログランキングに参加しています。クリックをお願いします。




プロフィール

馬鹿社長

Author:馬鹿社長
【小田昭太郎】
株式会社オルタスジャパン代表取締役

★ホームページ★

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR